2023年12月25日月曜日
昨日開催された「足立オンライン読書会」の報告となります。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)九章 人生は霊的巡礼の旅」161ページから164ページ2行目まで
161ページの最初に、次のようなことが語られています。
「われわれもバプテスマのヨハネのごとく、これから訪れる世界——平和と調和と愛と慈しみと和合の支配する世界——暴力が忘れられ、すべての者が人のためをモットーに助け合い、地上世界をさながら天国に変えていくための地ならしをしているところです。そういう世界は実現可能ですし、きっと実現します。」
今回の読書会の中で、その内容に対してさまざまな意見が交わされました。
みなさんの話を聞く限りでは、シルバーバーチを信頼しているからこそ、”いつか地上が天国のようになるということを信じたい”という気持ちと、”今の段階ではとてもそうなるようには思えない”という気持ちが入り混じっているように感じました。
もちろん私は、シルバーバーチが語るような世界になって欲しいと思っています。
けれども最近になって、霊の世界がそうであるように、地上の世界に於いても、棲み分けの方向に動いているという話をちらほら聞くようになりました。
スピリチュアルで言われている二極化などもそのように感じます。
また、読書会以外の人の意見では、「”地球人類が一つにまとまることは実現不可能である”という判断が(高次の世界から)出されたので、方針が変わったのです。」というものまでありました。
どれが正しいのかというよりも、シルバーバーチの霊団が、”われわれ”という言い方をしているので、全宇宙の全ての霊団やグループがシルバーバーチと同じ(ような)意見であるとは言えないのかもしれません。
私は(変わり者かもしれませんが)そのような視点を持っているので、どれが正しいのかという判断で終えるのではなく、”自分はどのような世界にしていきたいのか”を自分に問い続けています。
日々、私は妄想のようなことを思い浮かべているような人間ですが、自分ではとても実現不可能だと思えるような夢や目標を持つことが出来ません。
本当は大きな夢や目標を持ちたいと思ったことはありますが、たぶん、会社員を長年やってきて、しかも二十年くらいシングルファザーもやってきたので、自分自身ではちっちゃい夢や目標しか持てないみたいです。
それで結局、私自身は、私が出来る小さな範囲で”平和と調和と愛と慈しみと和合の支配する世界”となるように努力していきたいという結論に至りました。
具体的には、この地上世界で、”私と関わり合っている人たちの笑顔を見ていきたい”というのが、私の願いでもあります。
最後に、読書会の中で出された話の一つが『妻と飛んだ特攻兵』のことでしたので、興味のある方は見て欲しいと思います。
映像『妻と飛んだ特攻兵』2015年8月16日放送 (堀北真希 成宮寛貴)
文庫本『妻と飛んだ特攻兵 8・19満州、最後の特攻』(角川文庫 豊田正義)
シルバーバーチの霊訓を学んでいくと、時々、自己犠牲という言葉を目にしますが、実際にそれがどのようなものかは、人それぞれ違うように思われます。
いろいろと批評はあるかもしれませんが、今回紹介された作品は、自己犠牲のことも含めていろいろと考えるきっかけになりそうですね。私も後で両方とも見てみようと思います。
今回は以上となります。
2023年12月23日土曜日
昨日に開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書は、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第4章 機会の法則 1 神の慈悲 となります。
111ページ3行目、
「あなたは働いたり苦しんだりしなくていいですよ。カルマを清算しなくてもいいですよ」とは言いません。そのかわりにこういいます。
「わが子よ、私の愛はあなたとともにあり、あなたを助けます」
神の愛は神の慈悲です。
最近、ホワイトイーグルのこのような言葉によって、私の内奥にある見えない傷が癒されているように感じています。
いつもながら私自身、今まで霊的知識を学んできて、それを日常生活に生かす努力をしてきても、自分の未熟さをより自覚出来るようになるばかりで、あまり成長しているようには思えないからです。
ふと、そのように感じたときに、ホワイトイーグルの本を読むと、何故かこんな私でも大丈夫なような気がしてきます。
111ページ8行目、
神の慈悲は、人類に向けた慈悲でもあります。個人の魂が見せる慈悲に応じて、神も慈悲を与えます。
これを読んで、”やっぱり、そうなんだろうな~”と思いました。きっと神が慈悲を与えるというのは、相手が哀れで可哀そうだからという理由ではないのでしょうね。
112ページ3行目、
偉大な慈悲は、怠慢な人にも神の愛が示されること、その愛の力は、罪を犯した人間が真に悔いれば、その魂に援助の手を差し伸べるということを忘れないでください。
これまでを振り返ると、「ホワイトイーグル」や「ベールの彼方の生活」の本を読むまでは、霊界から”ああしろ、こうしろ”と注文ばかりされている感覚に陥っていました。
それは過去に、シルバーバーチの本を読んでいた時であっても、そのような”ああしろ、こうしろ”という感覚が私の中に存在していました。その原因は、シルバーバーチの霊訓の解釈の仕方に歪みが生じていたからだと感じております。
何故なら、当時の私は勉強不足だったこともあって、他の人が出したシルバーバーチの解釈を正しい答えだと思って、それを受け入れていたからだと今では感じております。
私の経験からですが、せっかくの謙虚さや素直さも、賢さを伴わなければ裏目に出てしまうようです。
112ページ5行目、
これは言い古されたことのように聞こえるかもしれませんが、どのような宗教であろうと、また宗教が本来の道からはるかに外れてしまったとしても、そこにすべての宗教の深い真理があることをあなたがたは理解するでしょう。
一言ではとても言いあらわすことは出来ないのですが、ホワイトイーグルの言う通りだと思います。
この部分については、霊界でどのように対応されているのかをアイさんに聞いてみました。
今回は、読書会の場で話された内容を、私なりの言葉で書かせてもらいます。
地上の世界を見渡すと、信仰する宗教や信仰心の程度も人それぞれだと思います。そして、霊界に視点を移すと、スピリットの側が、私たちの霊的成長という観点に立って、一人一人の個性に合わせて、配慮し接しているそうです。
けっして、”こちらに合わせろ”というような態度ではないらしく、キリスト教を信仰している人には、その人が受け入れやすいよに、天使や聖母、キリストの姿で現れたり、仏教を信仰している人には、如来や菩薩の姿で現れたりするそうです。
ちなみにアイさんには、イケメン集団で現れるようですね。
そのように(すでに幽界を超越している)スピリットたちは、私たち一人一人の個性と自由意志を尊重されていることから、出来るだけその人に合った最良の方法を用いて、各人の霊的成長のための力添えをされているようです。
もしかしたら霊界側の配慮は、私たちの想像をはるかに超えているのかもしれません。
最近、勉強不足で少し落ち込んでいたので、こうして読書会のみなさんとホワイトイーグルを学ぶことが出来て良かったです。それに参加者のみなさんは、とても前向きで向上心にあふれているので、私もそうなりたいと思いました。
それでは今年もありがとうございました。ちりりんさん、来年も頑張って読書会を続けて下さいね。
2023年12月10日日曜日
先週の金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)九章 この世、そしてあの世 152ページ15行目から
154ページ、
「書物あるいはそれに類するものがありますか」
「あります。書物なら実にたくさんあります。地上にある本の全ての複製もあります。地上にない本もたくさんあります。こちらには芸術の全分野の資料を集めてある巨大な建造物(ホール)がいくつもあり、その中に印刷物も含まれております。あなた方が興味を抱くものならどんなものでも用意してあります」
「誰れが用意するのですか」
「著述の専門家、書物を用意することを専門にしている人たちです」
「霊が手に取って読めるようにエーテル質で出来ているのですか」
「もちろんですとも!」
私の最初の感想は、”すごく羨ましい”でした。
私は本がとても好きです。それから、電子書籍は便利だと思いますし利用していますが、やっぱり紙の本でなければダメなのです。
今回の読書会に参加する前に労働組合の忘年会がありましたので、途中まで参加してから帰宅しました。
私がアルコールをまったく飲まなくなってから5年ほど経ちますが、大酒のみであった私は、きっと一生分のアルコールをすでに飲んでしまったのだと思います。過去には、アルコールを飲んで大きな失敗もしました。
ところで、私は職場でいろいろな本を読んでいるためか、私がいつもどのような本を読んでいるのか?を、忘年会の場で後輩に聞かれました。
みんな酔っぱらっているせいなのか?私がそれに答える前に、私が読んでいるのは”聖書”だと、勝手に話が進められていました。
たしかに、聖書については一通り読んできたので否定はしなかったのですが、職場の後輩たちにとっては、それが聖書であろうが、スピリチュアリズムの本であろうが、哲学書であろうが、どれも同じようなものだと感じているのかもしれません。(つまり、それらを自分たちが読みたいとは思っていないのでしょう。)
やがて、そのまま黙って聞いているうちに、いつのまにかヒーリングの話になったようで、後輩達で勝手に盛り上がっていきました。
ヒーリングを信じるとか信じないとかの話も出ましたが、意外だったのは、普段まったくそのような話をしない後輩が、スピリチュアルやヒーリングに対して、とても好意的な発言をしていたことでした。
それはそうと、忘年会に参加された職場の人たちを見渡してみても、シルバーバーチの霊訓を読んだことがある人は、ほぼゼロパーセントだと思います。しかも職場全体(二百名ほど)を見渡してみても同じように感じています。
そう思うと、この中からたった一人でも霊的に目覚めることが出来るとすれば、(他人事のようですが)それは奇跡的なことだと思えてしまいます。
改めて、”シルバーバーチ読書会”や”ホワイトイーグル読書会”に参加されている人たちと、こうして一緒に学ぶことが出来るのは、とても幸せなことだと思いました。
ようやく私も、みんなと一緒にゆっくりでも一歩前に行けることが、つまり少しでも成長出来ることが嬉しいと感じるようになりました。
今の私に出来ることは、読書会に参加されている人たちが快く話せる場を作っていくことです。それがどのような話であっても、穏やかに受け入れていく力を養っていくことです。
最近、そのように、”出来るだけ相手の話を聞き入れて、その思いを理解してあげたい”という思いが生まれてきました。
そのためには、どのような場面でも平常心でいられるような、そのための強さが根底に必要であると感じています。
何となくですけど、愛って、与えるものだと思うのですけど、受け入れるものでもあるように思いました。相手を認めて大切にするためには、受け入れる愛も必要だと感じています。
今回は、以上なります。
2023年12月5日火曜日
シルバーバーチの霊訓(三)十三章 質問に答える(205ページ11行目まで)の報告の続きです。
201ページ8行目に、「自分の思念にはすべて自分が責任を取らねばならないのでしょうか。」という質問が出されています。
それに対してシルバーバーチは、(例外はあるとした上で)「自分の言動に全責任を負わねばなりません。」と答えています。
もう一度読み直してみても、やはり質問者は”思念”について質問しています。けれども、シルバーバーチは”言動”について答えています。
思念とは、「心に思うこと。思い考えること。」です。それに対して、言動とは、「言葉と行動。ふるまい。」になります。
ここで一旦、聖書を参考にして考えたいと思います。理由としては、質問者が聞きたかったことは、聖書で言われていることが本当のことなのか知りたかったからだと感じたからです。(私が勝手にそう思っただけですけど)
マタイの福音書5章27-29節
『姦淫してはならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
この部分だけを見て考えると、聖書の場合は、思念を抱くだけでも全責任を負わされるように感じます。一方、シルバーバーチの場合は、抱いた思念を実際に行為として表わすことで責任が生じるように感じます。
私が思うには、きっと聖書に書かれている内容も、シルバーバーチが語る内容も、その時代特有の背景とその言葉の奥に潜んでいる意味をつかみ取る必要があるのでしょう。
シルバーバーチは、霊訓の中で、サービス(人の役に立つこと。人のために力を尽くすこと。)の重要性を何度も語っています。
改めて質問者の立場を考えてみると、抱いた思念の責任については、その思念がネガティブな場合を想定して出されたものだと感じました。
しかしシルバーバーチは、その逆のことを気づかせようとしたのかもしれません。
日頃から、自分は良い思念を抱いていると思っていても、実際に人の役に立つことや人のために力を尽くすことを一つもしてこなかったとしたら、それはいかがなものでしょうか?と。
最初、ピントがズレている答えをシルバーバーチはされているのだと思いました。けれどもそうではなく、私は言葉の表面しか読み取れていなかっただけのようでした。
シルバーバーチは質問者を傷つけないように(この場合、もしも思念を抱いただけで罪になるとすれば、質問者の方の”すでに取り返しのつかないほどの罪を犯しているという思い”を考慮しつつ)、大切なことを伝えようとされたのではないかと感じています。(これは深読み過ぎるかもしれませんね)
今まで私が学んできて感じたことですが、シルバーバーチの霊訓は、当時の交霊会に参加されているそれぞれの人たちに合わせて語られてきたように思います。
私にとっては、シルバーバーチはとても優しい方だと感じるのですが、私とは違って、シルバーバーチはとても厳しい方だと感じる方もおられます。
それは、”苦しみ”に対して、どのように自分がとらえているかの違いでもあると感じています。
私たちは、神への信仰を通して苦しみを避けようとするのか?それとも苦しみを通して成長し、神へ近づこうとするのか?
これは、”人の幸せとは何であろうか?”ということにもなってきそうです。
当然、今の私に答えられるはずもないので、今回はこれで終えたいと思います。
2023年12月3日日曜日
本日開催した「足立シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)十三章 質問に答える(205ページ11行目まで)」です。
この章は、”愛とは何でしょうか”という質問で始まります。
205ページ7行目、
「私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。」
もしかしたら他にもいるのかもしれませんが、愛に対してこのように答えている方は、シルバーバーチ以外に私は聞いたことがありません。
そして、この質問に対する答えを読み進めていく内に、宇宙が存在しているのも神の愛があるからこそなのだと改めて思いました。
今回は時間の都合により以上となります。この続きは改めて書きたいと思います。
2023年11月25日土曜日
北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書は、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第3章カルマへの対応 4 正しい思い となります。
102ページ11行目、
「あなたがたの思考の習性は、訓練され、より健全な方向へと向かわなければなりません。非常に多くの人々の思考形態は、明らかに不健全です。あなたがたがそのような思考のバイブレーションを放出するとき、あなたがたは、周りの他の不健全な思考にあなたがた自身を投げ出し、それを喜んで受け入れることになります。」
私のことで言えば、40歳を過ぎてシルバーバーチ読書会に参加し、そこでスピリットからアドバイスをもらうまでは、非常に不健全な思考形態の持ち主でした。
前世の私がなんであれ、欲が深く、執着や未練の塊で、しかも、何かに甘えたい(依存したい・逃げてしまいたい)という人間だったと思います。
今の私は、少しは健全な思考を持てるようになったのではないかと感じています。が、次から次へと不健全な思考が巡って、しかもそれが日常生活にも影響して、我ながら呆れてしまうこともあります。
それが私らしいと言えば、私らしいのですけど…。
まぁ、私は今もそんな感じで生きているのですが、今回、みなさんの話を聞いて、読書会に参加されている方たちの中には、日々、成長するための努力を物凄~くされている方がいるのを知りました。今回参加されているお二人の方は、すでに悟りを得られているのかもしれませんね。
165ページ9行目、
「地上の人々は、自らの考えが自分のみに影響を与えるものと思い込んでいます。しかし、彼らは大きな考え違いをしています。人間の思いが発せられると全体に影響を与えます。人類全体の善の成長という助けがなければ、誰一人として善であることも善を思うこともできません。したがって、不親切な思い、ネガティブな思い、愛が欠けた思い、これらも一人の人間から他の人間へと伝わっていきます。あなたがたには大きな責任があります!」
今でこそ、このホワイトイーグルの教えの意味を理解することが出来るのですが、過去の私は「自分の行動はともかく、心の中までとやかく言われたくない」と思っていました。
しかも私はひねくれていたので、せっかくの私へのアドバイスも嫌味にしか思えないことがありました。
今回、読書会での話を振り返ってみると、過去の私のダメさ加減と、今の私のやる気の無さばかりが目につきました。さらに、”そのうち何とかなればいいや”と思っている自分もいて、それら全部が私なんだと半分あきらめて受け入れています。
本当は、まだ報告したい内容があったのですが、今回はこれで終わりにしたいと思います。
2023年11月20日月曜日
昨日開催のオンライン読書会の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)九章 人生は霊的巡礼の旅(156ページ1行目から160ページ終わり)」となります。
156ページ6行目、
「霊界から見ると地上という世界は実に陰うつで不気味な様相を呈しております。」
ここで、「迷える霊との対話」(C.A.ウィックランド著)を参考にしたいと思います。
673ページ1行目に、「地球を取り巻くように存在する物的波動のエーテルの階層は、”地縛霊”と呼ばれるスピリットの住む暗黒の世界です。利己主義と無知が生み出す暗黒です。」と語られています。
これを読むと、シルバーバーチが伝えている霊界と地上との間には、肉眼では見えない”暗黒界”と呼ばれている世界が存在しているのかもしれません。
本当はもっと詳しく、”霊界から見た地上の様子”が説明されている本があったのですが、どの本のどの章であったのか忘れてしまいました。が、その本にも地上は暗黒に包まれていることが書かれていました。
シルバーバーチの霊訓(十)156ページ6行目、
「しかし、そうした突破口が灯台のごとく地球上の各地に点在しているおかげで、私たちがこうして地上を訪れる際の勇気づけとなっております。」
シルバーバーチによると、この地上世界は陰うつで不気味な様相であるようですが、きっと、これを読まれている方の多くが、突破口の役目を担っているのでしょう。
そのようなみなさんと直接会お会いする機会はないのですが、共に頑張っていきたいと思っております。
ところで、ちょっと話が変わりますが、除霊とか浄霊とかをされている方たちがいます。
その方たちのなかで、時々、「私は何万、あるいは何億もの霊(スピリット)を救ってきた。」と話されている方が見受けられます。
これは、私が子供時代から、”除霊、浄霊、ヒーリングなどに関わってきた霊能者”と言われている方に見られる傾向で、霊的成長の大切さを語りながら、その一方で、(無意識的であっても)その霊能者に依存させようとしていきます。
そして、まるでその霊能者の言う通りに生きることが、真の霊的成長への道であるかのような錯覚をさせてしまいます。
そのような(偉大な力の前には、人間の力など小さなものであるという)演劇を、良からぬ霊たちによって見せられている場合もあるようです。
160ページ7行目、
「人間が自分とはいったい何者なのか、いかなる存在なのか、憎しみといがみ合いを無くするにはどうするべきかを知り、肌の色、階級、宗教、および国家の違いはあっても霊性において一つであり、霊的団結はそれを分裂させるあらゆる相違点よりも強力であることを知ることによって、みずからの力でみずからを救う方法をお教えしようとしているのです。」
きっとナザレのイエスだったら、このような話を、子供たちでも受け入れられるような形で話をされていたのではないかと思っています。
私も霊の世界に帰ったら、(聞けるのでしたら)いろいろとイエスの話を聞いてみたいと思っています。
今回は以上となります。
2023年11月12日日曜日
先週開催した、北神戸ぷちサークル主催”シルバーバーチ読書会”の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(二)九章 この世、そしてあの世 152ページ14行目まで」となります。
今回も、参加者のみなさんのいろいろなお話を聞くことが出来ました。
151ページ4行目、
「コンサートはしょっちゅう開かれております。音楽家には事欠きません。大音楽家と言われる人も大勢いて、自分の才能をできるだけ多くの人を楽しませるために役立てたいと願っております。」
ちりりんさんは、「メンデルスゾーンに会いたい、聞きたい」と、とても熱心に話されていました。
一方、男性の参加者は、「ラフマニノフ(たしかピアノ協奏曲だったような)を聴きたい」とのことでした。
お二人の話を聞いていて、音楽をとても愛しているように感じました。
普段の私は、あまりクラシックなどを聞くことがありませんが、それでも”辻井伸行”さんの音はとても好きです。
鈍感な私でも、バイブレーションの違いというのでしょうか、そういうのが感じられます。
(普段の私は、ネイティブアメリカンのフルート音楽が気に入っていて、よく聴いています。)
この後、いろいろと小難しい話をしようと思っていたのですが、辻井伸行さんのピアノ協奏曲第2番(ラフマニノフ)を聴いているうちに、今回はこれで終えたいと思いました。
以上となります。
2023年11月5日日曜日
本日開催の読書会の報告となります。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)十二章 神とは」190ページ13行目からとなります。
今回は、読書会の場で話し合うことの出来なかった個所があるので、そこにも焦点を当てていこうと思っています。
191ページ7行目、
「私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。」
シルバーバーチの霊訓と出会う前は、”神とは法則である”という発想が私にはありませんでした。
今回学んで大切だと思ったことは、シルバーバーチが”自身を神格化させないよう、また、崇めさせないようにとの配慮”が言葉の中に込められていることです。
シルバーバーチは、「神とは法則であり、法則がすなわち神です。」の前に、「私にとって」という一言を付け加えています。
それは、191ページ1行目の「私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。」という個所にも当てはまります。
ところで、ここの個所で面白いと感じたのは、”シルバーバーチは、神ではなく、なぜ、神々と複数形にしたのでしょうか?”と言うことです。
私の受け取った感じでは、キリスト教的な神だけに限らず、他の宗教で信じられているさまざまな神も含めて答えているからだということでした。
さらに私が思ったのは次のようなことです。
(ちなみに、”感じる”というのは、相手の発するエネルギーを自分なりに受け止めたことで、”思う”というのは、その受け止めたエネルギーを自分なりに分析し解析した結果だと私は思っています。が、こんなことを考えているから、私は変だと思われているのかもしれませんね。)
たぶん、「大霊の現われ方が無限であることを考えると、神としての現れ方や受け止め方も人それぞれで違うのでしょうけど、それら神々も根本的には宇宙の大霊であり、別々の存在ではありませんよ。」と伝えてくれているのかな?と思いました。
本日の読書会の場では、192ページ3行目の「作用と反作用」及び、「照合と再照合」について、みなさんと話し合いました。
何よりも、みなさんが実際の体験を紹介されて話されたことは、とても大切で尊いことだと感じました。
「作用と反作用」の意味については、辞書などで調べてもらえればわかると思いますが、”作用と反作用は、同一作用線上にあり、大きさは等しく、互いに逆向きである”ということです。
そういえば他のたとえとして、”コインの表と裏”というのもありましたね。
「照合と再照合」については、まさに読書会の場でみなさんの感想や意見を聞くことによって、より深く多角的な視点をもって、シルバーバーチの霊訓を理解していくことでもあると感じました。
さらに照合と再照合を成長や進化のこととして考えれば、私たちにとっても、存在するための手段として、螺旋的に相反する等しいエネルギーが互いに作用し、成長や進化をしていく必要があるのでしょうね。
194ページ11行目、
「その小さな脳という器との関連で心の働きを考えるのはやめないといけません。心はそれ自体で存在します。」
195ページ6行目、
「神という存在を人間に説明するのはとても困難です。人間には独立した形態を具えた存在としてしか想像できないからです。」
シルバーバーチは、このように私たちに語りかけているのですが、スピリチュアリズムと呼ばれているものを学んでいる方であっても、これらのことを真に理解している人は少ないのではないかと感じています。
私たちは人間ですから仕方がないのだと思いますが、何らかのパーソナリティを通して、神に近づこうとしたり、神を知ろうとします。
そしてある時には、そのパーソナリティをそれぞれ比較することによって、神にさえ優劣をつけたりすることもあります。
私にとってそのことは、神を人間の下僕として扱っているようにさえ思えてきます。
作用と反作用について、ここでもう一度振り返ってみれば、そのように神を扱っているとするなら、自分もまた同じように扱われているということになります。
何故なら私にとっては、”神と私”とは、コインの表と裏の関係であると感じているからです。
196ページ7行目、
「子供には神のことをどう説いて聞かせたらよいでしょうか。」
という質問に対してシルバーバーチが答えているのですが、参加者の方からは、それでも”わかりづらい”という感想がありました。
そういう率直な意見が出されることを、私は歓迎していますし、良いと思っています。
シルバーバーチの霊訓をみなさんと輪読し、感想や意見を出し合いながら学んでいるとしても、この読書会が”ある種の思想団体や集団”となってしまうことは避けたいと思っています。
それはふと、シルバーバーチの交霊会に参加されてきた、さまざまな人たちのことを思った時、改めて私が感じたからでもあります。
ということで、今回は以上となります。
2023年10月28日土曜日
昨日開催の”北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会”の報告です。
テキストは、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第3章カルマへの対応 3 祈り、許し、そして想像力の賢明な使用によるカルマの克服 となります。
94ページ8行目、
「私たちは、愛する地上の兄弟姉妹にスピリチュアルの真理を伝える使命を与えられています。私たちは、肉体だけでなく精神や魂を治療するために来ます。」
ホワイトイーグルたちは上記のように、私たち地上人類を”兄弟姉妹”と位置付けていることがわかります。そしてそれは、自分たちへの見返りを求めておこなっているわけではないことに、改めて感服します。
”見返りを求めずに、人のために尽くす”のは、言葉にすれば簡単なようですが、これを本気で日常生活に取り入れて生きていくのは、ホワイトイーグルの教えを学んでいる人にとっても容易なことではないと感じています。
それでも、それがごく当たり前に出来る人がいるので、本当に感心してしまいます。ただそれが、ごく当たり前に出来ているからといって、その方たちがそのようになるまでに、今まで何の苦労も努力もされていなかったわけではないようです。
昨日の読書会は、ちりりんさんや他の方たちが欠席された中で行われたこともあって、いつもより少人数でしたので、さまざまな濃い体験談を聞くことが出来ました。
話の内容は多岐にわたっていたのですが、特にアイさんの”霊的知識を実際に生かすことで仕事や家族の問題をのりこえてきた”という話は参考になりました。
私がその話で感じたことをまとめると、”己の中のこだわりと執着を捨てて、見返りを求めず、霊界と霊に対する信頼を持ち、自然の流れに任せて人と接していく。”というようなことになります。
ここでは具体的な話を書けそうにもないので、みなさんには、ちょっとわかりづらいかもしれませんね。
それから昨日は、二つの質問が出されました。
96ページ4行目、
「目に見えない敵は、あなたがたが知っている敵や見ることができる敵よりもはるかに性質(タチ)が悪いものです。」
この”目に見えない敵”とは、どのようなものでしょうか?
99ページ14行目、
「すなわち、東洋の兄弟たちが言うように、あなたがたのカルマは即座に解消されます。」
”東洋の兄弟たち”とは、具体的には、誰のことを言っているのでしょうか?
書き出したらキリがないのこれで止めますが、それぞれみなさんの中で、その答えを見つけて欲しいと思います。
今回は、以上となります。
2023年10月18日水曜日
オンライン読書会の報告の続きです。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)九章 人生は霊的巡礼の旅」150ページ2行目から155ページまで
150ページ10行目、
「地上は困難と挫折と障害と逆境に遭遇させられる場所なのです。地上生活のそもそもの目的は、伸び行く魂が、危機においてはじめて呼び覚まされる潜在的資質を発現するために、さまざまな事態に遭遇することにあるのです。」
みなさんがご存じのように、苦しみを避けたり無くしたりするための方法を、シルバーバーチが教えてくれるわけではありません。
また、シルバーバーチの霊力によって、私たちを苦しみから救い出してくれるわけでもありません。
参加者の方の感想の一つに、「シルバーバーチの霊訓は素晴らしいけれども、世間では知らない人も多い。それに、知っているという人にもそれほど人気がない。きっと多くの人が、苦しみから逃れたくてスピリチュアルを求めているからだと思う。」というのがありました。
それと合わせて、「地上世界での自分は、とても上の立場になれないとしても、スピリチュアルの世界なら、自分は上の立場でいられるかもしれない。」という欲望が渦巻いていることだって、無いとは言えません。
シルバーバーチの霊訓を受け入れることの出来る人は、今でもごく限られた人数しかいないのかもしれませんね。
どちらにせよ私自身は、ナイジェリアの一部族の族長のような”自然のことを憂う”質問は、出てきそうにありません。
154ページ3行目、
(夫婦でスピリチュアリストチャーチを運営している米国人が教会内部の不協和音の悩みをたずさえて出席した)とあります。
内容には触れませんが、交霊会の参加者もさまざまなようですし、質問の内容もさまざまなようです。
それに対して、シルバーバーチが一人一人に真摯に向き合って答えているのが伝わってきます。
私の記憶では、今までシルバーバーチが、個人的に相手を責めるような態度をとっている文章を見たことがありません。
今回は、そのようなシルバーバーチの”真摯な態度”に目が行きました。
ということで終えたいと思います。
2023年10月17日火曜日
10月のオンライン読書会の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)九章 人生は霊的巡礼の旅」150ページ2行目から155ページまで
今回の内容は、ナイジェリアの一部族の族長が招待された時の問答からはじまります。
予備知識として、ナイジェリアは、西アフリカに位置しています。世界地図を見ると、アフリカ大陸の左側の真ん中より少し
上の窪んだ所にあって、そこからそのまま北に向かって飛び越えていくと、やがてイギリスに行きつくようです。もちろん私は、どちらの国にも行ったことがありません。
150ページ4行目、
「私たちは誰しも自分自身ならびに同胞のために何か役に立つことをしたいという霊的な欲求をもっているものなのですが、物的世界ではその意図を遅れさせ邪魔をする事情が生じます。そういう立場に置かれている人たちに何かアドバイスをお願いしたいのです。」
まず、私ではこのような質問を思いつきもしなかったというのが感想です。
次回に続きます。
2023年10月14日土曜日
昨日開催された”北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会”の報告です。
テキストは、シルバーバーチの霊訓(二)八章 背後霊の仕事 136ページ11行目からとなります。
最初の内容は、交霊会で使用される霊的なエネルギーについての質疑応答となっています。
交霊会に必要なエネルギーを参加者全員から仕入れていることやエクトプラズムの話、さらに、語ることが許されない知識が存在し、その知識を私たちが得るためには、ある一定の霊的成長が必要であることなどが語られています。
140ページ6行目、
「非難したり中傷したり陰口を言ったり、つまり低俗な人間のするようなことを支配霊がしたためしはないはずです。」
あ~、これは私には耳が痛い話です。
今でこそ、自分の中のジャッジ癖を直しているところですが、シルバーバーチの言葉をそのまま私に当てはめてみると、かつての私は”低俗な人間”になってしまいますね。
140ページ8行目、
「自分がコントロールできない者がどうして他人を正しい道へ導くことができましょう。」
まったくその通りだと思うので、昨日の私は、ここの部分にはあまり触れませんでした。
先月の所にさかのぼって、135ページ5行目、
「支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。」
これはとても大切なことだと感じています。
それは自分の霊的感覚や霊的知識に対しても当てはまると思います。
そういう時は、それを自分で認めたくない気持ちが出たりして辛いでしょうが、やはりシルバーバーチの言うようにした方が良いと思いました。
参加者の方が、次の箇所を用いて感想を述べられました。
140ページ15行目、
「あなた方に敬愛をもち、あなた方のために働き、さらにあなた方を通じて他の人々へ援助の手を差しのべたいと願っているスピリット、それだけを願いとしているスピリットであることは十分に証明済みのはずです。」
その方の感想は、「スピリットは私たちを通じて、他の人々へ援助の手を差しのべようとしていることを忘れてはならない」ということでした。
私でも140ページ3行目以降を読んで、”名の知れた支配霊”が、何かと選り好みをし、「ああしなさい、こうしなさい、これはダメ、あれはダメ」という注文ばかりするスピリットとは、やはり違っているのが感じられました。
今回の読書会の中で、他に印象に残った話は、”ブレンド”という表現でエネルギーを分かち合う内容でした。
今回、内容については触れませんが、”ブレンド”という言葉が心に残りました。
最初に、ブレンドコーヒーを思い出しました。
Blend(ブレンド)とは、混ぜ合わせる、調和する、混合する(混ざり合う)、などの意味があるようです。
次に、光のブレンドが浮かびました。
そして、香水もそうなんだよな~と思いました。
あ~、そう言えば、音楽もそうだよね。
最後に、善と悪との統合と調和って、さまざまな光や音のブレンドなんだろうな~と思いました。
で、結局、より白く、より明るく光り輝くのでしょうね~と感じました。
それ以外にも、ちりりんさんの前世の話やナッキーさんの守護霊へのあいさつの話なども聞けて、今回も楽しくみなさんと学ぶことが出来ました。
それではみなさん、お疲れ様でした。
2023年10月2日月曜日
昨日の読書会の報告の続きです。
読書会参加者の”自分は導かれている”という言葉は、その方の”自分は神と共にある”という心の底からの思いから出ていたのを感じました。
そして、その方にそのような神への信頼感があるからこそ、次の言葉が自然と出てくるのでしょうね。
”人はみんな成長過程にある”
私も日々、この地上世界で生きていますので、何かと嫌な出来事に遭遇することがあります。
そういう時は、”人はみんな成長過程にある”ということを、私も忘れないようにしたいと思います。
私が霊的知識を学んでいく中で面白いと思ったことは、
”あらゆるものは一つであっても、一つのコインに表と裏があるように、どこをどのように見ていくかによって、同じものがまったく違ったものに見えてしまう。”
と言うことに気が付いたことです。
これを人の場合に当てはめてみて考えてみても、相手と自分、つまり誰もがみんな成長過程にあるのですから、良く見える時と悪く見える時があるのでしょうね。
自分に焦点を当てれば、どんなに努力を積み重ねても、その成長は螺旋を描きながら上昇していくわけですから、思い通りにいかないことだってあるのが生きるということなのでしょう。
きっと、そうなんですよね。
誰にとっても良いことも悪いことも、成功も失敗もある方が自然だと思います。
もっとも私は、その描いた螺旋が上にある時は喜んで、下にある時は悲しんで、と言うことをそのまま何度も繰り返してしまっています。
自己弁護みたいになってしまいますが、面白いことに、人間は肉体的にもエネルギー的にも、螺旋的な構造になっているそうなのです。
190ページ4行目、
「地上の人間は肩書やラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名のろうと無神論者を名のろうと、何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。
仮にここに宗教など無縁だと言う人がいるとしましょう。 神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を超えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心がけます。
もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになることをしません。前者の方が後者よりはるかに宗教的人物と言えます 」
私は果たして、前者なのか?後者なのか?
このことは、スピリチュアリズムを学んでいる人にこそ、今、問われていることなのかもしれませんね。
振り返ると、私が何かしらの肩書やラベルや名称を自分に付けたいと思っていた時は、心の底から”神と共にある”と思えていないかったり、世界が未だに良くならないのは、世界中の人々の霊的知識が欠如しているせいだと嘆いていた時でした。
さらに過去には、人と接した時、「自分は何々だから」と、自分を少しでも高く見せようとした時期がありました。
そういう時ほど自分を受け入れてもらうのに必死で、相手の表面だけを見て、相手の気持ちを受け止めることが出来なかったように思います。
少なくとも私は、この世界のことを、人のせいにして責めることだけは止めようと思いました。
今回は以上となります。
2023年10月1日日曜日
本日開催の読書会の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(三)十二章 神とは」190ページ12行目まで
シルバーバーチは、187ページ6行目で、「これまで幾つかの大自然の摂理を学んできました。そうして知ったことは、この世に奇跡はなく、神の特別の寵愛者もなく、唯一の神の子もいないということです。あるのはただ法則のみだということです。」と語っています。
今日参加された方の感想の中で次のようなものがありました。
「霊的知識を学んでいく中で、自分は他の人よりも特別であるという思いが出てきてしまうことがあります。」
その方の話を聞いた限りでは、人に何かしらのアドバイスを与えようとしている時に、そのような上から目線の態度が知らず知らずの内にも出てしまうようです。それでも、その方がそのような自分に気づかれたことは、大切なことだと感じました。
今回の読書会ではいろいろな話が出てきたのですが、その中でも、「自分は導かれている」という話と、「人はみんな成長過程にある」という話が良かったです。
詳しい話は、時間がある時にしたいと思います。以上となります。
2023年9月23日土曜日
北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」の報告です。
テキストは、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第3章カルマへの対応 1本質的なアドバイス 2カルマの庭 となります。
87ページ3行目、
「私たちは、あなたがたの一部です。私たちは、あなたがたとともにいます。すべての人々とともにいます。私たちは、あなたがたを愛しています。」
私はこのような言葉を真似て言うことは出来ても、胸の奥底からそのように思えることは出来ていません。
読書会の中の感想や意見の中で、ちりりんさんは父親の病気を巡って最善の道を選ぶようにアドバイスをされてきたことを述べられました。しかし肝心な父親との意見が分かれ、とうとう他界した祖母までがその話に加わるようになったことを伝えられました。
一方、参加者のアイさんは、日々、他人の言葉や思いを(時にはわけのわからない理不尽なものでさえも)遮ることなく受け入れる(認める)ように訓練されているとのことでした。
87ページ4行目、
「したがって私たちは、あなたがたの問題や困難を取り除くことはしません。そうすることは、あなたがたにとって親切でも為になることでもないからです。」
なんということでしょうか!
愛する者のために、問題や困難を取り除こうとしないなんて!
ホワイトイーグルが語ることによれば、私たちの経験する問題や困難とは、それを通して試行錯誤しながら学ぶためにあり、その学びは、私たちの”魂の喜び”のために必要なことのようです。
そういう理由から、問題や困難を相手の代わりに取り除くのではなく、”そばに寄り添って力と愛を与えていく”ということをされるのだそうです。
88ページ4行目、
「また、友人をあなたがたが欲する型にはめようとしないでください。これは、すべての人々が、親切心から良かれと思ってさまざまな機会にしようとすることです。」
ちりりんさんの話にもあったように、私もこのようなことを何度も何度も繰り返してきました。
きっと、”人の役に立つ”ということは、人を”自分の型にはめる”ことや、”自分色に染める”ということではないのでしょうね。
88ページ6行目、
「すべての魂は、独自の定めを持つ宝石です。」
88ページ7行目、
「すべての宝石は、独自の輝きを放ちます。」
「人それぞれが学ぶ必要があるのは、”自分の務めを果たす”というシンプルな言葉であり、これは真理なのです。」
読書会の中で、ナッキーさんが、”自分が正しいという思いの枠組”を外して人と接するのが課題だと話されていました。
その話を聞いて、私もそうだと思いました。
霊的知識を学んで、それを実践に生かしていく日々を繰り返していくと、どうしても相手に対して、”それは違うのではないか?”というのが見えてきて、自分が正しいと思う方へと変えて行きたくなります。
また、そうすることが”相手のためであり、人の役に立つことである”と思うことさえあります。
でも、ホワイトイーグルは、”それは違う”と語っているのだと感じました。
ここでふと思ったのですが、読書会の参加者たちの話をまとめると、日々、相手の自由意志を尊重されるための努力をみなさんがされていることに気がつきました。
91ページ13行目、
「最も外側の輪にいる物質的状態の強い人は、物質的状態に取り組まなければならず、ほかのことにはかまっていられません。」
人によって、”取り組まなければならない課題は違っている”ということを、私たちはついつい忘れがちだと思います。
93ページ12行目、
「賢者は、悪い出来事が起きても神を非難することはありません。たとえ火山が噴火しても、地震が起きても神を非難しません。賢者は内面を見ます。そして、神の愛を受けるには自らがいかに未熟であるかを考えます。」
賢者であるということは、自分の未熟さを受け入れているということになるのでしょうか?
私にとっての賢者とは、未熟さを克服しているイメージが強かったのですが、ホワイトイーグルの語る賢者であるならば、私にも真似が出来そうです。
何故なら私は、神を非難する前に、いくらでも自分の未熟な所が思いつくのですから。
最後に、前にも述べたことですが、最近になってやっと、ホワイトイーグルが語る言葉の奥にある意味を理解出来るようになりました。
今までは、言葉の意味を理解していただけで、それは表面的なものでしかなかったと感じています。
また、ホワイトイーグルの教えを深く理解するためには、他のさまざまなスピリチュアルの知識が必要であると感じています。
さらに、ホワイトイーグルたちスピリットによる実践は、実は私たちこそがチャレンジするべきものであることがわかります。
私がこの読書会に参加するようになって、”ホワイトイーグルがとても好きなになったな~”と実感しています。
ということで、今回も楽しく学ぶことが出来ました。
みなさん、お疲れさまでした。
2023年9月18日月曜日
9月のオンライン読書会の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)九章 人生は霊的巡礼の旅」150ページ3行目までとなります。
まずはじめに、”巡礼の旅”と聞いて、みなさんはどのようなイメージを持っているでしょうか?
これは誰にも言ったことがないのですが、私が高校生の頃、毎晩の就寝時に、空想上の砂漠の中で聖地を求める旅をしていました。
たぶん、小学生の時に見ていた”夏目雅子さんの西遊記”の影響を受けていたのだと思いますが、それが一年以上も続いて、場所はエジプトのような感じでした。(と言っても、私はエジプトに行ったことがありません。)
そういうわけで、私にとっての”巡礼の旅”とは、なんとなく”シルクロード”を思い浮かべたりしています。
そもそも”巡礼の旅”という言葉の意味はどういうものなのでしょうか?
”巡礼”とは、諸方の聖地や霊場を参拝してまわること。それと同じような意味で”お遍路”という言葉もあり、こちらは、四国八十八か所の霊場を巡る時に使用されるようです。
調べてみると、どうやら宗教によって、巡礼の方法もいろいろと違うようです。
前置きが長くなりましたが、シルバーバーチの霊訓の146ページ6行目では、
「まず最初は二十年間もシルバーバーチの霊言集を愛読しているという男性を相手にシルバーバーチがこう述べた」とあります。
この部分を読んだ私は、「この男性は二十年間もシルバーバーチを愛読されているなんて、何て凄い人なんだろう」と思いました。
それはそれとして、”シルバーバーチ霊言集”と言えば、日本では、でくのぼう出版の桑原啓善氏訳「シルバー・バーチ霊言集」になると思います。
146ページ8行目、
「霊的巡礼の旅に立たれた方はみな、同じパターンの人生を体験なさるということです。困難・難題・危機・逆境・失望・挫折、こうしたものを体験させられます。」
実を言うと私は、上手くできない不器用な自分が嫌いで許せなかった時期があります。しかも、長い間そうでした。
そんな私でも、シルバーバーチのこのような言葉の数々に救われてきました。
「シルバーバーチによれば、あぁ、私だけ他の人よりダメな人間って訳ではないのかもしれない。」
そう思えてきたのです。
147ページ11行目、
「人類全体のための予定表というものがあります。私の世界の高級な神霊によって考え出されたものです。その目的は、受け入れる用意のできた地上の人間を霊的に、精神的に、そして身体的に真に自由にしてあげることです。国家単位の計画があり、個人単位の計画があります。」
この部分を読んで、わかる人はわかるのでしょうけど、私たちが”真の自由”を手に入れるために、”神と言うのではなく、霊の世界の高級な神霊によって考え出され推し進められている計画”が実際に存在しているということになります。
148ページ5行目、
「自分で自分を救うのです。」
けれども神や高級霊が、人類を直接救ってくれるわけではなさそうです。
148ページ7行目、
「あなたが霊的存在であるということは、あなたも内部に無限なる宇宙の大霊すなわち神の一部を宿しているということであり、同時に、霊的武器(能力)と霊力を宿しているということです。それを進化しながら発揮していくことができるのです。」
私たちは”神の一部”を宿しているということですから、私たちは、自分で自分を救うことが出来るというわけです。
とは言え、”私たちは神の一部である”いう概念があまりないせいか、今一つ実感が湧かないかもしれません。
そこで”神”という言葉を、”無限”という言葉に置き換えると少しはわかりやすいと思います。
言葉の意味的に、究極の存在としての神とはイコールではないとしても、無限の一部は”無限”となりますから、神の一部は”神”となります。
最後に、シルバーバーチの霊訓を学んできて、「いつまでも”神仏”に頼って救ってもらおうという依存心から卒業しなければならないな~。」と感じました。
私たちは霊的に自立していくことで、今まで頼ってきた神仏とも、兄弟姉妹としての関係が作れるのではないのかと思ったりしました。
それでは、今回の報告を終えたいと思います。
2023年9月9日土曜日
昨日開催された【北神戸ぷちサークル・シルバーバーチ読書会】の報告です。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)八章 背後霊の仕事 136ページ10行目までとなります。
今回は、私が気になったところを紹介したいと思います。
130ページ5行目
「宇宙の機構について詳しい霊がいても、あくまでその時点までのその霊の経験の結果としての知識を述べるのであって、まるで知らないことについては答えられません。知らないことは何一つないような霊は決していません。」
この後に続く文章を読むと、具体的な例を用いて説明がされています。
ところで、私はずっと昔から、”私たちは再生を繰り返しているはずなのに、しかも私たち自身が霊であるはずなのに、霊の世界のことも、宇宙のことも、わからないのは何故だろうか?”ということに疑問を持っていました。
さらに”霊(スピリット)によって、それぞれ語る内容が違ったりするのは何故だろうか?”という疑問もありました。
過去に、シルバーバーチの霊訓を読んで、”霊たちでさえも、全てを答えられるわけではない。”ということを知って、私は愕然としたことを覚えています。
シルバーバーチによれば、霊が語る知識とは”その時点までの霊の経験の結果としての知識である”と言うことになりますね。
私はてっきり肉体の消滅後、霊となれば、知識が勝手に無限に湧いてくるものだと思いました。そして、再生するのに前世の記憶があると成長の邪魔になるから、一時的に記憶を消しているだけで、霊の世界に戻れば、再び知識は無限に湧いてくるものであると思っていました。
いや~、甘かったです。ただ、知っているというだけではダメなのかもしれませんね。
やはり、”知識”には、何かしらの”経験”を伴う必要があるのだと思います。
つまり考えられることは、宇宙のことや霊の世界のことを全て知るためには、大霊と同じだけの経験が必要だということになるのではないでしょうか?
そうなると、無限の成長の可能性を私たちは持っているのですから、その知識も無限であるということになりそうですね。
131ページ6行目
「正直言って、その仕事の前途は、克服しなければならない困難によって、”お先まっ暗”の状態でした。」
シルバーバーチの”お先まっ暗”という言葉が私にはとても受けて、「シルバーバーチでさえ、”お先まっ暗”なことがあるんだ~。私もそういう時がありましたよね~。シルバーバーチって、そういう人間っぽさもあるんですね~。」と、自然に言葉が出てきました。
(※以下の文章は、霊性を”高い低い”で表現していますが、霊性の”豊かさ”という意味も含まれています。。)
これはある意味、勘違いだと思うのですが、霊性の高い存在ほど、”高貴で威厳に満ちていて、さらに、ある種の威圧感とか神々しさ、それでいて慈愛に満ちていて、しかも悪に対しては容赦をしない。当然、人間っぽさから脱却していて、力も知識も限りがない。”などのイメージを持っているかもしれません。
そして私の場合もある意味、かなりの勘違いだと思いますが、霊性の高い存在ほど”人間とか、生命だとか、その他もろもろ、好き過ぎちゃう”というイメージがあって、”もう、何をやっても、どう転んでも、みんな愛おしい”とか平気で思えるのではないだろうか?とさえ思っています。
何故なら、霊性が高いと寛容さも兼ね備えているはずですから、霊性が高くなればなるほど、そうなるのかと。
当然、私はそんなの無理です。
でも、時には厳しさも必要だろうし、甘いだけではダメですからね。
何だかんだ言いましたが、やっぱり私にはよくわかりません。
だけど最近になって、そのような存在は、”常に愛の思いを向けてくれている”ということだけは感じられますし、感じています。
それは、とても厳しい存在と思える場合であっても、愛のエネルギーは感じられるのです。
不思議です。
最後に、霊性という言葉を、人間性という言葉に置き換えてみるとわかるのですが、人間性の高さは、人間性の豊かさでもあると思っています。
私にとっては、人間性が豊かであるということは、あたたかくて懐が深い人というイメージがあります。
と言うことで、”背後霊の仕事”ということには触れないままになってしまいましたが、今回はこれで終えたいと思います。
2023年9月3日日曜日
足立シルバーバーチ読書会の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(三)十一章 霊と意識の起原」177ページ7行目から最後まで
177ページ9行目で次のように語られています。
「病気になるのは摂理に反したことをするからです」
今回、摂理については、シンプルに、”自然界を支配している法則”として考えていきたいと思います。
人が病気になる時は、その人が善人とか悪人とか、そういうことにはおかまいなしになる時はなるようです。
それは当たり前と言えば当たり前のようですが、中には、「たまたま運がなかったから病気になった」と思う人もいるかもしれません。
さらには、”罰が当たったからだ”というのは極端だとしても、”自分以外の何か外部の要因で病気になった”と考えている人も多いと思われます。
特に感染症などはそのように感じています。
ここで視点を変えますが、
私たちは、”規則と法則とをごちゃまぜに考えていないだろうか?”という思いがあります。
それは、”ルールと原理とをごちゃまぜにしていないだろうか?”と言い換えることも出来ます。
病気が生じるのは、”ルールを守らなかったためのペナルティ(罰)ではなく、自然の法則に反したためである”と言葉では理解していても、心の奥ではペナルティや罰として感じている人がいるかもしれません。
何故、私がこのように問いかけているのかと言いますと、それには次のような理由があります。
シルバーバーチの言葉に”神とは法則であり、法則が神です”という言葉があります。
私の経験上ですが、厳格で禁欲的な”ストイックと呼ばれる人”ほど、この”法則”という言葉を、”規則”や”ルール”という意味に置き換えて解釈してしまう傾向がみられるからです。
ある人にとってのそれは、”人が従うべきものであり、それを守ることで、神の御心に従うことになる”とし、それがその人にとっての善となります。
有名なもので、モーセの十戒 (ジッカイ) があります。
ところで、その”モーセの十戒”とは法則なのでしょうか?それともルールなのでしょうか?
その答えは、各自がそれぞれ用意されれば良いと思います。
178ページ8行目
「人間に選択の自由があるのに、ほかにどうあって欲しいとおっしゃるのでしょうか」
シルバーバーチが語っているように、限られた範囲であるとしても、私たちは大霊から自由意志を与えられています。
しかし私の感覚では、地球人類にとって、その法則であるはずの大霊が、いつの間にか”規則としての神”へとすり替えられてしまったように見受けられます。
そして、”その規則(ルール)を守れなければ、神の意に反することとなり、ペナルティが生じることになる”とされ、その結果として、人々に恐怖が生み出されているようにも感じられます。
つまり、”神に従わなければ、罰として地獄に落ちるのです。もしも天国に行きたければ、神に従わなくてはならない。だから、ルールに従いなさい。”というような構図が見えてきます。
私にとってのそれは、大霊を無視した自分(たち)のためのルールであり、自分(たち)に都合の良い神なのです。
もしも大霊が、私たちを選別するために自由意志を与えているとするならば、それこそ恐怖の存在でしかありません。
180ページの終わりに、「私は邪と悪には二種類ある」と書かれています。
今回これについて詳しく説明できませんが、今日の読書会を通して、シルバーバーチはこの地上世界のことを知り尽くした上で、私たちにこのように語ってくれていたことがわかりました。
私も及ばずながら、少しずつ、捻じ曲げられてしまった知識などを矯正できるように協力していきたいと思っています。
今回は、そのような思いから出た報告でした。以上となります。
2023年8月27日日曜日
北神戸ぷちサークル「ホワイトイーグル読書会」の報告をしたいと思います。
8月25日金曜日に開催されました。
テキストは、前回に引き続き、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第2章カルマの法則 8 苦しみは唯一の道か? となります。
内容に入る前に、私がふと思ったことを述べさせていただきます。
私がホワイトイーグルの本を読むようになったのは、シルバーバーチや他のスピリチュアリズムの本を一通り読んだ後からでした。
北神戸ぷちサークルの読書会に参加するまでは、失礼ながら、ホワイトイーグルの教えは、シルバーバーチの霊訓の補足程度に考えていました。
理由としては、”ホワイトイーグルよりもシルバーバーチの方が霊格が高い”というような評判をどこからともなく耳にして、すでに読む前からそのような先入観が私の中で出来上がっていたからだと思います。
今、振り返ってみると、シルバーバーチの霊訓は、利己的な私という存在を変えるための手助けとなりました。一方、ホワイトイーグルの教えは、固くなりがちな私の思考に柔軟さを与え、視野を広げてくれました。
もしも、北神戸ぷちサークルのホワイトイーグル読書会に参加することがなかったとしたら、私の視野はかなり狭いままになっていたことでしょう。
私からすると、どちらの教えも私の成長に必要で、それらの教えを生かせるようになるためには、教えを十分に理解するだけの土台作りが必要であると感じました。
特に、シルバーバーチの霊訓で語られている言葉は、その当時の参加者の人たちに合わせていることを覚えておいた方が良いと思います。そのため、今の私たちの感覚のままで理解しようとすると、人によっては途中で読むのが嫌になってしまうかもしれません。
一例を出すと、ギブアンドテイク(give and teke)という言葉があります。
意味としては、相互の譲歩や協力を表現している言葉で、”お互いに利益を与え合う”ということになります。が、具体的には、”何かを提供する代わりに、見返りとして何かを受け取る”という考えが前提としてあるようです。
もしかしたら当時は、多くの人々の中に”提供と見返りはワンセットで、それによって相互利益となる”という考えが根底にあり、シルバーバーチにはそれが見えていたので、ことさらに自己犠牲の必要性を語ったのかもしれません。
(そもそも、多くの人々が宗教を信仰するのは、何かしらの”救い”という見返りを求めているからなのかもしれません。)
人のために役立つこととは、見返りを求めて行うものではないことを、今の私たちなら理解できると思います。
けれど過去にどんどん遡ってみると、自分たちが生き残るのに必死な時代では、自分が助けてもらった分、それを後で返すことによって、つまり見返りを前提とした行為によって、お互いに生き残る確率が増えたのかもしれません。
それでも本当に必要なのは、やはりシルバーバーチの言う通りに、”お互いが見返りを求めずに助け合う”ことなのだと思います。
そうでなければ、お返しが出来ない弱者ほど施す者に逆らえなくなり、ますます弱い立場へと追いやられてしまうかもしれないからです。
それを逆手にとって、ギブアンドテイクを悪用されることがないことを願っています。
話がズレてしまいましたが、ここでホワイトイーグルに戻りたいと思います。
81ページ13行目
「人間は、苦しみを拒絶しない限り、苦しみを通じて進歩し続けます。喜びの道を歩む進歩も可能ですが、どれほど多くの魂がこの道で満足な進歩を遂げることができるでしょうか?」
地上生活では、さまざまな形で苦しみを経験するものですが、「もう、嫌だ!」となって、ただ生きているだけのような状態であっても、進歩し続けていることになるのでしょうね。
だって、喜びの道は、霊の世界での喜びの生活でしょうから、それに比べたら、地上世界での苦しみがもたらす進歩の大きさは、計り知れないものだと思われます。
そういうこともあって、参加者のアイさんは、「今日一日これほど大変だったのだから、霊界での千年分は進歩したな~」と思ったりするそうです。
それを聞いた私は、そこまで欲張らずに、「地上での一日は、霊界での百年分」というお得な範囲にしています。
霊的真理の学びは、このように楽しくいきたいものですね。
予定より長くなってしまったので、今回はこれで終えたいと思います。
2023年8月23日水曜日
引き続き、オフ会での話の続きとなります。
ちりりんさんの話で印象的だったのは、「ミディアムシップは癒しが目的」という言葉でした。
ミディアムシップについて、私はあまり詳しいことはわかりませんが説明したいと思います。
ミディアムシップとは、ミディアム(霊媒)が故人の魂や霊的な存在とコミュニケーションを取るとされる能力のことのようです。霊界通信と呼ばれるものもそうだと思います。
ちりりんさんの話を聞いて思ったことは、もしもミディアムシップに癒しが存在しない場合は、それはミディアムシップを真似た憑依かもしれないと言うことでした。
以前の報告にもあるように、私は”ジャッジ癖”が強かったせいか、他のシルバーバーチ読書会に参加し始めた頃は、霊の世界から「ああしなさい。こうしなさい。これをしてはダメだ。こうでなければいけない。」など、親のしつけのようなアドバイスが多かったと感じています。
それでも私に恐怖心や不安感、損得勘定を引き出して天秤にかけるようなことが一度もなかったことは幸いです。今は自分に対して責任感を持っているので、親のしつけのようなアドバイスはなくなったように感じます。(ただ、今でも核心をつくようなことを伝えられた時は、やはりショックを受けますけどね。)
そういえば、初日に神戸を観光している時、「認知症」の話が出たことを思い出しました。
これはある一例なのですが、自分の人生が失敗したと思って、自分を否定していくために認知症になった女性の方がいました。
ここでは、プライベートに関わる話が出来ないのが残念です。時として魂の琴線に触れるのは、そのようなプライベートな体験を通した話だったりするようです。
ところで、アイさんとガイドを通じて聞いた話によると、この地上世界に生まれることは、7億円の宝くじを連続で当て続けることよりも難しいようなのです。
理由としては、地上の一日が霊界の100年に値するほど、霊的成長が可能だからだそうです。
そのため、地球に生まれたいと願っているスピリットが大勢いるようなのです。が、中には嫌々生まれてしまった人もいるかもしれませんね。
私たちは、霊の世界の素晴らしさを知ってしまうと、早くこの地上世界を脱し、霊の世界に行くことを望んでしまうと思いますが、霊の世界からみる地上世界は、霊的成長の可能性に満ちた素晴らしい世界に映るようです。
けっきょく、アイさんのガイドからの話をまとめてみると、「”私たちは、今、ここに存在している”ということが素晴らしいのである」となり、そのように実感できるまで、私たちに成長してもらいたいということになるようです。
これで”北神戸ぷちサークルとのオフ会”の話は終えたいと思います。
オフ会に参加する前までは、スピリットに導かれるままに”のらりくらり”とやってきたのですが、今、私の中で変化が起こってきています。
本物になりたい。
わずかですが、そのような向上心が芽生えてきたのです。
それは私にとって、とても凄いことなのです。今まであり得ないことなのです。素敵なことなのです。
私は初めて、私の生命に責任を持てるようになったということです。
と言うことで、終わります。
2023年8月22日火曜日
今回は、「その他のお知らせ」で報告した”北神戸ぷちサークルとのオフ会”の続きとなります。
そこでは、みなさんとの交流を通じて、いろいろな話を聞くことが出来ました。
今回、その時に聞いた内容を受けて、私なりに思いついた仮説を紹介したいと思います。
シルバーバーチの霊訓でも出てくる用語として、”バイブレーション”という言葉があります。
言葉的には、バイブレーションとは”振動”のことで、その場で周期的に動いているものを指します。
このバイブレーションとは、素粒子の正体であるとされている”ひもの振動状態”のことではないだろうか?と感じています。
そして、その”ひもの振動状態”は、思念によって変化すると考えられます。
さらに、その”ひも”には、それぞれの役割に応じていろいろな種類に分かれ、それぞれが関わっている次元も、”ひも”の形状によって異なるのではないだろうか?と考えています。
そう考えると、私たちのいる世界は、”ひも”の振動状態と形状によって作られているように思えます。
しかも、その”ひも”の振動状態と形状は、思念によって変化していくと考えるのならば、どのような思念を抱くかによって、世界が変わっていくことになります。
おさらいとして、アイさんのガイドを通じて教わった話では、地上世界の三次元空間は「開いたひも」であり、幽界では「渦の状態で閉じているひも」、霊界では「きれいな輪の状態で閉じているひも」とに分けられているそうなので、いろいろなものが三位一体で出来ているのかな~と感じています。
肉体、精神、霊(魂)。愛、ポジティブ、ネガティブ。振動、形状、思念。などいろいろと当てはめることが出来そうです。それに、善と悪の関係についても、そこに意識が加わることでそれを認識して判断することが出来るのですから、もしも私という存在がなかったとすれば、この世界も存在しないのかもしれませんね。
ただ、神界と呼ばれている世界はどのようなものかわかりませんし、そもそもその世界に”ひも”が存在しているのかわかりません。それに、シルバーバーチが居住している世界が、私の思っている”神界”であるのかどうかもわかりません。
もしかしたらスピリチュアリズムでは、高級霊と呼ばれているスピリットたちが居住している世界を神界と呼んで、宇宙のスピリットたちで構成する宇宙の会議場所みたいなのを神庁と呼んでいるのかも、と思ったりしました。
何故か私は、「大霊は人間が抱いているような”さまざまな色のついた神”ではなく、もっとも純粋でピュアな存在なのではないだろうか?」と感じています。
ここで妄想を止めて、シルバーバーチの言葉を思い出して考えてみます。
「思念は常に循環しています」
自分が発した思念は、相手に向けたものであっても、自分に返って来ることになり、反対に、自分に向けた思念であっても、相手に向かって発せられていることになります。
「そのうちのある種類のものが、同質の性格の人に引き寄せられます」
これは、自分と同質のバイブレーションの存在を引き寄せるということなのだと思います。
けれども実際には、重力、あるいは、質量によって、つまりエネルギーの質と大きさによって、時間の流れが異なるとされ、物質性の強い地上世界での現れ方は、タイムラグ(時間的なズレ)が大きいために、引き寄せていることを実感するのが難しいかもしれません。
そうは言ったものの霊の世界では、思った瞬間にそれに応じた存在を引き寄せているらしいのです。
一方、シルバーバーチの霊訓以外にも目を向けると、バイブレーションの他に、波動(wave)という言葉が使用されているのを見かけます。
波動とは、振動(バイブレーション)が空間を伝わって遠くまで届く現象のこととなります。
振動と波動という言葉の違いは、霊と霊力、あるいは、生命と生命力みたいな関係になると思います。
最後に、今回は(いつもそうかもしれませんが)、書いているうちに妄想して脱線をしてしまったので、せっかくこれを読まれているみなさんに迷惑をかけてしまっているかもしれません。
そもそも私という人間は、シルバーバーチ読書会を開催していると言っても、みなさんに答えを与えられる立場や存在ではなく、みなさんと共に学びながら右往左往しながらも、自分が探し求める答えを得ていくための道程を紹介しているにすぎません。
まぁ、それでも失敗ばかりの離婚経験のあるシングルファザーで、一会社員にしか過ぎない私であっても、守護霊やスピリットたちは見捨てないでくれました。
良い人たちにも巡り合えましたし、いろいろな人たちが支えてくれました。
ただ、私がドン底の時には、それがわかりませんでした。感じることも出来ませんでした。
でも今は、少しずつですが人々やスピリットたちの愛を感じることが出来るようになりました。
これまでの私の経験から、幸せを感じるためには、愛を感じることが出来るのかがとても重要で、欠かすことの出来ない必要な能力だと思っています。
どんなに人から愛されているとしても、その愛を自分で感じることが出来なければ、孤独を感じたり、虚しさを感じたりすると思います。
やはり、また脱線してしまいましたね。すみません。
北神戸ぷちサークルのオフ会で聞いた話は、まだまだ紹介しきれていないので、続きは後で書きたいと思います。以上。
2023年8月19日土曜日
今月のオンライン読書会の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)八章 背後霊の仕事」140ページ7行目から
141ページ2行目、「霊媒のバーバネルさんが他界なさる時がきたらどうしようかと心配でなりません。」と招待客の一人で心霊治療家として活躍している女性が述べると、
シルバーバーチは、「心配はおやめなさい。心配しても何の解決にもなりません。不安を抱いてはいけません。」と語られています。
私自身や共に読書会で学ぶ人たちの経験で言うと、頭の面では、心配や不安を抱いても何も解決しないことがわかってはいても、気持ちの面では、何かある事に心配や不安を抱いてしまいがちになるようです。
たぶん、シルバーバーチの霊訓を読んで多くの知識を得るだけでは不十分で、さまざまな経験を通して、知識を身に着ける(自分のものとする)必要があるのだと感じています。
随分と昔のことですが、知識を得ただけで自分は悟った気持ちになって、「自分は特別な存在かもしれない」と優越感を抱いたこともありました。
その時を振り返るとかなり恥ずかしいのですが、勝手に自分が思っていただけなのでギリギリセーフだと思います。
141ページ7行目、
「あとのことはあとの者が面倒を見ます。ますます発達していく科学技術のおかげで私たちが為し遂げた以上の規模の人々に真理を普及する手段が活用されるようになります。」
今、これを読んで、私が子供の頃(だいたい40年くらい前)に、新聞の広告欄にいろいろなジャンルの本が紹介されていたので、そこで興味を持った本を探しに、本屋さん巡りをしたしたことを思い出しました。
今では近隣に5件あった本屋さんのうち4件が閉店してしまったので、子供の頃のように本屋さん巡りはしていませんが、ネット通販があるので、今はインターネットで探して買えるので便利です。
たしか40年前だと、通販で注文すると、今と違って商品が届くまでに二週間から一か月近くかかる時もあって、自分で店まで買いに行く方が早かったということも思い出しました。
自分が読みたい本を、外に出て本屋に行かなくても買えるようになったことはもちろんですが、真理を普及する伝達手段が、今までの本や新聞などのような紙の媒体からインターネットへと広がっていったことは、子供の頃の私からすれば、何と驚異的なことでしょうか。
142ページ12行目、
「援助を求めてあなたのもとを訪ねる人をけっして拒絶してはなりません。かといって、そういう人を求め歩いてはいけません。向こうからやってくるものなのです。”病気を治してほしい人はいませんか”などと町を触れてまわるようなことをしてはなりません。あなたの援助を求めて先方から駆けつけるものなのです。」
このことは本当にそうだと感じています。
これは足立シルバーバーチ読書会にも当てはまることだと思います。
そもそも私は、たった一人でも読書会で共に学び合う仲間がいるのなら、このまま十年間は読書会を続けようと思っています。
その後のことは、自分か、あるいは世の中が変わっている可能性が感じられるので、未定なのですけど……。
ということで、今回の報告を終えたいと思います。
2023年8月12日土曜日
北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」の報告です。
昨日使用したテキストは、シルバーバーチの霊訓(二)七章 霊媒が入神しているとき 124ページ13行目からとなります。
今回は、「みなさんが恐怖心を抱かないように」と繰り返し述べられているのが印象的でした。
今回の読書会では特に扱われていなかったのですが、こうして文章を打ち込んでいる時に目に入った文章があるので、それを紹介したいと思います。
126ページ12行目
「いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。」
今も私はこのようなシルバーバーチの言葉や思い、潔い態度にとても好感を抱いております。
もしも私たちがシルバーバーチの言葉を受け入れることが出来なかったとしても、シルバーバーチが私たちを脅したり、恐怖心や不安感を煽り立て、無理やり従わせるようなことは絶対にありえないことです。
そもそも、あの手この手を使って人を操作し、自分の思い通りにコントロールしようとするスピリットであったとすれば、そのスピリットはスピリットになりきれていない未熟な霊だと思います。
そして、私のジャッジ癖もそうなのですが、シルバーバーチとは反対に、「あらゆることに方向づけをし、自由を奪おうとすることは霊的にどうであるのか?」を自分で考えてみる必要があると思いました。
私が霊の世界からのアドバイスを聞いた後、この間、自分を改善していくための努力をしているうちに、「ほんと、どうでも良いことにこだわっていたんだな~」と、思えるようになってきました。
そもそも大霊が、人に自由意志を与えておいて、「あれは良い、これはダメ、これをしたから誉めたたえ、あれをしたから罰を与えよう。それが法則であり、神なのだ」としているならば、その大霊はとてもまともであるとは思えません。
もしも神がジャッジすると思っているのなら、もしかしたら人間である私たちが、そのように大霊を人間的にジャッジしているせいなのかもしれません。
それと、スピリットの方々は、みなさんの(私たちが考えている以上に)自由意志を大切にされています。
未熟な霊は別として、スピリットがみなさんの自由意志を尊重しているのには、たしかな理由があるのだと思いますが、はっきりこうだと言えるほど、私は成長出来ていません。
ただ、自分の中に存在している” 愛 ”が関係しているように感じます。
愛と一言で言ってもいろいろとあって、もしかしたら、「相手を支配しコントロールすることによって、自分という素晴らしい存在の下にいられるのだから、相手も幸せであるはずだ」というように考え、それを愛だと本気で思っている人がいるかもしれません。
これは極端な例ですが、自由意志を尊重する愛とは違いますよね。
今回は、自分が思ったことを書いてみましたが、シルバーバーチの霊訓からいつも脱線してしまうので、すみません。
以上となります。
2023年8月7日月曜日
読書会の報告の続きです。
シルバーバーチの霊訓(三)十一章 霊と意識の起原 172ページ10行目では、
「スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界のほうからこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。」と語られています。
過去の私を振り返ると、そのような不平・不満を少なからず抱いていました。
たとえば、「なぜ神は、不公平な世の中のままにしておくのだろうか?」などのように考え、自分を中心とした世界観(自分が常に善の存在であるとして)を持って、自分以外の外側の部分を変えていく必要があると思っていました。
お気づきになられた方もいると思いますが、世界を良くして、自分が幸せになるためには、自分を変えるのではなく、自分の外側を変える必要があると思ってしまったのです。
そうすることが成長することだと思っていました。
もしかしたら私がそうであったように、霊的な成長と言う言葉を知ってはいても、その意味をあまり理解出来ていない人もいるかもしれません。
つまりこう思っていたわけです。
「霊的成長をするためには、自分がさらに善であり続ける必要がある」と。
そのような思いから、私の中で常に自分が善であり続けようとするために、自分の外側に善ではないものを見つけ出し、それに悪のレッテルを貼っていく。
そして、そこで見つけ出した悪を無くすことによって、自分の霊的成長に繋げ、世界を良くしていく。
自分の中にそのような構図が出来上がっていました。
それは、世界と自分とは切り離された別々のものであると(無意識の内にも)認識していたからだと思います。
174ページ4行目で、「不公平を口にされるのは問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えにならないからです。」と語られています。
やはり私は肉体を持った人間であるからでしょうか、霊的成長についても、自分の肉体を通した観点の霊的成長にしか、思いが及んでいませんでした。
今までの私は、私たちが住んでいる地球、あるいは、動物たちや植物たち、さらに、物的な肉体を持ち合わせていないスピリットたちの観点で考えることを、ほとんどしたことがありませんでした。
それでもかつての私は、「自分は無限の生命の観点から言っているのだ」と相手の間違いや未熟さを指摘して、けっきょく自分の非を認めずに、言い訳やごまかしをしながら、自分の中で辻妻合わせをしてきました。
さらに、「世界がこうだから人々がこうなっている。あるいは、人々がこうだから世界がこうなっている」というように、そこに自分がどのように関わっているのかは、また別の問題だったのです。
そのような私でしたが、それなりの段階を経て、世界よりも自分を変えていく必要を感じ、そのための努力をしていくようになりました。
けれどもやり方そのものは、今までと変わっていないので、今度は自分の内側に善でないものを見つけ出し、それを悪であるとし、その悪を無くそうとしていくのが霊的成長であるとしたのです。
このように今までの私は、自分の外側と内側という違いはあっても、その両方でそれぞれ善と悪とに分類し、善を守り、悪を滅ぼすことによって、自分が霊的にも高い地位を確保出来るのだと思い込んでいました。
それがジャッジ癖と呼ばれている、私の霊的成長を阻害してきた原因でもあると感じております。
もしもかつての私のように、悪を打ち負かし、善を勝利させることが霊的にも正しいことだと思い込んでいるとすれば、世界は矛盾や不公平さに満ちていて、とても窮屈で生きづらいものだと感じてしまうかもしれません。
ともかく私は、自分の意識を広げる努力をしつつ、自分の中に不足しているものを探し続けました。
そして、自分がこれまで得てきた知識や概念を一旦どかして、どのような出来事も判断せずにありのまま受け入れる努力をしてみました。
やがて私は、「世界にああなって欲しい、こうなって欲しいと要求ばかりして、まるで駄々っ子ではないだろうか?私は世界と喧嘩ばかりしている。」ということに気づきました。
すかさず私は、「世界と仲直りしよう!」と思いました。
今まで分断されてきた私と世界は、ここでようやく私の意識の中でも繋がることが出来ました。そもそも、「原因と結果の法則」あるいは、「蒔いた種を自分が刈り取ることになる」ということを知っていたのですから、世界と私が分断されていると思っていることの方がおかしかったのですが……。
さらに、私たちが大霊の一部であることを知ってはいても、私の中では「私は私、世界は世界」として別々に存在していたのが、今はわかるようになりました。
このことは、私と世界との関係だけに限らずに、私と神との関係にも当てはまりました。
かつての私は、自分の外側に存在している(であろう)神の御心に叶うことが霊的真理だと思い込んでいた時もありました。
ここで視点を変えますが、自分の中で、自分に向けて使用している言葉に含まれているエネルギーにも注意してみました。
私が「愛を与える」という言葉を使う時は、上の立場から下を見下ろすような高慢さが含まれていました。
そのため「愛を与え合う」という言葉を使う時でさえも、自分と相手とが分断された状態であるのが感じられました。
話を戻しますと、「世界と仲直りしよう!」と思った時、私は「この世界と愛を分かち合おう。世界と一緒に協力していこう。」という思いが沸き上がりました。
結果的に、今の私は凄く楽になりました。
今まで感じていた、霊的成長を阻害している胸の支えが感じられなくなりました。
しかも、自分の中にある「悪のレッテルを貼られてきた未熟さ」を受け入れることによって、その未熟な部分の私と愛を分かち合うことが出来るようになりました。
これを癒しと言うのかもしれません。また、人によっては、これを「許し」と言うのかもしれません。
最後に、今、私がやっていることは、今まで私の中で、善悪、優劣、高低などに分けて裁いてきたものを「仲直り」させることです。
私の心の中の移り変わりのことを、こうして言葉に出してみても、思ったように上手く伝わらないかもしれません。
でもこれだけは言えそうです。
自分の外側に神を求めると、私と世界と人々とは、その神を通して分断されていき、やがて争いが生み出されます。
自分の内側に神を求めると、私と世界と人々とは、その神を通して繋がっていき、やがて平和が生み出されます。と。
今回の報告は、以上となります。
2023年8月6日日曜日
本日開催した「足立シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)十一章 霊と意識の起原」177ページ6行目までとなります。
今回は、冒頭の「霊の力とはどんなものでしょうか。」という質問を受け、シルバーバーチは答えられています。
170ページ7行目では、
「たしかに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。」と語っていて、愛の力と霊の力とを区別されています。
そして、「霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。」(171ページ3行目)と語っています。
私の経験上から言うと、どうしても肉体を持っている人間の延長として、神を思い浮かべてしまうのではないでしょうか?
そのような人の形をした神という存在をどんなに偉大なものにしたとしても、やはりそこには限界があり、それは大霊の一部でしかないと私は感じております。
171ページ14行目では、次のように語られています。
「しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒 ― どうお呼びになっても構いません ― そうしたものが無ければならないということです。」
今回の章を学んで、神を言葉でどのように現わそうとしても顕現するための制約があり、そこには限界があるということを改めて認識しました。
そもそも今まで抱いてきた神の概念を、そうやすやすと変えていくことは難しいと感じております。
言葉ではわかっているつもりでも、その言葉で現わそうとしていることに制約があるのですから、結局は神を理解することは難しいということがわかりました。
シルバーバーチが語るように、霊の力が神であるならば、やはり、私の中のジャッジ癖(無意識であっても、相手や自分も含めて常に良し悪しをつけて批判してきたこと)は、良くなかったのかな~と思っています。
今回は、ここまでにして、続きは後日書きたいと思います。
2023年7月29日土曜日
昨日、北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」に参加しました。
テキストは、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第2章カルマの法則 8 苦しみは唯一の道か? となります。
82ページ最後に、
人間の一つの大きな叫びは、「なぜ自分は苦しむのか?」ということです。これに対する答えは、あなたがたが自分自身で苦しみを招来している、ということです。と書かれています。
このことを自分自身に当てはめて考えてみたいと思います。
ちょうど今週初めに、過去に犯した自分の嫌な部分が次々と表面化し、数日間ですが、けっこう精神的に辛い時間を過ごしてきました。
それと合わせて、とても暑い日々が続いていることもあり、仕事に行くのが嫌になることもありました。
83ページ最初に、「しかし、もし目に見えない生命や目に見えない使者に対する信頼、希望、信念に向き合うなら、あなたがたは自分自身を助けるうえで助力を得ることができます。あなたがたは、ひとりで放っておかれているわけではありません。あなたがたに付き添うガイド(守護霊)がいます。」
今回の読書会に限った事ではありませんが、上に書かれた文章のように、読書会の終わりにアイさんとアイさんのガイドから、いろいろなアドバイスをいただきました。
まず、アイさん自身のしんどい体験(きつい、辛い体験)が紹介されました。
日常生活での”しんどさ”は、(ガイドを通じて)現状より一段と高く、とても素晴らしい世界に留まっている時の”しんどさ”に通じるものがあるということでした。
自分が行きたいと願う霊の世界で過ごすためには、今、地上で経験している”しんどさ”をのりこえ、平然といられるだけの向上と成長が求められるようです。
きっと現状で満足している場合は、それほど辛い経験が必要だとは思わないのでしょうが、私も肉体を後にした時のことを考えると、今より素晴らしい世界に行きたいと思います。
やはり話を聞いていて、「今、自分はどう生きているのか?」ということが、霊の世界での居住地を決めるのだということを、改めて感じました。
次に、アイさんのガイドからのアドバイスです。
前置きとして、アイさんは、「(WAKAの)ガイドが直接アドバイスしてくれれば良いのですが」ということを話してくれました。何故なら、霊的成長のためのアドバイスは、時として、人の中のもっとも痛い部分を突つくことがあるからだと思います。
現状では、私のガイドがアドバイスをくれているのを感じますが、私はアイさんのようにはっきりとはわかりません。アイさんのガイドを通じて、「あぁ、やっぱりそうなんだ」と認識し、さらに自覚を強くしていく形となっています。
アドバイスの内容を大まかに述べますと、「感情論的な視点で判断すれば、論点がずれてしまうこと。ニュートラルの視点で見ることが必要である。」ということでした。
つまり、今の私は感情的になって視野が狭くなり、俯瞰的(フカンテキ)な視野を持てなくなっているのだと思います。
さらに、そのような感情論的になってしまう原因は、自分の奥底に”ジャッジ癖”があるからだということでした。
簡単に言うと、自分の中の善悪の概念に照らし合わせて、(無意識の内にも)自分も含めて人を裁いてしまうことです。
今回の場合、私の(十数年以上前の)過去の行いが思い起こされ、その時の他人に対する傲慢さが、今度は私を苦しめることになりました。
でもそれは、今まで私が他人を裁いてきたように、今度は私が自分を裁くことによって生み出されている苦しみなのです。
そこで私は、「霊的成長のために無駄なことは一つもない、全ては必要なことだった」と思うようにしました。
最近、特に思うことは、「大霊は人を裁くだろうか?人を裁くのは、神ではなく人ではないだろうか?もしかしたら、人が善悪で裁こうとするのは、自分にとって都合が良いか悪いかという損得ではなかろうか?」ということです。
私のジャッジ癖は、私の損得勘定と密接に繋がっているようにも感じます。
このように書いている私ですが、自分を変えていくのはかなり大変だと感じております。
さらに、子供の頃に教わった「教条的なものを批判するために、霊的知識を取り入れた教条的な教え」が身に染みついています。それは「現状の宗教を批判するために、霊的知識を取り入れた宗教を信仰してきた」ということになるかと思います。
今振り返ると、私は批判しようがしまいが、同じ土俵の上で踊らされてきたように感じています。
まぁ、ここまで思うままに書いてしまいましたが、けっきょくいつも、「霊界から丸見えやねん」というのが一番の感想です。
でも、それが霊界からの愛なのだと感じています。
今回は、「その他のお知らせ」に、この話の続きを書いています。
ということで、読書会のみなさん、そして、ガイドのみなさん、ありがとうございました。
今回は、以上となります。
2023年7月26日水曜日
7月のオンライン読書会の報告です。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(十)背後霊の仕事 140ページ6行目までとなります。
最初に、「一般的に言って指導霊というのは人間のパーソナリティの規模を拡張した、その延長と考えてよろしいでしょうか。それともまったく別個の存在でしょうか。」という質問で始まります。
シルバーバーチは、それに対して「とても複雑な問題です。今おしゃったパーソナリティはインディビジュアリティに置きかえた方が良いと思います。私は物的身体から派生する人物像であるパーソナリティと、その人物像という仮面(マスク)の背後の実像であるインディビジュアリティとを区別しております。」と答えています。
たぶん多くの方にとって、死後の世界での私とは、肉体を失っただけで、今、肉体を携えている自分の延長であると考えているのではないでしょうか?
以前、読書会の時に次のような質問をしたことがあります。
「この地上に生まれてくる前の私は、今の肉体を携えていないのですが、地上に誕生する前の私とは、どのような私であったのでしょうか?」と。
今回、この章を学んでいく中で、参加者の方から出された意見に、「シルバーバーチの説明に納得出来ない部分がある。」というものがありました。
それは次のようなことです。
訳者注にもあるように、これまではインディビジュアリティとダイヤモンドとが同一物であるような表現をされていました。しかし今回は、「さらにそのダイヤモンドがいくつか集まって一個のインディビジュアリティを構成しております。」という表現で説明されています。
訳者注の最後で、近藤千雄氏は、「シルバーバーチがたびたび言っているように、用語にはあまりこだわらない方がよい」と記されています。が、やっぱりスッキリしないとのことです。
ここで私の見解を述べると、新たな誤解を生むかもしれませんので止めますが、もしかしたら、肝心な大霊とインディビジュアリティとの関係がどうなっているのか?が見えてこないために、私たちが大霊の一部であるという実感が得られていないのではないのかと感じました。
きっとそのことは、言葉や知識だけで理解しようとしても出来ないことなのかもしれません。でもそれぞれの人が、「大霊と自分との繋がりはどのようになっているのか?」を考えるのは決して無駄ではないと思っています。
138ページ5行目からの質問に、「その導きの源が普遍的な始原なのか、それとも特定の指導霊なのかという点です。」とあります。
138ページ10行目で、シルバーバーチは、「すべての導きは宇宙の大霊すなわち神から来ます。」と答えていますので、これを心に留めて、”師は弟子に合わせて法を説く”という言葉を考えたいと思います。
たぶんその諺は、”機に因りて法を説け”のことを言っているのかもしれませんが、それは私にはわかりません。
それでもシルバーバーチが伝えたいことはわかります。
大霊は、私たち一人一人に合わせて導いてくれているということ。それがどのように映るのかは人それぞれだとしても、「すべての導きは宇宙の大霊すなわち神から来ます。」とシルバーバーチが答えてくれているので、とても励みになりますし、神に見捨てられていないという安心感が芽生えてきます。
今回は、これで終えたいと思いますが、もっと時間を作って、みなさんにいろいろ伝えることもしていきたいと思っています。
忘れたら申し訳ないのですが、次回は、あることをきっかけに、「自分の中の闇と向き合ったこと」を書きたいと思います。
以上となります。
2023年7月17日月曜日
引き続き、北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」の報告となります。
テキストは、シルバーバーチの霊訓(二)六章 霊媒現象の原理(113ページ5行目)から 七章 霊媒が入神しているとき(124ページ12行目)までです。
今回は、「七章 霊媒が入神しているとき」の内容となります。
みなさんは、”入神”という言葉をご存じでしょうか?
入神とは、”技術が非常に上達し、神技かと思えるほどである”ことです。
けれども”入神中”という言葉となると意味が違ってきます。その場合は、入神状態、あるいは、トランス状態と呼ばれるもので、通常とは異なった意識の状態の時に使われています。
一方、霊などがのりうつる場合は、”憑依”という言葉を使用します。
ですが、ただたんに憑依と言う時は、一方的に人が霊に取り憑かれている場合に使う言葉ですので、シルバーバーチの霊訓では、”霊媒に憑かっている(ツカッテイル)”という表現になっています。
また、霊媒という言葉は、地上と霊の世界の媒介者、あるいは、その媒介者を通して、霊(スピリット)が話などをすることに使用します。
118ページ10行目
「そうではありません。うまくコントロールするコツ─やはりコツがあるのです─は霊媒を操りながら同時に霊界との連絡をいかにして維持するかという点にあります。一方で通信網を保ちながら、他方で情報の供給源との接触を維持しなければなりません。」
その後も通信線の一本が切れてしまった話などが続き、まるで人間の肉体が”乗り物”か”ロボット”であるのかのように感じられます。
私はここの部分で、スピリットが人間の肉体のパイロットのように思えてきて、「私も私の肉体のパイロットなんだろうな~」と思いました。
今回は、普段使用しない言葉が多かったので、言葉の説明ばかりになってしまいましたが、私がこの章で面白くて良かったと思ったのは、
123ページの最後の「どうか、私のことをあなた方の兄貴だと思ってください。あなたを愛し、いつも側にいて、精一杯あなたを守り導きたいという願望をもって腐心している兄貴と思ってください。」という個所です。
参加者の方の感想を聞いて改めて思ったのは、”お馴染みのネイティブアメリカンの肖像画は、霊の世界の霊媒の姿であることは理解していても、やはりシルバーバーチは男性なのですね”ということでした。
それはそれとして、シルバーバーチは、語る内容からお堅いイメージもあると思いますが、意外とフレンドリーで優しい方だと感じます。さらに個人批判をしませんし、みんなの自由意志を尊重している態度は、私も身に付けていきたいと思っています。
今回の読書会を終えて、いつかシルバーバーチのように、「あなたを愛し、いつも側にいて、精一杯あなたを守り導きたい」と、何も見返りを求めずに、ごく自然に言えるような成長の仕方をしていきたいと思いました。
ところで私は、人の上に立つとか、世界や人類を救うとか、そういうものには興味がわきません。さすがに目の前で苦しんでいる人に対して、”見て見ぬ振り”をするようなことはしないですし、困っている人を助けたいという気持ちはあります。けれども、人が成長するためには、苦しみも必要であることがわかってきたからかもしれません。
今回も北神戸ぷちサークルの読書会に参加して、より多くの人たちと一緒に学べたことは、私にとって幸せなことです。
ありがとうございました。
以上となります。
2023年7月16日日曜日
7月14日金曜日に開催された”北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」”の報告です。
テキストは、シルバーバーチの霊訓(二)六章 霊媒現象の原理(113ページ5行目)から 七章 霊媒が入神しているとき(124ページ12行目)までとなります。
最初に、六章の感想で印象に残ったのは、113ページ9行目から13行目の
「そうした地上の協力者を通じて働いているスピリットを背後から指揮している力は、人間を悩ませる程度の試練や困難を乗り越えさせるくらいのことは何でもないことだからです。ただし、そうした際にもっとも大切なのは”確信”です。背後の力に対する不動の確信―日常生活にとって必要なものはかならず授けてくださるという静かな確信です。」
やはり、みなさんの感想を聞いていると、長年シルバーバーチの霊訓を読んで学んできたとしても、ここで語られているような”確信”を持つのは難しいことだと感じました。
ここで面白いと思ったのは、地上の協力者を通じて働いているスピリットの力ではなく、そのスピリットを背後から指揮している力が何だかとても凄いということです。
その背後の力とは(人によって意見が分かれるかもしれませんが)、ナザレのイエスを思い浮かべる人も多いかもしれません。それはそれで良いと思いますし、それぞれの方の自由だと思っています。
けれども、113ページ3行目に「その霊団の上にはさらに高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限につながっているのです。」と語られていることから、誰か特定のスピリットに限定するよりは、大霊に至るまでの果てしなく続く霊団の繋がりを思い浮かべた方が良いと感じています。
そのように考えれば、自分を導くスピリット、あるいは、自分の守護霊の霊格が高いかどうかで”自分の価値判断”をする必要もないでしょうし、”他人の価値判断”もする必要がなくなると思われます。
大霊に至るまでの果てしなく続く霊団の繋がりを、自分の内奥に宿すことで、先に述べられている”確信”が得られるのではないかと感じています。
(無理もないことかもしれませんが)自分に関わるスピリットの霊格によって、自分の人生や価値を判断しようとする人が多いように見受けられます。
私たちこそが大霊の一部であるにも関わらず、まるでそうではないかのように、価値の高い大霊と価値の低い大霊とに分けられ、判断されているように見受けられるのです。
スピリチュアル・ヒーリングの場合でも、ヒーリングに関わるスピリット自らが霊媒となって、より高い霊団から力を得る場合があります。みんな繋がっているので、そのようなことが可能なのです。
けっきょく、大霊のごく一部だけを見させようとする視野の狭い(自分を崇めさせようとする)スピリットは、スピリットになりきれていない、つまり、大霊の一部であると自覚が出来ていない霊だと感じますし、それは、地上の人間にも当てはまるのではないかと感じています。
ぜひ、みなさんに視野を大きく持っていただきたいと思いますし、そのための”意識の拡大”をして、大霊に思いを寄せるのが良いのではないのかと思っています。
今回はこれで終えて、七章については改めて報告したいと思います。
2023年7月2日日曜日
今日開催の読書会の報告です。
(が、今の私には休みがとても貴重です。他にもやりたいことがたくさんあるので、詳しい内容については時間が出来たときに報告したいと思います。)
今回は会場の都合で、東京芸術センター20階の和室で開催しました。良く晴れていたこともあって、とても見晴らしが良かったです。思っていたよりみなさんに好評でしたので、年に2回くらいは20階の和室で開催しようと思っています。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)十章 前世・現世・来世」159ページ6行目からでした。
後半は、5月のオンライン読書会で扱ったテーマ「霊と魂の違いについて」を、会場に参加されているみなさんと学んでいきました。
それと、少し前に「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」というのを教えてもらったので、その紹介もしました。
今の読書会は、肩の力を抜いて楽しく学ぶことの出来る場となっているので、私としては今のような進め方で良いと感じています。
以上、報告を終わります。