ベールの彼方の生活(一)の学習

 時間がある時に少しずつでも、学んだことを記録していきたいと思います。2023年10月17日火曜日


2024年1月12日金曜日

 

 58ページ9行目、

 「善なるものがすべて神のものであることは言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、また絶対では有り得ないということです。両者は相対的に理解しなくてはいけません。」

 

 相対的に理解するとはどういうことでしょうか?

 

 ここで一度、言葉の意味を確認してみたいと思います。

 

 絶対的とは、他の何ものと比べようもない状態・存在であるさま。相対的とは、他との関係や比較の上に成り立つさま。

 

 私たち神の子(大霊の一部)は、絶対的な善にも悪にもなり得ないということなのでしょう。

 

 57ページ3行目、

 「父なる神の王国はあなたがたが想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまであなた方は、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは一つも見当たらなかったはずです。そのようなところは一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。」

 

 このことはもっともな話で、もしも完全とか絶対とかであるならば、そこには、もうそれ以上の成長や進化が望めないということになります。これは各界層のことでもあるし、それぞれの住人のことでもあるのでしょう。

 

 善性と邪悪性とはそれぞれ別々のものから生み出されているのではなく、一つの同じ源から生み出されているということを、改めて認識しました。

 それはたった一人の人間を見ても当てはまることで、宗教的な用語を使えば、天使と悪魔の両方を兼ね備えているのが人間であり、それ故に神の子と呼ばれるのだと感じます。

 

 これらの理解が深まれば、各自が有する偏見や差別などの思いが薄らいでくるのではないのかと感じています。

 

 やはり霊的知識を学ぶことの良いところは、自分への理解と他人への理解が深まることと、他者への思いやりが育ってくることだと感じております。


2023年12月17日日曜日

 

 6 暗黒界の天使

 52ページ6行目、

 「前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私にはきわめて自然につなぐことが出来ます。と言うのは、実体のあるものとして──もちろん霊界の私たちにとって実体があるということです── 実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団がいま私たちが働いている界とその霊団のいる高級界との間に掛けた〝光の柱〟と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。」

 

 まずはじめに、天界の低地と暗黒界との間のかけ橋は、高級界とオーエン氏の母が働いている界との間に掛けた〝光の柱〟と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象であると説明されています。

 

 私はここで以下のようなことを想像しました。

 

 もしも、暗黒界と天界の低地をつなぐ架け橋がなかったとすれば、暗黒界の住人は、どんなに頑張って成長しても、そこから自力で抜け出す手段が他にあるのだろうか?

 

 そして、永遠の地獄の存在を信じている人には申し訳ないのですが、自分の意に沿わないという理由で、永遠の地獄に閉じ込めるような存在を、神と呼べるのだろうか?と。

 

 これから話すことは、今から三十年以上前のことですが、今もこの問題について考えています。

 

 それはその当時に、ある宗教家の教え伝えてきた内容が、反面教師として今も私の心に残っているからです。

 

 「一度地獄に落ちた魂は救われない。唯一救われるためには、私の信じる神を信仰しなければならない。」


   最初は、そうなのかもしれないと思っていましたが、だんだんとその言葉に違和感を感じるようになってきました。そして、その違和感の正体がなんであるのかを考えるようになっていきました。

 

 やがてある時、「宗教霊」という文字が私の中に現れました。

 

 これは私なりの解釈ですが、今まで自分が身に着けてきた”霊的知識”を、絶対的な”霊的真理”であると信じて思い込んでしまったために、死後、霊の世界に帰った後も、その”霊的知識”に束縛されたまま過ごされている方たちだと感じております。

 

     ここで紹介している宗教霊の手口は、まず、相手を恐怖で縛りつけようとします。そして、唯一その恐怖から救われる方法(優しさなど)を見せることで相手を支配しようとします。

 逆にもともと相手が恐怖にさらされている場合には、最初に飴を用意して、頃合いを見て鞭によって支配しようとします。

    宗教霊は、一見、表面上は利他的に見えても、根底にある動機はとても利己的であると感じられます。

 

 そのやり方が狡猾であれば(それでも自分が善であると思っているかもしれませんが)、相手の良心に付け込んで、やんわりと相手のことを縛りつけていくことでしょう。

 

 ところで、この宗教霊にとっては、常に支配する側は神であり、もしくは選ばれている自分(たち)であり、支配される側はそれを信じる人間(たち)であるようです。

 

 そのような存在の教えとは違って、私たちにとっての神とは、霊的な父や母であり、愛そのものであるというのが、今のところ受け入れ易いように感じています。

 

 ですが私は、”何故、神を友人や兄弟姉妹のように思ってはいけないのだろうか?”ということを思ったりします。

 

 そのように私が思ったりするのは、日頃から”大霊とは何であろうか?真理とは何であろうか?無限とは何であろうか?永遠とは何であろうか?私とは何であろうか?”などの答えを知りたがる性質だからかもしれません。

 

 さらに私は、”自分が自分の全てをコントロールをすることが出来ずに、いろいろと失敗をしてしまうのは、この私が、私と思っている存在の一部でしかないからである。”ということ(私の見解でしかないけれど)に気づくことで、つくづく人間って、奥の深い存在だと感じております。

 

 当初書こうと思っていた内容と違ってしまいましたが、今回はここまでにしたいと思います。


2023年11月21日火曜日

 

 50ページ15行目、

 「しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象づけることにあったのでしょう。私たちのように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには充分であったと思われます。」

 

 51ページ9行目、

 「今回の顕現で私たちが最も強い印象を受けたことは大天使の沈黙のうちに語るその威力でした。ひとことも語られなかったにも拘わらず、その動き一つ一つが声となって私たちに語りかけてくれるように思えたのです。それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。」

 

 ベールの彼方の生活で語られていることは、どこをとっても奥が深いな~と感じております。

 

 オーエン氏の母が描写する大天使は、とても偉大な存在であることが私にも感じられました。


2023年11月17日金曜日 

     

 5 キリスト神の”顕現” 

 

 46ページ6行目、 

 「──私がこうして書いている姿が見えますか。 

 

 「見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私たちの眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかける──あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように、私たちがあなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。肉体は外套のようなものに過ぎません。ですから、かりに私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じるわけです。私たちの感応の具合を理解するにはその点を念頭において、身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。」

 

    霊と人との交流は、このような形で行われているようです。

 

   47ページ3行目、  

  「神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝することは出来ないのです。これは必ずしもこちらへやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないということです。」 

 

 得心されない人たちは、ある特定の神や仏、あるいは、天使や守護霊、聖人や賢者などを崇め奉っていた人も多かったのではないでしょうか。 

 

 47ページ14行目、

   「ある時、私たちは田園地帯のある場所に招集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まることになっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだことが自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方たちに連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私たちとともに感謝の祈りを捧げるためです。年齢はさまざまです。年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。 」

 

 きっと霊の世界では、地上時代の宗教や信仰、そして、国籍や民族による顔かたちの違い、さらに地上時代の年齢や性別、地位や立場、貧富の差などへのこだわりや執着をのりこえていく必要があるのでしょう。 

 

 今、こうして学んでいる私たちにとっても、例外ではないと感じております。 

 

 48ページ15行目、

 「天使の集団がこの低い環境(その天使から見て低いということですが)に慣染むにつれて、その御姿が次第に私たちの視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字が交叉するあたりの上方にさらにもう一つの、一段と大きい天使の御姿が現われました。それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(※)としてのキリスト神の一表現でした。 

 

 (※本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第三巻で明かされる──訳者) 

 

 ちなみに、”具象化(ぐしょうか)”の意味を調べてみると、「頭の中で考えている形のないものを、実際に形にすること、またははっきりとした姿や形で表すことを意味します。たとえば、頭の中に浮かんだ「りんご」というイメージを、絵に描く行為などによって、形にすることを表します。」ということでした。 

 

 つまり、具象体として顕現されている霊の姿とは、見る人によって異なっている可能性があるということです。 

 

 私の例を出してみると、睡眠中に暗黒界を訪れたとき、ある一人の女性がとても魅力的に見えたのです。しかし、その世界である任務についていたのですが、その時の私は欲望を抑えきれなくなって失敗してしまいました

 

    その後、その女性の実際の姿は骸骨であったことがわかりました。 少なくともその時の私にとっては、その女性が魅力的に映っていたのです。そのことは今でも不思議に感じています。 


2023年11月12日日曜日

 

 4 光のかけ橋

 

 41ページ5行目、

 「さて、ここで例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。」

 

 「私たちのいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私たちはその生命力を活用して物をこしらえているのです。」

 

 「言わば私たちの意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。」

 

 「つきつめれば全ての現象はその生命力で出来ているからです。」

 

 「環境は私たちを始め全存在を包む深い生命力の顕現したものにすぎません。」

 

 「それを原料として私たちは物をこしらえ成就することが出来るのです。」

 

 「バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。」

 

 バイブレーションという用語は、シルバーバーチの霊訓にもたびたび出てきますが、量子学を学んだことがある人なら、なおさら”なるほど”と思えるかもしれません。

 

 シルバーバーチの霊訓(二)九章 この世、そしてあの世 148ページ10行目、

 「現実というのは相対語であることを忘れないでください。」

 

 ここで語られている”現実(という言葉)は相対語である”とは、この世界が他との関係や比較なしに成り立っている”絶対的”なものではなく、他との関係や比較の上で成り立っている”相対的”なものであると言う意味だと思います。

 

 たとえば、絶対的な世界となると、その世界に私がいようがいなかろうが、また、他の誰かがいようがいなかろうが関係なく、その世界は存在していることになります。ということは、絶対的な世界と私とは、別々に存在出来る別々のものであるということになります。

 

 しかし実際には、現実と私たちが別々に存在することは出来ません。

    ”ベールの彼方の生活”によれば、実際に私たち自身が、この現実を作り上げているそうなのです。

 

 けれども地上におけるバイブレーションが鈍重であるために、そのことがはっきりとはわからないのだと思われます。

 

 もしも私たちのバイブレーションが、今よりもっと精妙かつ軽快なものとなっていけば、意識と現実との関係が、よりはっきりとわかってくると考えられます。


2023年11月12日日曜日

 

 3 バイブレーションの原理

 

 33ページ7行目、

 「悲劇をただの不幸と受けとめることがいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の”価値”を理解して初めて判ることです。」

 

 33ページ、15行目、

 「神の摂理の基本原理はすべて単純だからです。」

 

 34ページ2行目、

 「つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換することだからです。」

 

 34ページ5行目、

 「いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視することは許されないのです。当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同等に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。」

 

 こうして抜き出した文章を、一つ一つ自分の中で深堀していくうちに、神の摂理の基本原理は単純だとしても、とても奥が深いように感じました。

 

 この章で紹介されている住居は、まるで複数の建造物や店舗が集まって、それが一つの複合施設となっているうようなイメージを持ちました。

 

 36ページ6行目、

 「土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。」

 

 36ページ13行目、

 「実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。」

 

 37ページ5行目、

 「そうし建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶―産物と言ってもよいでしょう―であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。」

 

 その後、「身にまとっているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。」とあります。

 

 もうかなり前のことですが、オーエン氏の母が紹介する霊の世界を知ることによって、私の中にあった”死に対する恐怖”がずいぶんと和らいだことを思い出しました。

 

 39ページ1行目、

 〈原著者ノート〉「悲しみを生じるバイブレーションの組み合わせは”置き換え”ではなく、”調整”によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送ることによって、悲しみのバイブレーションの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。」

 

 私がこうして霊的知識を身に付けるのが好きなのは、きっと今まで何度もいろいろな苦しみの経験をしてきて、救いを求めているからだと感じています。

 

 その苦しみの内の一つに、”孤独”という苦しみがあるのですが、自分の周りに人がどれだけいたとしても、それが身内だろうが、友人だろうが、誰であろうが、私を理解してくれる人がいないのを感じて、とても辛かった記憶があります。

 

 でも、本当は一人ではないのですよね。

 

 その時の私は、本当の自分をさらけ出すことによって、周りの人が離れてしまうことを怖れていたように思います。

 

 もしかしたら、隠すことなく自分をさらけ出しまったら、ほとんどの人が離れてしまうかもしれません。しかし、そのことを受け入れる勇気と覚悟が私にはなかったから、孤独であったのだと思います。

 

 今は、孤独が癒されています。スピリットたちに感謝しています。


2023年11月10日金曜日

 

 2 悲しみの館

 

 29ページ15行目、

 「悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上のことです。悲しみに打ちひしがれている地上の人々のことです。この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。」

 

 どうやら霊の世界での仕事と、地上の世界の仕事とでは、いろいろな面で違うようです。

 

 ここで、みゅうさんの”miyukiのブログ”から抜き出して、霊の世界の仕事の一つを紹介したいと思います。

 

 「息子はガイドと光の農園で頑張っているのは知っている。 

 今回の霊視は息子がヨチヨチ歩きの子を何人も連れて自分の農園?果樹園につれて行ってるとのこと。 

 亡くなったばかりの幼い魂は、不安定で悲しんでばかり。 

 その子達を愛の実がなる果樹園に連れていくと落ち着くのだそう。 

 敷地内は愛で溢れていて、愛をうけとり落ち着くのだろう。 

 愛をうけとり落ち着きを取り戻した幼い魂たちは元気になり、元気になって放つエネルギーから種が落ちるらしい。 

 やがて、その種は、樹となり愛の実を実らせる。 」

 

 30ページ10行目、

 「でも私はまだ、地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくる―と言うよりはやはりこれも感識されると言った方がよいでしょう―悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。」

 

 感識(カンシキ)と言う言葉は、きっと辞書で調べてもわからないと思います。けれども、五感を超えた霊的感覚を表現するのにこれほどピッタリくる言葉もないと思います。

 

 霊的感覚の”わかる”ということを伝える言葉として、この”感識する”というのは、私にとっては良い表現だと思いました。


2023年11月9日木曜日

 

 42ページ5行目、

 「言い落しておりましたが、怖ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやって来る霊魂が実際にいるのです。もっとも数は多くはありません。大ていはその道案内の任に当たっておられる天使様の言うことが聞けずに後戻りしてしまうのです。」

 

 この内容から、次のようなことが分かります。

 

 暗黒の世界から光明の世界へ行くための”かけ橋”が用意されていること。けれども、暗黒の世界を抜け出して、光明の世界にたどり着くのは並大抵なことではないのでしょう。

 

 ここの部分を読んで思ったことは、(私がその内の一人なのですが)止めたくても止められないということが、何かしらあると思います。

 

 私の例で言うと(今は両方とも止めていますが)、それがタバコやアルコールだったり、(これは今でもそうですが)甘いものだったり、テレビゲームだったりします。人によってはギャンブルなど、その他いろいろあるかもしれません。

 

 とにかく、自分では”それを止めた方が良いのだ”とわかっていても、なぜか自分の内側から湧き出てくる”エネルギーの思い”がそうさせないのです。


   しかもそれが、個人の力ではとても押さえきれないほど強力な時もあります。

   

   もしかしたら人によっては、知識の他にも十分過ぎるほどの経験が必要とされているのかもしれませんね。

 

 このことへの追及は、今はしないことにします。

 

 44ページ16行目、

 「霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後ろから恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。」

 

 この後に「悪は所詮、善には勝てないのです。」と続きます。が、暗黒界から脱出するのは、本当に大変そうです。

 

 45ページ、5行目、

 「私が述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞き、つまり人から間接的に聞いたことです。ですが、本当のことです。」

 

 このようにオーエン氏の母のように説明してくれると、押し付けられている感じがしないのでありがたいです。


2023年11月8日水曜日

 

 これからも出来るだけ順を追って学んで行きたいと思っていますが、時間の制約上、順番を前後して書き留める場合もあるのでご了承ください。先に「4 光の架け橋」を学びたいと思います。

 

 4 光のかけ橋

 

 44ページ7行目、

 「”裂け目”とか”淵”とかをあなたは寓話のつもりで受けとめているようだけど、私が述べた通りに実際にそこに在るのです。このことは以前にもどこかで説明があったはずです。それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ”飛んで”来ないのかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないということです。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。」

 

 これを読んで気づくと思いますが、霊の世界では、”霊的発達”によって出来ることと出来ないことがあるのがわかります。

 

 オーエン氏の母は、前回の話の中で空中を飛ぶことが出来ました。飛ぶための力、つまり、そのための霊力が与えられたのだと思われます。そして、その霊力は霊的発達に応じて、強く大きくなっていくと思われますので、オーエン氏の母は、霊の世界で順調に成長されていることが感じられます。

 

 けれども、霊的発達とは具体的にどういうことなのでしょうか?

 

 今後の課題になりそうです。


2023年11月6日月曜日

 

 29ページ2行目、

 「しばらく歩いていくうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛びはじめました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていたわけです。」

 

 もしかしたら、これを読まれている方の中には、”霊の世界だったら、それくらい出来るのが当然だろう”と思われる方がいるかもしれません。 

 けれども、”ワードの「死後の世界」”に出てくるような暗黒の世界では、オーエン氏の母のように空中を飛ぶことは出来ないと思われます。

 

 29ページ6行目、

 「その都市を包む光は決して悪くはないのですが、私の目がその明るさに慣れていないために、まわりのことが判りませんでした。」

 

 地上世界と違って、都市そのものが光で包まれているようです。この”ベールの彼方の生活(一)”に出てくる世界は、「天界の低地」篇であることから、オーエン氏の母は、この時すでに天界の入り口を通過していたのかもしれませんね。


2023年10月31日火曜日

 

 28ページ3行目、

 「私はあなた方が信仰しておられる主イエスの命を受けて参りました。主はすべてをお見通しです。」

 

 注釈として、”他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。”とあります。

 他の霊界通信でも、同じように語られているのが見受けられます。

 

 28ページ11行目、

 「天使様がそう言い終わると仲間の者が私のまわりに集まって来て頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分のことのように喜んでくれました。いえ、この言い方ではぴったりといたしません。うれしさを十分に言い表しておりません。」

 

 オーエン氏の母は新たに使命を授かることとなり、新たな仕事と新しく住む場所が与えられることになったのですが、きっと言葉では表現しきれないほどの喜びだったのかもしれません。

 

 私がこうして、少しでもみなさんの霊的成長のお手伝いをしたいと思ったのは、そのことによって、みなさんの幸せと喜びに繋がることを知っているからです。

 

 私自身、一気に途中を飛び越えて高い界まで行くことは出来ませんが、みなさんと一段、一段、ゆっくりでも共に登っていくことが出来れば幸いです。


2023年10月26日木曜日

 

 2 悲しみの館

 

 26ページ5行目、

 「あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響をおよぼすか──そのことを少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してごらんなさい。

 

 ”ベールの彼方の生活”での通信とは、もちろん霊界通信のことですが、まえがきを読むと、自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信となるそうです。

 

 27ページ1行目、

 目指すものは光明であること、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となることを悟られるでしょう。 」

 

 この本を読まれている多くの方は、オーエン氏の母が語るように”光だけの世界”を目指していることと思われます。

 

 27ページ3行目、

 「光は必ずしも有難がられるものとは定(キ)まっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。 そういう人はそれでよろしい。そしてあなたはあなたの道を歩まれることです。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど・・・・・・。」

 

 その一方で、光を好まぬ者がいることを忘れてはならないのかもしれません。今とは違って、かつての私は闇を否定し、ひたすら”光ではないもの”を排除していくことが、光を求める者として正しいあり方だと思っていました。

 

 それは、今までそれとなく、”闇を好む者は神の御心に背く者”だと聞かされてきたからだと思います。

 

 しかし、オーエン氏の母は、光を好まぬ者に対して、”そういう人はそれでよろしい。”と伝えています。何故、そのようなことをわざわざオーエン氏に伝えたのでしょうか?

 

 この問いに対する答えは人それぞれ違うと思われますが、オーエン氏の母が自由意志を尊重されているからこそ、このような発言が出てくるように感じました。


2023年10月21日土曜日

 

 24ページ3行目、

 「それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。 」

 

 24ページ6行目、

 「あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。 」

  ”ベールの彼方の生活”を読むと、オーエン氏の母がいる霊の世界では空の色も青と金色で、地上とは違う様子が伝わってきます。さらに霊の世界の音楽もまた、地上とは違った様子が伝わってきます。

 

 理解するのが難しいのは、次の文章です。

 

  24ページ10行目、

 「お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊──この方にはすでに一つ付いておりましたが──にも新たにもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。 」

 

 私には、何故、スピリットの額に宝石が付いているのかはわかりません。また、どういう過程で付くのかもわかりません。

 さらに個人的には、”ベールの彼方の生活”以外の霊界通信で、このような表現をほとんど見かけたことがありません。

 

 それでも私なりに考察をしてみて、次のような考えが思い浮かびました。

 ここでのスピリットにとっての宝石とは、人間にとってのクラウンやティアラのような役割を持っていてるのではないかと感じました。それは、そのスピリットが高貴である証であり、身に付けている宝石の種類や場所によって、そのスピリットが持つ属性を表現しているのではないでしょうか。

 

 さらにオーエン氏の母が住む世界が、キリスト教的な土台からなる霊の世界であるということも大きいと思います。もしも、生前に異なる宗教を信仰していたとしたら、これとは違った霊の世界の様子やスピリットの姿が伝えられていたかもしれません。

 

 25ページ1行目、

 「儀式の最中のことですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。 今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。

 

 最初、オーエン氏の母は、光り輝く大天使のことを”主イエス”と思っていたことが窺えます。そのように、霊の世界でもそのような思い違いが発生することはあり得るようです。

 

 25ページ4行目、

 「もちろん私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。 」

 

 大切なことは、”霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なる”ということです。

 

 オーエン氏の母とは違って、自惚れが強い人ほど自分が信じたいことだけを真実と思い込み、他人の意見に耳を貸しません。そのような人は、たとえ魂の段階では虚像であることを感じたとしても、自我の部分でそれを否定するための理屈をいくらでも作り出します。

 

 もっとも、オーエン氏の母が、もしも”自分が人よりも特別な存在である”と、自分を高く見せようと思っていたとしたら、その大天使のことを”確かにあれは主イエスです”と、オーエン氏に対しても言い張っていたかもしれません。

 が、そのような場合、そもそもその儀式に参加できないばかりか、オーエン氏の母がその霊の世界に行きつくことさえ出来なかったと思われます。

 

 私では足りない部分もあると思われますが、やっとこれで、「1 霊界の風景」を終えることが出来ました。(良かった)


2023年10月19日木曜日

 

 22ページ1行目、

 ──では、今住んでおられるところ──景色その他を説明をしていただけますか。 」

 

 「完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。」

 

 ”霊の世界のイメージ”は、人によってさまざまだと思います。それでもオーエン氏の母の話を聞くと、この地上世界よりも素晴らしい世界であることが伝わってきます。

 

 私には”四次元の要素”というのが、具体的に何を意味しているのかはわかりません。けれども、三次元の地上世界にはない要素が、そこの世界にはあるということなのでしょう。

 

 オーエン氏の母は、1909年に63歳で他界されているので、この通信での受け答えは、オーエン氏の母が霊の世界へ来てから4年程度の年月が経っていることになります。

 

 それでは、”霊の世界のどのあたりに、オーエン氏の母はいるのでしょうか?”という質問には、私にはわからないので答えられません。

 

 それでも目安となる文章があります。

 

 22ページ8行目、

 ここで、最近私が目撃した興味深い光景シーンをお話いたしましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。 」  

 22ページ10行目、

 「儀式というのは、一人の霊が〝偏見〟と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。 」

 

 この”偏見”という言葉には、地上で身に付けてきた宗教観による”決めつけ”や”思い込み”なども含まていると思われます。

 

 それから、”ひがみ根性”とは、ひねくれていて、素直になれない性質のようです。もしかしたら私が語る霊的知識は、そのような人たちから見れば、”悪魔の言葉”としか思えないかもしれません。

 

  この段階でのオーエン氏の母がいる霊の世界は、地上世界で身に付けてきた”偏見”から、すっかり解放されているわけではないことがわかります。


    と言っても地上世界とは違って、この世界の移動方法はさまざまなようです。

    手綱の必要がない馬車で移動する人、歩いて移動する人、翼はないけど空を飛んで移動する人などがいて、まるで映画の中の世界に思えてきます。

 

 いつの日かここの世界を卒業すると、一段階上の”光明の世界”へと向上していくことになります。そして、霊の世界の人たちは向上することで、格段の美しさ、永遠の美しさで輝くようになるようです。

 きっと”永遠の美しさ”という表現は、地上のように月日が経つと劣化してしまうことがないからだと思われます。

 

 それにしても、”特殊な考え”という表現は、とても良い言い方だと思います。

 

 日頃から人を見下すことのないように、言葉の表現方法についても学んでいきたいと思っています。


2023年10月18日水曜日

 

 1 霊界の風景

 

 21ページ7行目、

 (ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級霊からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、ということである。)

 

 21ページ13行目、

 「はい、見えます。その方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。」

 

 今後、”ベールの彼方の生活”を読み進めて行くことで、このオーエン氏の問いに対する答えを、より深く理解することが出来るようになると思われます。

 

 が、先を急がずに、ゆっくりと学習を進めて行きます。

 

 今回学んだこととして、

 

 肉体の死後、私たちが霊の世界に赴いたからといって、すぐに高級霊と呼ばれるスピリットの姿を見ることが出来るわけではないようです。

 

 文章からは、オーエン氏の母たちのもとに励ましのために訪れる”高い界におられる同志の方々”の姿は見えるということがわかります。(※ここでは”高い界におられる同志の方々”を、高級霊と呼んでいます。)

 

 けれども条件によって、その見え方に違いがあることが伝わってきます。

 

 その条件として、高級霊が相手に姿を見せようと思っているのか否か、次に、高級霊を見る側の発達の程度、そして、高級霊自身の力量がどのくらいであるのか、などがあるようです。

 

 これらのことから霊の世界の住人でさえ、スピリットの見え方はそれぞれ違いが生じているのでしょうから、地上で霊能者と言われる方たちの霊視も、人それぞれ違いが生じるものなのでしょう。

 

 今回、”ベールの彼方の生活”を6年ぶりくらいに読み返して私が感じているのは、この本で語られている一言一言に、とても深い意味が込められていること、そして、それを理解するためにはそれ相応の知識と霊的な成長が必要であるということです。

 

 これからも焦らずに、楽しみながら学んでいこうと思っています。