読書会の記録(2023年前期)


2023年6月30日金曜日

 

 先週の「ホワイトイーグル読書会」に参加して、いつの間にか一週間が過ぎようとしています。日々の仕事に追われながらも、やりたいことや読みたい本などもあって、最近、特に休みが待ち遠しいと感じています。

 

 テキストの『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』の69ページ10行目では、

 

 「神でさえ苦しみがあるに違いないと言う人もいるでしょうが、私たちはあなたがたに、神はすべての苦しみを超越していると言います。人間が神の意識のレベルに到達したとき、呼吸をするたびに癒しと愛を吐き、未熟で不完全な生命を完全へと進化させる生き方をします。」

 

 と語られています。

 

 初めてこの部分を読んだときは、「神を人間的に捉えている人もいるのですね。バイブルの影響かな~?」と、私はこの「神でさえ苦しみがある」という部分を否定的に受け止めていました。

 

 この『カルマの法則』が発行されたのが2019年3月ですので、その時からすでに4年も経っています。

 

 今は、私たち人間が存在しているのだから、全ての根源である神には人間的な側面も含まれていると受け止めています。ですので、「神は苦しみを、知らないわけがない」と思っているわけです。


   やっぱり人は変わっていくものなのですね。

 

 それで私の妄想の中では、「私は自分の苦しみだけで大変なのに、もしも神が全ての存在の苦しみを受け止めているのだとしたら、神は狂気の存在とならないでしょうか?」と思ったりしました。

 

 それで、「わ~、私には無理、全ての苦しみを受け止めて、それを超越するなんて!」と思ったりしました。

 

 でも、読書会の中で出された話では、「身近な存在である母親のわがままや良くない所を直したい」と思って接している時は、母親と衝突ばかりしていたそうです。

 けれども母親のそのような部分も受け止めて、相手の良い部分を褒めるようにしていったら、母親の態度が良い方に変化していったということでした。(本人の言葉によると、甘やかすことにしたそうです。)

 

 そもそも私たちに自由意志を与え、それを尊重することが出来るのは、神という存在だからかもしれませんが、私たちも「全てを自分の思い通りにしたい」という欲求を一度捨ててみて、「神は全ての苦しみを超越している」という意味を掘り下げて考えてみるのも良いと感じました。

 

 ところで、私の「超越」に対する考え方ですが、「苦しみの原因を追究してそれを正して乗り越えるというよりは、それを一旦受け止めて、調和を図りつつ統合していく。」ということになります。

 

 それを私たち人間に当てはめていくと、従来は、「苦しみに対して、その原因となるものを追求し、その原因を善か悪かで判断し、悪を否定し、それを善に変えていくことで解決していく。」というものから、「苦しみに対して、その苦しみも神の一部に含まれていると受け止め、自分の中で調和やバランスを求める努力をしていくことで解決していく。」ということになるのだと感じています。

 

 どちらも必要なことなのかもしれませんが、悪を否定し、善に変えていく戦いとは、光と闇との戦いであり、この宇宙が出来てからずっと続いてきた戦いでもあり、終わりが見えない戦いであると聞いたことがあります。

 

 そこに、それぞれの正義はあったとしても、神の愛と同じ愛があるのかどうか?私にはわかりませんが、光の中にどれだけ神と同じ愛が込められているのかが、とても重要なことだと感じています。

 

 けっきょく、苦しみを受け止め、それをのりこえる努力をすることで成長していくことが何より大切だと言うことになります。たしか、シルバーバーチもそのようなことを伝えていたと思います。

 

 そして、苦しみを通して、自分の中に繰り広げられている善と悪との戦いを、相手の中にそれを見出していることが理解できたのなら、そのような自分を一度捨てて、大霊と同じ愛を与えていけるように努力してみるのが良いと思いました。

 

 ここで話を変えて、読書会の場で聞いた話で面白かったのは、霊界と幽界では、素粒子の状態が違うというものでした。

 

 この話を信じる信じないという問題もあるかもしれませんが、私はとても興味があることなので、楽しく聞くことが出来ました。

 

 地上の物質世界では、素粒子はヒモ状に視えて、幽界では渦を巻いた状態のマル、霊界ではキレイな状態のマルに視えるそうです。(この表現で合っているのかな~?)

 

 それで、アイさんとスピリットガイドによると、幽界と霊界を見分けることは、よくよく注意しないと、難しいそうです。何故なら、アイさんの体験によると、人間にとっては霊界よりも幽界の方が地上に近いこともあって、エネルギー的にも馴染んでいて居心地が良いそうです。

 宗教などで伝えられている天国というイメージは、そのような幽界から来ていると感じています。そういうことから、幽界のことを霊界であると認識してしまい、その幽界で知り得た知識を霊界での知識として紹介されていることもあり得ます。

 

 最後に、私は”愛”について学んでいる所ですが、最大の問題が、自分のエゴ(自我)なんです。これが一番の障害になっています。

 そして、これはカルマのせいなのか、肉体という牢獄のせいなのか、本来、胸の奥から出るはずのエネルギーと愛が、せき止められているように感じます。

 これは気の遠くなるなるような話ですが、自分の成長の妨げになっている所を、一つ一つ改善する努力をし、成長していくことで、自分の中の障壁が取り除かれていくようです。

 

 課題、つまり成長するためのチャンスは常に与えられているのですが、「これは自分にとっては難しい、これは無理だろう」というのが多いです。


 「私の主な問題は、自らが演出しているとしても、常に向こうから相手と共にやってきている」と感じていますし、このような問題ごとは、「自分という存在を知るための鏡であり、神が自由意志を尊重しているように、現実を変えたければ、他人を変えるのではなく、自分を変えていくしかない。」と思っていても、

 

 「嫌なものは、嫌。無理なものは、無理。」と、私のエゴは、私にそう主張するのです。

 

 それでも良いですけど、それが私なのですから、

 

 と言うことで、今回は、終わりにしたいと思います。


2023年6月24日土曜日

 

 昨日開催の北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」の報告です。

 

 今回は、学んだ範囲だけ紹介して、時間のある時に内容について書こうと思っています。

 

 (現在、職場で人が足りずに休みを買い上げている状況ですので、予定通りに読書会の報告が出来ない可能性があります。ご了承下さい。)

 

 テキストは、カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)

 第2章カルマの法則 5病気と治療のカルマ(64ページ4行目から) 6純真な人間がなぜ苦しむのか? 7偶然に起こることはない となります。

 

 今回は以上となります。


2023年6月18日日曜日

 

 6月オンライン読書会の報告です。

 

 テキストは、「シルバーバーチの霊訓(十)七章 再生問題を語る」 126ページ9行目からとなります。

 

 今回の主な内容は、催眠術による遡及(ソキュウ)は、前世まで効力を及ぼすのかどうか?について語られています。

 

 私が最初に思い浮かべたのは、ブライアン・ワイス博士の前世療法ですが、個人的には、退行催眠療法士のドロレス・キャノンさんの本が好きです。

 とは言ったものの、私は実際に催眠術を体験したことはありませんので、ここでは特に否定も肯定もしようとは思いません。

 

 一方、シルバーバーチが語った内容を見ると、催眠術による前世の遡及については否定的に感じられます。が、何故、シルバーバーチは否定的であるのか?ということを考えた方が良いと思いました。

 

 これは読書会でも出た意見ですが、前世を知りたいと思っている被術者の”動機”と、施術する側の実力の問題も絡んでくるように感じます。

 

 その動機が、もしも自分を高く見せるために、「何かしら他人に自慢できるものが欲しい」という動機から行うのであれば、霊的成長という観点から見ても良くないことだと感じました。自分を高くすることで、他人を低くしようとする者は、霊的には低く扱われることになるそうですから、注意が必要だと思われます。

 

 やはり私たちは、霊的に進化することが大切だとされるので、霊的成長の足止めになるような動機が実際に多いのであれば、シルバーバーチが前世へのコンタクトに対して否定的に語るのは、仕方がないのかもしれませんね。

 

 それでも、以下の所だけを引用すれば、催眠術の遡及による前世へのコンタクトは可能であることがわかります。

 

 128ページ10行目

 「別のケースとして、それにカルマが絡んでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世で呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。」

 130ページ5行目

 「いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。」


  (このように文章の切り抜き方によっては、読み手側の受け止め方が変わると思います。個人的には、シルバーバーチの霊訓にも、そのような箇所が見受けられます。そういうことも知ってもらいたいと思います。)

 

 実際に参加者の方が話された、催眠療法の体験談では、「まったく前世のことがわからなくて、お金の無駄だった」ということでしたので、人によって意見が分かれるようですね。

 

 それから、今回もよくよく注意しなければならない文章は以下の所です。

 

 131ページ5行目

 「私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。」

 

 けれども読み手側が、”そうした問題”ということについて、どのようにとらえるのか?で、内容が変わってくると思います。

    ここでは、前世へのコンタクトというよりは、”生まれ変わる時の霊界での記憶”ということだと感じました。(※「生れ変わる時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けるという」130ページ12行目の箇所を受けて)

 

 ですので、もしかしたら、そもそも催眠術によって”霊の世界での記憶”を知ることは難しいことなのかもしれないと私は認識しています。(霊の世界での意識は、今認識しているような自我の意識状態とは異なる可能性が考えられます。)

 

 結局の所、催眠術のことは詳しくないので、ケースバイケース(原則や方針によって決めつけず、一つ一つ検討し応じていくこと)で良いのかな~と思っています。

 

 それから場合にもよると思いますが、シルバーバーチが語る内容を信じている人であれば、スピリットの遡及による前世の話については、否定されないと思っています。

 

 何故なら、誰よりも詳しく“再生(生まれ変わり)“について語っているのは、スピリットであるシルバーバーチ本人だからです。

 

 今回学んだ章の前提条件として、お互いに”生まれ変わりがある”とした上で、前世のことについても肯定していなければ、そもそも今回の話が成り立っていなかったと思われます。

 

 話は変わりますが、私も以前に自分の前世について教えてもらったことがあります。そのほとんどがろくな目にあっていないので、聞いた後はかなりのショックを受けました。

 

 それからというもの、特に「愛とは何であろうか?」と考えるようになりました。

 

 それまでの私は、「自らの手で相手を幸せにすることが愛の証」だと思っていました。

    ですので、愛する人のために、自分が側にいることが条件の一つだったと感じます。

   そのため、相手への執着も強かったと思いますし、自由意志を尊重すると言いながら、実際は思い通りになって欲しくて束縛もし、見返りも求めていたのでしょう。

 

 しかし今の私は、「愛する人が、自分で幸せを掴み取れるならそれで良いし、私以外の相手でも幸せになれるのなら、私は去って陰ながら幸せを願っていよう」と思うようになりました。たぶん、私は“愛“を理由にして、精神的な自立が出来ていなかったのだと感じています。

 

 最後に、私も含めてシルバーバーチと呼ばれるスピリットから学んでいる人たちから、霊能者や占い師の方などに対して胡散臭いとかインチキだとかの話が出ると、何だか私は面白く感じてしまいます。だって、この私が一番怪しいかもしれないのですから。

 

 私の場合最近になって、この地上世界の感じ方一つとってみても、他の人と違っていることがわかったばかりですから…。

 

 とうことで、今回は終わります。


2023年6月10日土曜日

 

 昨日の北神戸ぷちサークル「シルバーバーチ読書会」の報告です。

 

 テキストは、「シルバーバーチの霊訓(二)六章 霊媒現象の原理」113ページ4行目までとなります。

 

 104ページ11行目

 「そこで当然、では心霊能力とは何か、霊の力とは何かという問題が出てきます。」と語れられています。

 

 それに対してシルバーバーチは、とても説明が困難であり、「大ざっぱに言えば霊力とは生命力であると言えます。本質的にはありとあらゆる意識的活動を生み出すところのものと同じです。宇宙を支えている創造的エネルギーと同じものです。」と語っています。

 

 それは、「程度こそ違え、質においては同類に属します。」と言うことでした。

 

 シルバーバーチによると、心霊能力を身に付けるためには、心霊能力を所有物にしようとするのではなく、それがはたらくための通路となる必要があるようです。

 何故なら、誰もが潜在的に心霊能力を宿しているとされ、それを実際に発揮できるかどうかは、それぞれの発達段階で異なるようです。

 

 108ページ6行目~

 そして、心霊能力は進化のある一定の段階まで到達すると自然に発達するかどうかの問いに、シルバーバーチは”イエス”と答えています。

 長い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊能力にますます目覚めていくそうなのですが、人類の進化には、身体的進化、精神的進化、霊的進化があるそうです。シルバーバーチによると、魂の進化となる霊的進化がもっとも大切なように感じます。

 霊的進化には(これは心霊能力に限ったことではないようですが)、やはり人の役に立つことが必要なようです。

 

 106ページ5行目

 「実を言えば霊こそ生命であり、また生命こそ霊なのです。」

 

 107ページ7行目

 「霊は無限の可能性を秘めていますから、その表現形態もまた無限です。」

 

 私のことで言うと、シルバーバーチの霊訓を知る前までは、”霊”と言えば、幽霊のことを意味していました。人によっては幽霊の存在を信じない人もいるのですから、霊という言葉には常にネガティブなイメージが付きまとい、宗教の話と同じくらいタブーだった記憶があります。

 

 110ページ3行目

 「どの霊媒も同じですが、霊能の行使が身体に害を及ぼすとみた場合は遮断せざるを得ないのです。」

 

  人によっては、「自分だけは大丈夫だ」とか、「病気になるのはその人の落ち度である」と感じる場合があるかもしれないのですが、こういうことも知っておく必要があるのでしょうね。

 

 110ページ9行目

 「例の自由意志の問題です。霊によるインスピレーションと指導が、常にあなたの自由を犯しているのです。と言っても、すべては相対的な問題にすぎませんが……」

 

 今回、今さらながら「こういう視点があったんだ」と思いました。

 

 私が過去に学んだ時に、この部分は自分でチェックしていたのですが、「霊によるインスピレーションと指導は良いものである」と、無条件に受け入れていたためなのか、私とスピリットとの間で、お互いに自由意志を犯しているとは思えませんでした。なるほど~。

 

 参加者の発言にもあったのですが、あまり自分の外の力や存在ばかりに依存せずに、自分の内にある力や神性にこそ目を向けるべきなのかもしれません。

 

 とは言え、113ページ3行目で、

 「その霊団の上にはさらに高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限につながっているのです。」

 

 と語られているように、みんなつながっているし、お互いの自由意志も大切ですし、それは人と人との間であってもそうですから、これからもいろいろと学ぶことは多いでしょうね。

 

 最後に私事ですが、8月に北神戸ぷちサークルのメンバーのみなさんに会いに行く予定です。とても楽しみです。

 

 今回の報告は以上となります。


2023年6月5日月曜日

 

 7月の読書会を進めるにあたって、今回に限ってですが予習をしたいと思います。

 

 次回の読書会で学ぶ予定の「シルバーバーチの霊訓(三)十章 前世・現世・来世」162ページ2行目に、

 

 「霊は生命であり生命は霊です。生命が意識をもった形態をとる時、そこには個としての霊が存在します。そこが下等生物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一部なのです。」と書かれています。

 (※下等生物という言葉の意味は多々あるのですが、私は体の器官が未分化で体制が簡単な生物という意味で説明しています。動物という言葉を使用していないので、そう認識しています。もしもここで動物という言葉を使用していたら、そこに傲慢さを感じてしまうかもしれません。)

 

 まず初めに、シルバーバーチの霊訓を学ぶ時に、その章は、シルバーバーチがどのような場でどのような人たちに語ったのであろうか?に配慮することは、とても大切なことだと感じています。

 

 何故なら、シルバーバーチの霊訓の中で出てくる言葉の意味に、ズレを感じるからです。特に”意識”という言葉の使い方には、そのように感じています。

 

 ここで語られている”意識”が、どのような意識であるのかは、その時、シルバーバーチが誰に語っているのかも考慮する必要があると思います。

 

 その前に、次に紹介する言葉はシルバーバーチのものではありませんが、紹介したいと思います。

 「森羅万象全ては意識を持っており、そして意識が魂にまで進化すると、より高次の生命体となります。人間はその最高峰、万物の霊長なのです。」

 これを語った霊的存在によれば、あらゆる存在は意識を持っていることになります。

 

 ここからは私の推測ですが、シルバーバーチが語られている時代背景を考えると、それまでの長い間、西洋では「動物に意識は存在しない」と考えられてきたのではないかと思われます。

 全ての人ではないとしても、動物たちは意識を持たない”動く物”であると認識され、意識を持つのは唯一”人間”だけであるとされてきたのではないでしょうか?

 

 もしもそうであればシルバーバーチの霊訓の中で、ただたんに”意識”という言葉を使用した場合は、今の時代に合わせれば、それは”自我”あるいは、”自我意識”のことを指しているのではないかと感じます。ちなみに”自己”という言葉は、自我と無意識を合わせた全体の意識を指しているそうです。

 

 本来、意識という言葉には、自我意識の他にも、自分では意識できない無意識などが含まれています。

 ところでシルバーバーチの霊訓によれば、大霊は全存在に内在しており、森羅万象は大霊の顕現であるとのことです。そのままの解釈では、個としての存在以外に内在している大霊には意識がないということになります。

 つまり人間のような個としての存在が現れるまでは、大霊は意識を持っていないことになります。

 

 いろいろ考えてみて、(直観としてではなく)シルバーバーチが伝えたかったことを整理すると、意識とは自我意識のことを指しているのだと思います。

 

 私たちが個性を持つためには、他と区別されていない無意識(集合的無意識)と呼ばれている意識に、自我意識が必要であるように感じています。

 

 自我意識とは”自分であるという意識”であり、他人や外界とを区別します。しかも自我意識とは、年齢とともに発達し、次第に形成されていく意識でもあります。

 

 中には、自我と個性を同じような意味に受け取る方もいると思いますが、私の感覚では、自我とは個性を認識し、それを磨いていくためのものだと感じられます。

 イメージとしては、自分の成長に応じて自我も成長することで、自分の中の個性に気づき、何とかしてその個性を育てたり磨いたり発揮したりなどしていく感じです。

 

 私の結論を言うと、それぞれの生命が私という個性に気づくためには自我意識が必要であるとしても、”それぞれの生命には、すでにその形態に応じた意識が存在している”という認識となります。

 

 何故ならその方が、”世界が生命に満ちてより素晴らしいものである”と私が感じるからです。

 

 そのように言葉の意味にズレを感じるものとして、他に”自己犠牲”という言葉があります。

 

 この言葉の意味は、他人の内奥に、自分と同じ”神性”を宿しているのを見て感じることが出来るかどうか?で、まったく変わってくるものだと感じています。

 

 最後に、これらは私の見解であり、みなさんとは違っているかもしれません。でも足立の読書会は横並びにならずに、それで良いと思っています。

 

 読書会の予習はここまです。それでは次回の読書会で、みなさんといろいろ話し合いたいと思います。


2023年6月4日日曜日

 

 本日開催の足立シルバーバーチ読書会の報告です。

 

 使用図書「シルバーバーチの霊訓(三)十章 前世・現世・来世」159ページ5行目まで

 

 今回の章では、ユーモアに満ちたシルバーバーチの言葉が印象的でした。

 

 152ページ9行目

  「私は地上の人たちから”死んだ”と思われている者の一人です。存在しないことになっているのです。」

 参加者の女性は、昨年に亡くなったご主人の姿と声を実際に自分で見て聞くことで、ご主人が”死んでいるのに死んでいない“ということを理解できたそうです。

 

 152ページ14行目

 「あなたは物的肉体を通して自分を表現しているスピリットであり、私は霊的肉体を通して表現しているスピリットであるということです。」

 ”人間は死ねば終わりだ”と思っている人は、人間を霊的な存在ではなく、物的な存在として見ているのでしょうね。シルバーバーチのように”私たち人間はスピリットであり、地上と霊界での表現方法が異なるだけである”という伝え方は、とても素晴らしいと思います。

 

 153ページ12行目

 「地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。」

 たぶんですが、無意識の内にもおおよその人は、自分の利害に関わることを思考しているのではないかと感じています。

 人によっては、私のように”どうすれば自分が得をするのだろうか”という思念を、ごく当たり前のように巡らせているかもしれません。

 

 もちろん中には、人々の幸せや世界平和を望んでいる人はおられるのですが、”どうすればみんなが幸せになれるのだろうか”ということで、真剣に悩んでいる人を見かけたことはありません。(そういう人はそのことで悩まないか……。)

 

 154ページ14行目

 「悪魔の密使と見なされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。」

 ある人たちから見れば、シルバーバーチたちが悪魔や悪霊であると思われていることを再確認しました。ということは、今ここに書いている私は、悪魔や悪霊の手下ということになるのですね。

 もっとも、”悪魔や悪霊という存在も大霊の一部であるのだからギリギリセーフ”とかいう発想が出ること事態、私の頭の中がおかしいからなのでしょう。

 

 155ページ15行目

 「すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです。」

 いくら真理の言葉が素晴らしいものであっても、その真理を受け入れる側の心の器に左右されるのだと感じました。

 

 157ページを読んで

 シルバーバーチとハンネン・スワッハーの一連のやり取りを見て、シルバーバーチが語る言葉をただ鵜呑みにするわけではなく、自分の理性に照らし合わせて真理を学んできたことが伝わってきました。

 158ページ1行目

 「この全大宇宙に存在するものは、いかに小さなものでも、いかに大きなものでも、すべて法則によって支配されているというのが私の持論です。」

 ”私の持論”とシルバーバーチが語っているのが良いですね。持論とは、かねて主張している自分の説や意見のことを言います。

 ハンネン・スワッハーの主張を見ると、シルバーバーチは交霊会に参加された人々に、真理を強制的に受け入れさせたり、思い通りにコントロールすることがなかったのが分かり安心しました。

 

 高級霊だと自負する存在の中に、人々を思い通りにコントロールしようとしたり、自分と異なる主張に対して攻撃的だったりするのが見受けられます。特に、善や正しさ、あるいは名前を盾にとり、それによって人々に恐怖を抱かせることで支配しようとする存在には、注意した方が良いと思います。

 

 158ページ4行目

 「人間にとって”時間”が理解しにくいということが再生問題を理解しにくくしているというのは事実でしょうか」

 この質問に対するシルバーバーチの解答を見ても、すんなり”はい、わかりました”とはならないようで、読書会を終えた後、改めて教えて欲しいと参加者の方から言われました。

 

 さて、何から説明すれば良いでしょうか……。。

 

 再生(生まれ変わり)について、シルバーバーチの霊訓を学んでいる方であっても、現世の自分とは、前世の”霊である自分がそっくりそのまま生まれ変わってきている”と思っている人がいるように思われます。

 

 もしもそうであれば、肉体を持った私と霊の私とは同じ時間の流れにあるのですから、たとえ永遠ということがわからないとしても、”時間”に対する理解はそれほど難しくないものだと思われます。

 

 ですからそのような考えを持つ人は、”人間とは霊を携えた物質的な存在である”という概念から、今も抜け出せていないのかもしれません。

 

 シルバーバーチは、158ページ7行目で、「あなたには物質界へ一度も顔を出したことのない側面があるのですが、それをあなたはお気づきになりません。」と語っています。

 

 この”物質界に一度も顔を出したことのない側面”の部分を、たんなる自我意識の延長上にある潜在意識のことだと理解されている方がいるかもしれませんが、そうではないと思っています。

 

 シルバーバーチは、私たちは大霊の一部であると語られていますが、それと同じように、私たちそれぞれが持つ自我意識とは、霊である私の一部であると言うことが出来ます。

 

 さらに、”時間は存在しない”という主張をされる方もいるように、無限で永遠である大霊の一部である私たちは、その規模はごく小さくても、やはり霊ですので無限で永遠であるはずです。

 

 ところが、霊である私たちにとっては”時間は存在しない”と言えるのですが、現世の私たち、あるいは、前世、前々世などの過去世での私たちには、それぞれ地上で過ごした時間が存在しています。

 

 全ての前世の私と現世の私、さらには来世の私を加えたとしても、それら地上での私とは、やはり霊としての私の一部であると認識しています。

 

 たとえるならば、霊としての私は、霊的成長のために、たくさんの”時間と空間というツールを使用して生きている私”を用いているとも言えます。(ただ、それを単純にハードとソフトという関係に取られたら困りますけど……。)

 

 そういうことから、自我とは霊の私にとっての一部であり、それは真の私にとっての焦点の一部であると言えます。

 もしも、前世の自分に焦点を合わせれば、今の私は来世の私であることになります。当然ですが、来世の私に焦点を合わせれば、今の私は前世の私となります。まぁ、これは屁理屈ですけど。

 

 このように時間とは、空間と共に、今という永遠を生きる私たちにとってのツールであると言えます。

 そのように自分に対する意識を拡大していくことで、さらに”より大きな私”という存在を感じられるような気がします。

 

 最後に、きっとシルバーバーチの霊訓を知らない方にとっては、(いや、知っている人にとっても)これらの話がとんでもない馬鹿げた話に聞こえるかもしれませんね。

 

 それでも良いと思っています。今から二十年くらい前の私は、シルバーバーチの言葉を受け入れることが出来ませんでしたし、その頃の私が今の私を見たら、きっと、今の私を思いっきり疑っていることでしょう。

 

 ということで、今回は以上となります。


2023年5月28日日曜日

 

 引き続き、ホワイトイーグル読書会での話をしたいと思います。

 

 今回は、参加者のアイ( I )さんが、スピリット統合体・男性バージョンの美形集団(以後、美形集団)から聞いた量子論を交えた話となります。

 

 ホワイトイーグル、カルマの法則 66ページ9行目に、「感情のコントロールが行われ平穏が訪れたとき、水のイニシエーションが到来します。」(水のイニシエーションは、感情のコントロールが達成されたときに来るため、平和をもたらします。)とあります。

 

 水のイニシエーションの意味は、(洗礼とバプテスマのヨハネを思い出したくらいで)私にはわからなかったのですが、アイさんからそれに関連したことを話してもらいました。

 

 アイさんから聞いた話を、私なりに説明したいと思います。

 

 みなさんがご存じのように、水には、温度によって、氷(固体)・水(液体)・水蒸気(気体)という状態に変化します。

 

 物質は、状態が変化しても、その質量は変わらないため、コップ一杯の水は、氷・水・水蒸気のいずれの状態であっても、同じだけの重さになります。

 

 さらに、質量とエネルギーは同じものであり、エネルギーは物質を生み出す素であることを知ってもらいたいと思います。

 

 一方で、体積は状態によって大きく異なります。つまり、密度(物質の、単位体積あたりの質量)が大きく異なることから、同じ物質であっても、見た目が大きく変化します。意識の面から見れば、その表現方法が大きく異なることになります。

 

 今度はそのことを、魂レベルで考えてもらいたいと思います。

 

 魂の質量とエネルギーは同じものであったとしても、その魂の状態(境涯や成長の度合い)に応じて、その表現方法も変わってくるそうです。

 

 アイさんはそれらのことを、“魂のかたまり具合の違い”として話されていました。

 

 たとえば、魂が軽やかになるほど、その体積は広がりを持つことになるので、その魂が映し出す世界は軽やかになり広がりを持つことになります。

 

 そう考えると、自分の中の世界が広がっていくことは、魂が成長していくことでもあり、魂が軽やかになることでもあります。そして、自分の中の世界が拡大するためには、意識が拡大する必要があります。あるいは、バイブレーションの質を高めることなのかもしれません。

 

 一つ目の話は、おおよそ、そのような話になったと思います。

 

 次に、アイさんが歯医者で親知らずを抜いた話となります。

 

 やっかいな親知らずになると、歯茎を切開しつつ、歯を砕きながら抜かなければならないそうですし、時間もかかるそうです。

 さらに通常は抜歯後の痛みも強く、痛み止めの薬を飲んだとしても、しばらくの間は食事も出来ない場合があるそうです。

 

 ちょうどこの前、私の上の子供もやっかいな親知らずを抜いたばかりで、念のため、会社に二日ほど休みを入れていたそうです。案の定、抜歯後は、痛み止めを飲んでも切開した部分の痛みは強かったそうです。

 

 一方、アイさんの親知らずもやっかいだったそうですが、美形集団の協力を得ることで、痛みを感じることなく抜歯を終えることができたそうです。

 

 そのためアイさんは、痛み止めをもらわずに家に帰り、その後も痛みが出ることはなかったそうです。

 

 それは凄いですね。

 

 アイさんに痛みが出なかったのは、スピリチュアル・ヒーリングによるものだと思われますが、アイさんの持っている力をフォローする形でヒーリングがされたようでした。

 

 アイさんの話によると、ヒーリング時に大切なのは、心の持ち方やその動機なのだそうです。

 

 それをまた、量子論的に説明すると、

 

 地上的な願望によって行われるヒーリング時は、素粒子が「ひも」の状態に視えるそうです。

 

 そうではない霊的な状態のヒーリング時では、素粒子が「まる」の状態に視えるそうです。

 

 そうやって考えると、この次元の世界での素粒子の状態は、自我意識がキーワードになっているような気がします。

 

 これは、私の推測でしかありませんが、今まで学んできたことを整理すると、

 

 霊的状態とは、量子論的に言えば、「まる」状の素粒子が、両極がペアとなった一つのものとして、あまねく遍在している状態であると言えます。

 それは、真空の状態や無の状態、あるいは全体とか無限の状態であるとも言えそうです。

 

 物的状態とは、「ひも」状の素粒子が、それぞれ両極に分かれたものとして、それぞれの焦点として偏在している状態であると言えます。

 それは、顕現の状態や有の状態、あるいは個とか有限の状態であるとも言えそうです。

 

 私の考えでは、たぶん素粒子と呼ばれるものは、「まる」と「ひも」の状態を行ったり来たりしていて、それはそのまま、霊の世界と地上の世界とを行ったり来たりしているのだと感じています。

 

 でも結局は、霊と物もペアであり、一つのものの二面性であると私は思っています。

 

 それは、意識についても言えることで、この自我意識以外にも、霊的な意識があると感じています。

 

 さらに人間という存在は、物的な側面と霊的な側面を具えていて、自らの中で分離と統合を繰り広げながら進化していく存在であると感じています。

 

 そして、霊的な意識が存在するならば、それに対応された霊的な世界が存在するのだろう。というのが私の結論です。

 

 このように言っていいのかわからないのですが、大霊自らがその内部に二面性を有することで、大霊の一部である私たちが生み出され、今ここに存在しているのではないだろうか?と考えたりしています。

 

 最後に、今回述べてきたことは、間違っているかもしれませんので、私の推測でしかないと思ってもらえるとありがたいです。

 

 今後も両読書会のメンバー、さらにスピリットを含めたみなさんたちと一緒に、この宇宙の真理を解き明かして、日常の役に立つようにしていきたいと思っています。

 

 以上、5月のホワイトイーグル読書会の報告でした。


2023年5月27日土曜日

 

 5月の北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」の報告です。

 

 テキストは、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)第2章カルマの法則 5病気と治療のカルマ となります。

 

 今回、ホワイトイーグルの「5病気と治療のカルマ」では、スピリチュアル・ヒーリングのことが取り上げられています。

 

 ちりりんさんのブログの中で、前に”気持ちの悪いヒーラー”について書かれていたのですが、読書会の中でさらに詳しく教えてもらいました。

 

 それにしても、ちりりんさんの体験談は、いつ聞いても面白いですね。

 

 ちりりんさんの話を聞いていると、人のために病気を治したいというヒーラーの方の動機が、病人を通して自分がヒーローになりたいという気持ちが見え隠れしているように感じました。

 

 そのヒーラーの方は、癌とか難病・奇病などの重病人を治したいということでしたが、本来のヒーラーとは、依頼者の病気は依頼者自身で治せるように導いていく存在であると思っています。

 

 またそれは、神と私たちとの関係に似ていると感じています。

 

 今までの私たちは、神と呼ばれる偉大な存在の力によって、自分たちの願望を叶えようとしてきたと思います。

 

 私の例で言うと、苦しくて辛い病気の時は、医学の力に頼って、その苦しみから逃れようとしました。

 

 しかし医学の力が及ばない時は、神仏の力に頼ることで、その苦しみから逃れようとしました。

 

 その神仏の力が及ばない時は、本物の力を持つ神仏を探すことで、やはり苦しみから逃れようとしました。

 

 それでも病気が治らないのは、私の信心が足りないせいだと思いました。

 

 やがて、スピリチュアル・ヒーリングというものに出会いました。が、それでも病気が治らないのは、そのヒーラーの力が及ばなかったからだと思いました。

 

 そこで、本物のヒーラーを探しだすことさえできれば、病気が治って苦しみからも解放されるのだ。と思いました。

 

 それはまるで、どの神仏や宗教を信じれば、私は救われるのだろうか?と言うのに似ています。

 

 私の考えでは、霊的に目覚めた人は、自分の内部に神が存在していることを知っているので、そのようなことで迷ったりしないと思います。

 

 話を戻すと、やっと探し出したヒーラーが言ったことは、病気を治すためには、ヒーリングのみならず、自分で自分の病気を治す努力が必要であり大切だと言うことでした。

 

 でも、そのことを聞いた私は、自分の力の無さをごまかすために“そのような言い訳をしている”と思いました。

 

 今思うと、自分の病気なのに、神仏やヒーラー、あるいは、世界や運まで持ち出して、誰かや何かのせいにしてきた私は、つくづくおめでたい人だと思いました。


    私は、病気から逃げていたというよりも、ずっと自分から逃げていたのでしょうね。

 

 男性の参加者の方は、自分に不調な所が出てきた時、その原因を自分で見つけ出し、何とかして、その原因を解決していくための努力をされるそうです。そういう姿勢は大切だと思いました。

 

 私たちは、けっきょく、そのような心がけを持って、成長していくことが大切のなのでしょうね。

 

 今回の読書会で話された“霊的な体験”は、明日、書きたいと思います。

 

 以上となります。


2023年5月23日火曜日

 

 今回は、動物の個的意識について、シルバーバーチの霊訓ではどう答えているのでしょうか?を見ていきます。

 

 シルバーバーチの霊訓(八)七章 愛すべき仲間たち―動物 184ページ6行目~

 

 ───動物でも霊的に咎められるべきことをすることがありますか。


 「自然法則に逆らったことをすれば、それは有り得ることです。人間に〝ならず者〟がいるように動物にも狂暴化した動物がいます」


 ───そういう動物は自分が悪いことをしたことを個的意識の中で自覚するのでしょうか。


 「それは知りません。私は動物ではないからです。ともかく善良な動物もいれば邪悪な動物もいるということです。いかなる動物も、いかなる人間も、つまり地上のいかなる存在も完全ではないのです」

 

 ───動物が死ぬと類魂の中に帰って行くということを多くの霊が述べておりますが、実際には死後もずっと地上のままの姿を留めていることを示す証拠が沢山あります。この矛盾を説き明かしていただけませんか。

 「人間と親密な関係にあった動物にかぎって、個体を具えたままの存続が可能なのです。そうした動物は地上にいる時から、類魂としての本能のまま生きる動物には得られない、個体としての進化が促進されております。それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合うという、すばらしい関係の一例といえます。動物が皆さんとともに同じ環境で過ごすということは、そうでない場合よりもはるかに人間らしい個性的な意識を発達させることになるのです。そうした〝人間的〟表現というものに縁のなかった動物は類魂の中に埋没していきます」

 

 これらの解答だけでは曖昧かもしれませんが、少なくとも、シルバーバーチは動物の意識について否定しているわけではないと感じられます。

 

   ただ、私に伝わったこととして、意識に関わる問題は、今はこれ以上深入りしないようにとだけ伝わっています。


2023年5月22日月曜日

 

 シルバーバーチの霊訓では、話す相手によってその内容や意味合いも変わる場合が見受けられます。

 

 シルバーバーチの霊訓(八)四章 質問に答える(二)

 

 人類浄化の大計画 98ページ1行目~

 「このことに関連してサークルのメンバーから幾つかの質問が出された。その回答の中でシルバーバーチは、その大霊団を構成しているのは必ずしも地上生活を体験した者ばかりではないこと、」

 

 神々の世界 99ページ7行目~101ページ2行目まで

 

 ──〝光り輝く存在〟とおっしゃった存在も自我を表現する能力を有しているのでしょうか。


 「みな個性的存在です。意識をもった存在です。自動人形ではありません。光り輝いております。指導的霊格を具えた高級霊です。大天使団、神の使節です」

 ──かつてはみな人間だったのでしょうか。

  「いえ。バイブルをお読みになれば、天使、大天使のことが述べられています」

 

 ──ということは常に霊的存在がいたということでしょうか。

 「宇宙のどこを探しても霊でない存在はいません」

 ──私はどの霊も一度はこの地球という惑星での生活をしなければならないものと思っていました。

 「そういうものではありません。あなた方の地球は無数に存在する生活の場の一つにすぎません。一度はかならず地球上で生活しなければならないというものではありません。すべてを抱括したマスタープランがあり、その中から何一つ、誰一人として除外されることも忘れ去られることもありません。
 あなた方に見えている星の彼方にも無数の星があります。惑星の彼方にもあなた方がまだご存知ない別の惑星、別の生活の場があります。宇宙は無限に広がっているのです」

 

 天使・大天使、あるいは、地球外へと目を向けることで、今までとは違った視点が持てるようになると思います。


   やはり、シルバーバーチは、偉大な宇宙的存在だと感じました。


2023年5月22日月曜日

 

 今回は、昨日出された話に対する補足をしたいと思います。

 

 扱うテキストは、シルバーバーチの霊訓(三)十一章 霊と意識の起源 173ページ2行目から173ページ終わりまでです。

 

 昨日は、「私たちが意識をもつ個体(個性を具えた存在)としての生活が始まるのはいつであろうか?」ということで、参加者の方から自身の見解を熱く語られました。

 

 そこで、本来はもう少し先の読書会でみなさんと学ぶ予定でしたが、今回は、予習も兼ねて学んでいこうと思います。

 

 参加者の方の見解では、173ページ11行目の「私の考えでは、その時点が意識の始まりです。」というシルバーバーチの言葉から、地上の両親の営みによって媒体を提供される前までは、”私たちに意識は存在しない”というように、“人間以外の生命は意識を持っていない“と受け取っているようでした。

 

 内容に入る前に、先に注意点を述べさせてもらいます。

 

 シルバーバーチは、先に、”私の考えでは”という言葉を述べられています。そのように述べられているということは、他の考えや視点があるのだと受け取れます。

 つまりここでは、「シルバーバーチの考えによると、その時点が意識の始まりとなります。」ということになりますので、必ずしも絶対的なものではないと思われます。

 

 さらに、その”意識”とは、どのような意識のことをいうのだろうか?という問題があります。

 

 173ページ6行目では、「個体として、他と区別された意識ある存在としては、」と述べられています。

 

 そこで語られている言葉を見ると、”個体として、他と区別された意識”と書かれているのですから、それとは異なる意識があることも考えられるわけです。

 難しいかもしれませんが、”個体として、他と区別されていない意識”ということに、思いを向けて見ることも必要だと思われます。

 

 173ページ3行目の最初に、「霊としてのあなたは無始無終の存在です。」と述べられています。

 

 その言葉から、次のように考えることは出来ないでしょうか?

 

 “霊としてのあなた“とは、霊としてのわたしであるから、その霊としてのわたしには意識がなかったのであろうか?と。

 

 そして、シルバーバーチは、「あなたという存在は常にありました。」と述べています。

 

 それは、地上の両親の営みによって媒体を提供される前から、“わたし“という存在がいたことになるのではないでしょうか?

 

 私からみなさんに考えてもらいたいことは、今の肉体を授かる前のわたしとは、どのような”わたし”だったのでしょうか?ということです。

 

 もちろん、こうして地上に誕生する前のわたしは、今の肉体を持った姿や意識ではないはずです。

 

 たしかに、”今のわたしの意識”、つまり、”パーソナリティーとしてのわたしの意識”として認識するならば、地上の両親の営みによって媒体を提供された後であると言えます。

 

 そして、その(真の)個性は肉体を失った後も、永遠に失われることはないのでしょう。

 

 ここで、ちょっと待って欲しいと思います。

 

 もしも、私たちが再び地上に生まれ変わったとしたら、生まれ変わる前にあった今までの意識はどうなるのでしょうか?

 

 シルバーバーチの霊訓(一)一章 あなたとは何か 26ページ6行目で、「今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分かりにならないでしょう。」と語られています。

 

 私たちが意識について考えるときに、(意識出来ていない)霊の意識と自我意識とでは違いがあることを、シルバーバーチは、私たちに語ってくれています。

 

 最後に、このように考えてみると、シルバーバーチの「私の考えでは、その時点が意識の始まりです。」と言う言葉から、人間以外の存在に意識がないと結論を出すのは、早合点と言えるのではないでしょうか?

 

 私の推測ですが、これが語られていた時代は、意識という言葉が、一般的に自分が認識することが出来る自我意識のことを指していて、人間が持つ自我意識とは異なる他の意識への認識が乏しかったのではないでしょうか?

 

 そのようなことも含めて、改めて考えてみるのも良いと思います。

 

 シルバーバーチの霊訓を読書会で学ぶ意義は、みなさんと共に学びを分かち合うことにあると思います。

 

 それは、知識を押し付けることでも、自分の有能さを認めさせることでもありません。

 

 みなさんと共に成長していこうという気持ちが大切なのだと思っています。

 

 それではこれで、昨日の補足を終えたいと思います。


2023年5月21日日曜日

 

 今日開催したオンライン読書会の報告です。

 

 テキストは、シルバーバーチの霊訓(十)第七章 再生問題を語る 119ページ4行目から126ページ8行目まで

 

 今回は、119ページ4行目にあるように、”霊・スピリット”と”魂・ソウル”の違いについて書こうと思っています。

 

 その前に、126ページ1行目で次のように語られているので、そちらを先に考えていきたいと思います。

 

 「地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画性があるのです。」

 

 そこで参加者から出された疑問は、「”地上の危急存亡の時”とは、具体的に何を意味するのでしょうか?」と言うものでした。

 

 これについては、みなさんそれぞれ意見はあると思いますが、私としては、第二次世界大戦という時代背景を考慮すると、核爆弾の開発、実験、投下に関わることのように感じました。

 それは地球人類を破滅へと追いやり、霊性進化の道を閉ざしてしまう要因となります。永遠不滅の存在である私たちであったとしても、実際、そこから立ち直るためには、人としても霊としても、どれほどの苦しみと悲しみと痛みと犠牲を払わなければならなかったのでしょうか?さらに今後も、払わなければならないのでしょうか?

 

 一呼吸おいて、

 

 それでは、”霊・スピリット”と”魂・ソウル”の違いについて話したいと思います。

 

 最初に、読書会の中で出された意見を、私なりに要点をおさえて紹介したいと思います。

 

 ①霊を海に例えるならば、魂とは、海の中のコップに入っている海水である。

 

 ②魂とは、人間に内在している霊である。魂と霊との違いは、人間に内在しているのかしていないのかで判断している。

 

 ③魂とは、霊プラス意識である。

 

 大まかに分けると、このような意見になりました。その他、言い足りない部分もみなさんの中であったと思われますが、今回はここまでにしたいと思います。それぞれ良い意見だったと感じています。

 

 それから読書会の場に限らず、人それぞれの感じ方が違うように、人によってそれぞれ違った意見が出てくるのは当然だと思っています。私の意見やここで書いていることも、一つの意見であり、一つの視点であると思って下さい。

 

 次に、シルバーバーチの霊訓(二)の中で書かれている ”霊”と”魂”についての解説を見ていこうと思います。

 

 215ページからはじまる”あとがきに代えて”という個所です。

 

 そこで近藤千雄氏は、「たとえば空気と風は本質的には同じものでありながら前者は、”静”の状態を指し後者は”動”の状態を指すように、シルバーバーチの言う”神から授かった衣”を静的に捉えた場合、言わば陰の状態を魂と呼び、動的に捉えた場合つまり陽の状態を霊と呼んでいると解釈すればほぼ納得がいくのではないかと思う。」と解説しています。

 

 近藤千雄さんの解説も、難しいかもしれませんが良いですね。

 

 そして、シルバーバーチは、119ページ10行目で、「ここでは単純に、魂とは無限なる宇宙の大霊から出た分子、粒子、神性ということにしましょう。そして霊とは、その魂の媒質です。」と語られています。

 

 私は日頃、シルバーバーチに対して失礼な思いを持ってしまっている時もあります。けれども、シルバーバーチが語る言葉とそこに込められた思いにふれるたびに、尊敬と親しみの思いが込み上げてきます。

 

 今回、シルバーバーチは私たちに、「ここでは、〇〇としましょう。そうすると、〇〇となります。」というような形で語られています。けっして、「〇〇だから、〇〇なのです。それを信じられない人は失格です。」などとは言っていません。

 

 私が”シルバーバーチの霊訓”をみなさんに読んでもらいたいと思う動機のひとつは、まさにこのようなシルバーバーチの霊性を感じてもらいたいからなのです。

 

 シルバーバーチの言葉から、魂とは大霊の一部・神性(内在する神)であると言えます。そして、霊とは魂の媒質であるということから、霊とは魂を取り巻くすべてのもの(外囲)であると言えます。

 

 あるいは、魂とは認識する側の存在(主体)、霊とは認識される側の存在(客体)と言えるかもしれません。が、やはり同じ存在のそれぞれの側面であるのは確かだと思います。

 

 つまり、近藤千雄氏が解説で述べているように、魂と霊とは、同じものを違う視点からみた場合の表現の違いであると言うことも出来そうです。

 

 それを私なりの言葉で表現すれば、「私というものが魂であり、私を顕すものが霊である。」となります。

 

 他にも「自分の内奥にある神性に気づいたとき、私はそれを魂と呼び、私を取り巻く全ての根源に気づいたとき、私はそれを霊と呼ぶ。」というものもあります。

 

 ここで、「私が父の内におり(外なる神)、父は私の内におられる(内なる神)」というイエスの言葉を思い出しました。

 

 魂と霊との関係は、このような関係でとらえることも出来ると思います。

 

 ただ、私たちが”神”と呼ぶ時に、それが外なる神であるのか、内なる神であるのか、それとも両方なのか、あるいは、それ以外なのかは、神と呼ぶ側がわかっていることでも、それを受け取っている側は、その神がどのような神であるのか?については、”言葉のみ”ではわからないと思います。

 

 そのように、”魂”と言う言葉、そして、”霊”と言う言葉に込められている思いは、人それぞれであると感じています。

 

 最後に、どれが正しい答えなのかに固執するよりは、読書会に参加されているみなさんの意見や感性を尊重しつつ、それを共有していくことの方が大切だと私は思っています。

 

 今回は、以上となります。


2023年5月13日土曜日

 

 北神戸ぷちサークル・シールバーバーチ読書会の報告です。

 

 テキストは、「シルバーバーチの霊訓(二)五章 映画女優と語る」です。

 

 今回の内容は、米国の女優メアリ・ピッグフォードさんが、シルバーバーチの交霊会を訪れた時のことを紹介されています。

 

 参加者の方の話では、メアリ・ピッグフォードさんがこの交霊会に参加されたのが53歳の時だったそうです。ですので、この話がされたのは、1945年頃だと思われます。

 

 メアリ・ピッグフォードさんは、以下のような名言を残されています。

 

 「失敗っていうのは、転ぶことではなく、そのまま起き上がらないこと」

 

 「何度転んだって、何度だってやり直せる」

 

 ほんの一部を紹介しましたが、ピッグフォードさんはとてもスピリチュアル(霊的)な面を大切にされてきた方だと感じました。

 

 97ページ9行目、

 「私はかつて地上の人間にも他界した方にも恨みを抱いたことは一度もありません。恨みに思ったのは過ちを犯した時の自分に対してだけです」と、ピッグフォードさんが話し、

 

 それに対し、シルバーバーチは、「ご自分のことをそうダメな人間のようにお考えになってはいけません。今もしあなたの人生の”元帳”を整理することができたら、いわゆる”過ち”といえるほどのものは、無私の行いや善行にくらべて至って少ないことがお判りになるはずです。」と答えています。

 

 ここで、参加者の アイ( I  )さんが話されていたことを紹介します。

 

 今まで、他人の(役に立つ)ためになることをしてきたけれども、(他人のためというのは、意味合いとして)何か違うな?と感じるようになったそうです。

 その感覚は、自分の母親の面倒を見ることによって経験されたとのことです。が、アイさんの背後に存在している(肉眼では視えない)方々の協力と霊的なビジョンを視ることによって、そのように感じるようになったのだそうです。

 

 これから書くことは、私がアイさんから受け取った思いを言葉にしているので、実際にアイさんが話された言葉とは違っているので、ご了承下さい。

 

 シルバーバーチは、”サービス”の大切さを重要視されていますが、”自分が他人のために役立つこと”として、その言葉通りに、これまで理解されてきたのだと思います。

 

 そのように受け取っていたことから、自分と言う存在は、当然ですが、他者とは別の存在として分離されていました。

     それは、アイさんに限らないことで、私も含めてほとんどの人に当てはまることだと思われます。

 

 けれども今のアイさんは、それぞれ他者の中に存在する個性を認識しつつも、その他者の中に自分を見い出すようになったそうです。

 それをアイさんは、(その人のことが)”わかる”という言葉で表現されていました。

 

 それは、相手のことを、自分のことのように”わかる”ということだと思われます。実際に、霊的なことは、この"わかる”という表現が一番ピッタリくるような気がします。それ以外に良い表現方法が見つからないからです。

 

 アイさんのように、他者の中に自分を見るということは、私たちは同じ根源(大霊)の一部であり、けっして個々別々の根源から生まれてきた存在ではないことを、知識だけではなく、霊的、あるいは、魂レベルで理解されていることだと思います。

 

 あたかもそれは、個々バラバラの魂が、大霊によって繋がっていることを知っている。という知識から、私たちはもともと一つであり、一つのものから、さまざまな個性という側面が現れている。だから、他者というのは、違う顔を持った私である。という理解へと変化したように映ります。

 

 アイさんに代わって、私がこの感覚を伝えるのは難しいのですが、少しはみなさんにも伝えることができたでしょうか。

 

 ところで今、これを書いている途中で、「きっと、” 愛 ”が抜け落ちていては、ダメなんだな~」と感じました。

 

 ここからは、自分の経験を交えながら書いていきたいと思います。

 

 聖書の中に、「自分を愛するように あなたの隣り人を愛せよ」という言葉があります。

 

 この言葉の意味の受け止め方は、人によって異なると思いますが、私はそれで良いと思っています。

 

 最初に「自分を愛するように」とあることから、まず、自分を愛するということが、とても大切なことだと感じています。

 

 だけど正直に言って、過去の私は、自分を愛することが出来ていないばかりか、痛めつけることばかりしてきたと感じています。そのような状態で、”私は隣人を愛します”と宣言しても、それは自己満足でしかなかったと思います。

 

 今となっては、自分を(地上的にも、霊的にも)大切に出来ていないのに、私の利己心を満足させる形で、そのような自分を滅して、他人のために尽くすのだ(と思える自分が偉い)と思っていたのが恥ずかしく思えます。

 

 つまり、自分を愛せていないから、そのような自分を滅しようとする。そして、そのような自分を隠したいから、他人のために尽くそうとする。だけど、他人に尽くそうと思えるのだから、とても偉いのだと自分に言い聞かせる。

 

 簡単に言えば、私は嫌な自分を否定するために、そのような聖書の言葉を利用してきたと言えます。

 

 ちょっと自虐的になっているので話を戻すと、シルバーバーチの霊訓を学んでいる人は、「隣人を愛することは、自分を愛することでもある」と理解されているように思われます。

 

 いろいろ考えると、やはり、他人への愛が感じられない人は、自分を愛せていないように感じられます。本当の意味で自分を愛するということは、地上的で物質的なこととは別にあるように感じています。

 

 98ページ4行目、

 「他のすべてのものが忘れ去られ、あるいは剝ぎ取られ、財産が失われ権力が朽ち、地位も生まれも効力を失い、宗教的教義が灰燼に帰したあとも、無私の人生によって培われた性格だけはいつまでも残り続けます。」

 

 最後に、私はグループの中で話すのは、とても苦手です。苦手だけど、思いを伝えるためには、みなさんの前では話さなくてはなりません。誤解がないように言いますと、苦手だけど、個々で話すことは好きなのです。

 けれども、私はこの文章で書かれているような言葉で話すことが出来ないので、昨日の読書会では、自分が話しているうちに何が何だか分からなくなって緊張してしまい、心臓がバクバクしてしまいました。

 

 自分が読書会を開催している時は、私は霊の道具として機能しているので大丈夫なのですが、私個人としてグループの中で話すとなると、これが全然大丈夫ではないのです。それでも、グループで学ぶのは、楽しく感じています。

 

 今回は、以上となります。それでは、参加者のみなさん、お疲れさまでした。


2023年5月8日月曜日

 

 時々、言葉って不便だと感じることがあります。

 

 たとえば、いつも読書会に参加されている方が、都合によって参加できない時があります。

 

 そのような時のために、「読書会の記録」や「その他のお知らせ」を使って報告しているのですが、そこでは、私が伝えたいことの一部分しか伝えられずにいます。

 

 実際の読書会では、必要があれば、資料などを用意して配ったり、黒板を利用して説明するようにしています。

 

 それでも、私が本当に伝えたいことの全てを伝えられているわけではありません。

 

 今回の読書会では、「なぜ、私たちは宇宙に存在し、物質世界で経験を積んで成長していくのだろうか?」という疑問や「神界・霊界・幽界・暗黒界(地獄)という世界について」など、三角形の図を利用して説明しました。が、ポンっと、テレパシーで伝えられれば、楽なのにな~と思っています。

 

 今回、その一部だけでも、何とか言葉で伝えたいと思います。

 

 みなさんの中には、「霊的成長とは、善と悪との間をいったりきたりを繰り返しながら、より善に近づくことである」と思っている人がいるかもしれません。

 

 でも、そこから一歩先の理解に進むことで、私たちはよりお互いを理解しあって、助け合うことが出来ると思っています。

 

 もしもみなさんが、善と悪とは、光と音のスペクトラムであると思えるならば、それらを用いて、私たちはどのような絵を描き、どのようなメロディーを奏でていくのか?という視点を持つことが出来るようになると思います。

 

 それは、私たちの中で永遠に続く、神と悪魔との戦いに終わりをつげるものとなるはずです。

 

 私たちが、より光輝き、より美しいメロディーを奏でるためには、それぞれ、虹色に分かれた一つ一つの光を、あるいは、音階の一つ一つの響きを、(自らが)統合していく必要があるのです。

 その一つ一つに分かれた光や音を、私たちは、善と悪、光と闇というように分けて理解しているのだと感じています。

 

 このような理解が広まって、私たちが、今、ここに存在している素晴らしさを感じられるようになりたいですね。


2023年5月7日日曜日

 

 本日開催の読書会の報告です。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)九章 人間的思念と霊的思念」となります。

 

 今回、読書会の中でいろいろとみなさんと話したのですが、インスピレーションについても話したので、先にそれを紹介したいと思います。

 

 以下は、私が受け取ったインスピレーションの一例です。

 

 「カルマを重力で例えるなら、引力と斥力が自由意志となります。」

 

 なぞかけみたいな感じですが、わかる人にはわかると思います。

 

 たぶん、本当になぞなぞなのだと思います。

 

 それはそうと、読書会でみなさんと一緒に学んでよかったと思うことは、より理解が深まっていくことと、霊的知識を日常生活で役立てるためのヒントが得られることです。

 

 138ページ4行目

 「物質の世界に住んでおられるあなた方はきわめて創造性の乏しい存在です。よくよくの例外を除いて、まず何も創造していないと言ってよろしい。受信局であると同時に発信局のような存在です。まず外部から思念が送られて来る。それがいったんあなたならあなたという受信局で受け止められ、それに何かが付加されて発信され、それを別の人が受信するという具合です。あなたに届いた時の思念と、あなたから発信される時の思念とはすでに同じではありません。」

 

 数名の参加者の方が、この冒頭の文章について、霊能力者のことを説明しているのだと思ったそうです。ですが、ここで語られている”あなた方”とは、私たちみんなのことだと思います。

 

 なぜなら、”物質の世界”と、はじめに語られていることから、必ずしもそれは、インスピレーションのことではないことがわかります。

 そして、まず外部から思念が送られて来る。”とありますが、思念を伝える手段として、テレビやラジオ、新聞、雑誌、あるいは、インターネットなどを通じて情報を得る場合もあれば、その他にも、家庭や地域、職場や学校などでのコミュニケーションを通じて情報を得る場合もあると思います。

 それらの情報は、いったん自分というフィルターに通すことで、何かしらの影響が及んだ情報へと変化してしまうのだと思われます。

 

 たぶんここでは、シルバーバーチが、「外部からの情報を何も得ずに、自ら何かを創造している人は、ほとんどいないのです。」と語られているように感じます。

 

 今日の読書会の場で、参加者の方から、それらに関する具体的な体験談を語っていただきました。貴重な体験を聞けることは、私としてもありがたいことですし、聞いているだけでも楽しいと感じられました。

 

 140ページ5行目

 「思念には地上の人間の発したものが地上の他の人間によって受け取られることもありますが、霊界からのものもあります。思念は常に循環しております。そのうちのある種のものが同質の性格の人に引き寄せられます。これはひっきりなしに行われていることです。」とあります。

 

 今回は、”思念は常に循環しております。”と語られている所に注目しました。循環とは、「ひとまわりして元にかえり、それを繰り返すこと」を意味します。

 自分が受け取った思念をどのような形で発したとしても、それが自分にかえってくるだけではなく、しかも引き寄せてしまうこともあるのだとしたら、「いつも、どのような思念を自分が抱いているのか?」によって、人生そのものが決まっていくように感じました。

 

 もしも、他人を傷つけてしまうような思念を抱いていたとしたら、その思念は、けっきょく自分にかえってくるのですから、そのような思念を抱くことは、自分を傷つけることになります。

 同様に、他人を大切にする思念を抱くことは、自分を大切にすることになります。そのように考えると、人の役に立つということは、自分の役に立つことになるのでしょう。

 やはり行きつく先は、シルバーバーチが他で語っているように、動機(ある状況のもとでその行動を決定する意識的・無意識的な原因)が大切なのだと思っています。

 

 今回は、以上となります。


2023年5月4日木曜日

 

 私は、シルバーバーチの霊訓から学んで、知識としては理解していても、実践において役立てることが出来ていない部分に気が付きました。

 

 それは、身体と精神と霊の調和とバランスに対してです。

 

 私は、私の身体が私自身ではないことを、今まで知識として知っていました。

     しかし、私は、道具、あるいは、乗り物である肉体の道具になってしまった精神を、あたかも霊であり、自分自身であるかのように錯覚していたようです。

 

 ところで、精神とは、身体と霊とを繋ぐ重要な役割を担うものであるとしても、大霊の一部として目覚めるのは、やはり霊であるとの認識があれば、精神は、その霊の道具であるはずです。

    しかし、肉体と共に、この肉体に付随して、肉体の道具のように扱われてしまった精神であっても、私は、霊であると思っていたのです。

 

 私は霊のことを言葉では知っていても、本当の私とは、この肉体なのか?この精神なのか?それとも、それ以外のものなのか?について、自分の中で、自分と向き合うことをせずに、今まで漠然と過ごしてきたことに気が付きました。

 

 そして、ずっとこれまで「自分の中のバランスがおかしい」という迷路に、気付けば、十代の頃からはまり込んでしまっていました。

 

 その一例をあげると、私は依存症の傾向があり、今でも甘いものなどの糖質をたくさん食べたいという、強い欲求が出ることがありますし、そのまま食べてしまうこともあります。

 

 それで以前から時々(特に仕事が休みの日は時間があるので)、「私は自分でも出来る限り努力しているのに、それでも思った通りに出来ないし、何てダメな人間なのだろうか……。」と、もがいてもがいて、もがく日がありました。

 

 今日は休みでしたが、いつものように朝早くから瞑想をしたことで、これまで自分が、肉体の私、精神の私、霊の私とで、程よい距離感を保ってこなかったことに気が付いたのです。

 

 私は今まで、肉体が霊の道具であることを知っていたのですから、自分の肉体に対しては、客観的に見ているつもりでした。でも、本当はそのように見ることが出来ていなかったのです。

 

 特に精神は、自分が肉体だと思っている時には、肉体に付随した精神として働いてしまうので、霊よりも肉体から発する思いに支配されてしまうように感じます。

 

 ただ、私は今日初めて、肉体と精神と霊との程よい距離が必要なことに気が付いたばかりなので、今後、どうなっていくのかはわかりません。

 

 私に足りなかったのは、肉体の私への認識不足です。それによって起こる肉体の私との同一化のために、常に肉体の欲求に振り回されてきました。

 

 今回導き出された解決策は、肉体の私をきちんと認識して尊重することと、その私との程よい距離感を、これを書いている私が努力して作り出していくことです。

 

 もしも、私の中の違和感が解消されて、今後、自分の中の調和とバランスを保つことが出来るなら、私の考えと実践は正しいのだと言えそうです。

 

 地上世界の執着や未練や欲望は、肉体としての自分を自覚し、その自分と程よい距離を保ってバランスを取りつつ、断ち切っていくものなのかもしれませんね。

 

 今回、地球人類の常識、概念、集合意識などと呼ばれる意識状態のままで、シルバーバーチの霊訓を読んだとしても、その中で書かれている言葉を知ることは出来ても、霊的な意味で理解することは、本当に難しいのだと気が付きました。

 

 昨日は、辛い休みの一日でしたが、今日は、私の数少ない休みが、無駄にならない日になりそうで良かったと思います。

 

 みなさんには、あまり上手く伝えることが出来ていないと思いますが、これで終えたいと思います。


2023年4月30日日曜日

 

 今回、改めてホワイトイーグルの「カルマの法則」を読んで、私なりに気づいたことを書こうと思っていましたが、今、読み始めている本のことを紹介したいと思います。

 

 また、そうするように、との思いが感じられます。

 

 今、私が読んでいるのは、ジョアン・プライスさんの『輝く星』ホピ・インディアンの少年の物語 です。

 

 この本を買ったのは一年近く前だったのですが、何故か今まで読む気にはなれませんでした。

 

 どうやら私の中で読む時期というのがあるらしく、手元には、その時期を待っている6冊の本があります。

 

 この『輝く星』は、ようやくその時期が訪れた本ですが、感受性が強くなってきている私には、とても読むのが辛い部分を含んでいる物語です。

 

 それでも、その感受性をずっと麻痺させることで、何とか今まで生きてきた自分を考えれば、これでも多少は、強くなったのだと思います。

 

 本を読み進んで最初に感じたのは、この著者である ジョアン・プライス さんが、霊感豊かな女性であるということでした。

 

 たとえば、地上世界で大切な人を失って悲しみのドン底にある人が、霊的知識や霊的感覚を得たからと言って、その悲しみと苦しみが和らぐことはあっても、すぐに無くなるわけではないのでしょう。

 

 『輝く星』では、以下の文章で、愛犬を失ったホピの少年ロマの心情を伝えています。

 

 「ほどなくしてロマは、心を落ち着けようと、自分を取り巻いている世界を見ずにすむように目を閉じた。するとあの赤茶けたかわいい犬のことが頭に浮かんできた。すでにそのスピリットは肉体から解放されていた。少年は小さな犬のスピリットが放たれて、風のごとく自由となって、今確かに自分と共にあることを感じた。だがいくら愛犬のスピリットが自由の身になったことを知っても、空虚なことに変わりはなかった。ロマはそれ以上のものを求めていた。犬をしっかりと抱きしめて、友情の暖かさを互いに分けあうことが、彼には必要だった。」

 

 そうですよね。

 

 出来ることなら、抱きしめあって、ぬくもりを感じたい。暖かさを分けあいたい。

 

 私たちがこの地上に生まれてきたのは、別々の世界で離ればなれになっていた”愛するものたちのぬくもり”を、まるごと感じるためだったのではないのか、と。

 

 とりあえず、気持ちを切り替えます。

 

 ここで、足立の読書会について少し話したいと思います。

 

 私がふだん学んでいるのは(分類するとすれば)、形而上学(ケイジジョウガク)と呼ばれるものです。(私にとって必要なことでしたが、30歳の頃までは、強引に唯物論を学ばされていました。)

 

 ウィキペディアによれば、形而上学とは、「感覚ないし経験を超え出た世界を真実とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野。世界の根本的な成り立ちの理由や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える。対する用語は唯物論。」と説明されています。

 

 私にとって”宗教”という言葉は、自分より大きな存在である”神”に、自分や他の存在の救いを求めるもの。というイメージがあります。シルバーバーチが語ったような”サービス”の意味で受け取っている方は少ないと思われます。

 

 そして、その”神”の部分を、”お金”という言葉に置き換えることも出来ます。そこには、自分を救うことが出来るのは、自分以外の何か他の存在であるという思いが根底にあるのかもしれません。

 

 もっとも、スピリチュアリズムと呼ばれているものを学ばれている方は、シルバーバーチの霊訓でも語られている「原因と結果の法則」やホワイトイーグルの「カルマの法則」、あるいは、ナザレのイエスも語っていたように、「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」ということをご存じだと思います。

 

 このような知識を得て学び続けることで、結局、「神は自分の内奥に存在し、自分を救えるのは、自分自身である。」という結論になっていくと思われます。

 

 そうなると、今まで救いを”外”に求めていた自分が、今度は、救いを”中”に求める自分へと変化するようになるでしょう。

 

 ”霊的目覚め”と呼ばれるものは、遅かれ早かれ、自分自身の内奥に宿る神の存在に気づくことだと思うのです。

 

 ところで、足立の読書会の”足立”という意味は、当然、足立区で開催している読書会ということになりますが、もうひとつ、”自分の足で立つ”という意味があります。

 

 つまり、”霊的な自立”をして欲しいという願いが含まれています。

 

 もしも、霊的な自立をしようとしなければ、自分では霊的な成長をしていると思っても、何かに依存して救いを求める傾向が変わっていくわけではないと感じています。

 

 それは、私自身が、ずっと”外の神に救いを求めてきた”経験から言えることです。

 

 神を敬愛することは、自分の内奥の神と他人の内奥の神を愛することにつながると思います。そして、それを拡大していくことで、全ての存在への愛に発展していくのだと思います。

 

 今までの宗教に見られるような”自分の都合の良いグループだけを愛する”生き方を、私はしたいとは思いません。

 

 変わる必要があるのは、周りの人たちではなく、私自身なのだと気づいたからです。

 

 今回は、以上となります。


2023年4月29日土曜日

 

 昨日の北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」には、所用があって参加できませんでした。

 

 今朝、私は仕事で朝6時過ぎに家を出る予定だったこともあり、ちりりんさんに、とても早い時間にメールをしてしまいました。

 

 その後、ちりりんさんからメールの返信をいただいて、昨日に学んだ個所を教えていただけたので、とてもありがたかったです。

 

 昨日のホワイトイーグル読書会では、カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ(たま出版)

 

 『第2章 カルマの法則』「3 国のカルマ」及び、「4 カルマの償いのスピードアップ」を輪読し学ばれたそうです。

 

 私も後でもう一度読んでみたいと思います。

 

 何か私なりに気づいたところがあれば、お知らせしたいと思います。


2023年4月19日水曜日

 

 今回は、私なりの霊的知識の活用方法を紹介したいと思います。

 

 日常において、職場や家庭、あるいは、友人、知人、読書会の場なども含めて人間関係は付きものだと思います。

 

 誰もが完璧な存在ではないし、私自身、相手を不快にさせてしまうこともあると思います。

 

 私の場合、普段から意識して、人を「神性を宿すダイヤモンド」として見るようにしています。

 

 そうすることで、たとえ人との付き合いの中で嫌なことがあったとしても、「今は、ダイヤモンドの一側面としての嫌な部分が、相手から出されているんだな~。その側面は受け入れられないけど、ダイヤモンドそのものはとても大切なんだ。今は良い側面が私には見えないだけだ。」と思うことで、気持ちを切り替えるようにしています。


    やはり、そういう私自身がダイヤモンドの一側面で、今、経験して感じていることも、同じように一側面なんですよね。

 

 これは一例ですけど…。


    ところで話は変わりますが、不思議に思うことがあるのです。

 

 それは何故、ナザレのイエスは、(私が想像する以上でしょうけど、)それほどまでに地球人類を愛することが出来るのだろうか?と。

 

 私はやっと、「人は神性を宿す大切な存在である」と思い始めたばかりですから、凄いな~と思っていますし、とても尊敬しています。どうすれば、そのようになれるのでしょうね。

 

 ということで、今回は終わります。


2023年4月17日月曜日

 

 読書会の報告の続きとなります。

 

 使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)七章 再生問題を語る」

 

 117ページ3行目に、「二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。(途中省略)アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。」と書かれています。

 

 そして、8行目に、「一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それが別々の時代にパーソナリティとして地上に生をうけます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。」と続いています。

 

 ダイヤモンドの部分的側面としての”アフィニティ”のイメージがよくわからなかったので、参加者のみなさんに聞いてみました。

 

 みなさんの意見をまとめると、「ダイヤモンドの一つの側面である魂が二つに分かれて、同じ時代に二人の人間として誕生したのが”アフィニティ”である。」ということになりました。

 

 これで正解かどうかは、みなさんの判断に任せるとして、昨日の読書会ではこのようなことも話し合いました。

 

 それから私の視点による、大霊と神との概念の違いについて話しました。

 

 私にとっては、大霊とは無限の存在であるため、本来、言葉で表現することは出来ない存在となります。もしも、無限の存在である大霊を、私たち人間を通して表現しようとすれば、その表現されたものは、言葉に限らずどのような方法を使ったとしても、大霊の一部でしかありません。


   それはまるで、一粒の水によって大海を表現しようとするような、そんな試みではないでしょうか。

 

 もしも私たち人間が、銀河的存在まで成長したとしても、やはり、無限である大霊の一部しか表現することが出来ないことは、理解出来ると思います。(ここが難しい所なのですが、だからと言って、大霊と一つであることには変わりません。)

 

 そのような理由で、大霊の一部として顕現されている存在、あるいは、大霊の一部として認識されている存在を、私は、”神”と呼んでいます。

 

 出来ることなら昨日の読書会で、シルバーバーチにならって、


   「大霊を無限の大きさを持つダイヤモンドに譬えると、神は、その無数のダイヤモンドの側面であると言えます。

 

 そして、その無数のダイヤモンドの側面である神は、自らもダイヤモンドとして輝き、無数の側面を所持しています。

 

 そのようなことを繰り返していくと、私たち地球人類の魂まで行き着くのではないでしょうか……。」というようなことを話したかったのですが、

 

 言葉だけで伝えようするのは、無理がありました。特に、オンラインでは、難しく感じました。

 

 そのような視点を私は持っているので、「無限の存在である大霊は一つでも、その側面の一つである神と呼ばれる存在は、無数にいるのかもしれない。」と認識しています。

 

 それはそれとして、私たちダイヤモンドの側面であるパーソナリティ(人物像)が、大きなダイヤモンドであるインディビジュアリティと繋がっていて影響を与え合っているならば、さらに大きなダイヤモンドとも繋がっていて影響を与え合っているのではないだろうか?と、思いました。

 

 それを限りなく繰り返すことで、やはり私たちは、大霊に行き着くだろうし、大霊の一部だと言うことが出来るのだと思います。

 

 しかもそれは、時間と空間を超えたものであるとすれば、大霊は、私たちと共に、今、ここに、存在していると言えるでしょう。

 

 それでは、今回は以上となります。


2023年4月16日日曜日

 

 本日開催のオンライン読書会の報告です。

 

 使用図書は、シルバーバーチの霊訓(十)七章 再生問題を語る 119ページ3行目までとなります。

 

 シルバーバーチの霊訓を学ぶ時に大切なことは、語っている内容とともに(シルバーバーチが教壇に立って授業をしているわけではないので)、どのような状況でどのようなメンバーの前で語りかけているのかを考慮することも大切だと思います。

 

 この七章では、「前にも一度招待されたことのある熱心なスピリチュアリストが再度招かれた。」と書かれています。

 

 そして、「霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって、今夫人はかつてない厳しい精神的試練に立たされているからだった。その夫人に向かってシルバーバーチが語る」とあります。

 

 シルバーバーチは、そのようなつらい状況にある夫人に対して語りかけていることを意識して、改めて読んでみました。

 

 私が改めて読もうと思ったのは、今日のオンライン読書会で、参加者の方の感想や意見を聞いて、私が気が付かなかった点や不足していたことが見えてきたからです。

 

 改めて読んでみて面白いことに気が付きました。

 

 この夫人が抱えている悩みを、自分も一緒に考えてみようと思えたことです。

 

 113ページで、「私はどちらの気持ちを優先させるべきかが分からず悩んでいるところです。」と、悩みを打ち明けています。

 

 この夫人は、スピリチュアリズムや心霊的なことに対して、夫の理解がまったく得られないようです。

 

 それでもこの夫人は、末の子だけではなく、夫の気持ちも優先したいと思っているので悩んでしまったのだと感じました。

 

 ばっさりと、どちらかを切って捨ててしまえば良いというものではないのだと私も感じました。

 

 けっきょく、末の子を尊重しつつ、夫のためにもなるように工夫していく、ということで落ち着いたようです。

 

 ここで、もう一つ私が気づいたことがあります。

 

 それは、シルバーバーチがキリスト教に対して痛烈な批判をすることがあるのは、みなさんもご存じだと思いますが、この夫人の夫への批判を、シルバーバーチがしていないということです。

 

 それに加えて、以降に出された相談内容を見ても、息子さんによる、夫人の夫である父親への愛が伺えます。

 

 もしも、シルバーバーチがこの夫人の夫への批判をした後に、重病の床にある夫がそのまま他界することになってしまったとしたら、夫人の悲しみや苦しみだけではなく、それを聞いた末の子の悲しみや苦しみも倍増するのではないのかと感じました。

 

 そのように考えてみても、シルバーバーチが語っている訓えは、教義(宗教の教えの内容や主張)とは違うと感じています。

 

 教義を重要視する宗教のように、教義そのものを守っていくという考えに固執すれば、自分をその教義に合わせていくだけではなく、自分以外のものもそれに合わせようとするのではないでしょうか。

 

 もしも真理が、その人の霊性に応じて授けられていくものだとしたらどうでしょうか。

 

 私はシルバーバーチが、参加されているメンバーの霊性と理解力に応じて、それぞれの訓えを語ってこられたと認識しています。

 

 もしもそうであるなら、教義を絶対視すればするほど、その人の霊性はそこに留まることになり、霊的成長を阻害するものとなるのではないでしょうか。

 

    反対に、今までそのように、自分を束縛してきた概念や教義から自由になることで、霊的成長が可能になると思っています。

 

 最後に、今回は、再生についての説明に触れませんでした。それを説明するのは大変なことであるのも事実なのですが、私が未熟であることが大きいからです。

 

 それでは以上で報告を終えたいと思います。


2023年4月15日土曜日

 

 昨日開催された、北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」の報告です。

 

 使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)四章 政治家とジャーナリストを招待して 84ページ5行目から章の終わりまでとなります。

 

 輪読の後、まず最初に、ちりりんさんから感想や意見を述べられました。

 

 今回、みなさんの話を聞いて、いろいろと感じたことがありました。

 

 そして、読書会が終わった次の日、つまり今日になって、具体的に考えさせられています。

 

 87ページ7行目に、「しかし、人類はみずから目覚め、真の自我を見出していかねばならないという宿命的法則があります。従って、重責を担う立場の人、人類に道標を残して行くべき使命を負う者は、それを忠実にそして立派に果たすべき重大な任務があることになります。」とあります。

 

    ここの章は、「政治家とジャーナリストに向けて語られている」ことに注目して下さい。

      

 これから述べることは、ほとんど当てはまる人がいないという前提で書いています。

 

 それと、自分でいうのも何ですが、ここから下はなるべく読まない方が良いと思います。

 

 それでも私は書かなければならないようです。一度は誰もが、どこかの人生で辿る道なのかもしれません。

 

    シルバーバーチの霊訓を学んでいる方たちの中には、霊的知識を知ったことで、自分が特別な存在だと思ってしまう人たちが見受けられます。

 

 しかも、上の文章にあるように、シルバーバーチが「重責を担う立場の人、人類に道標を残して行くべき使命を負う者」と語ると、「それは自分のことだ」と、思われる方もいるようです。

 

 そのように思ってしまう人の中には、「私は人よりも上なのだ。特別なのだ。あるいは、上でありたい。人より下では納得できない。」と思われている人もいるように感じられます。

 

 さらにそのような人は、スピリチュアリズムを多くの人に知ってもらい、スピリチュアリストと呼ばれる仲間(信者)を一人でも多く増やすために奮闘することが、神から自分に与えられた特別な任務や使命のように思えるのかもしれません。

 

 やがて本来の目的を見失い、自分が所属する組織やグループを拡大することが目的となり、それに専念していく…。

 

    そして、 他との違いを受け入れることが出来ずに、他を否定し、自分や自分が所属する組織やグループを誉め称えていく…。

 

  「人類のために」というオブラートに包むことで、それぞれの我欲を満たしていく…。

 

    けっきょくは、自らが否定している「地上の宗教」と呼ばれているものと変わらないように見えてしまいます。   

 

   (その宗教でさえ、今はその流れに変化がみられるようなのです。)

 

 そのような理由から、どうしても私には、それらのことが(ある存在のための)営業の仕事のように感じてしまうのです。

 

 会社とは違って、目には見えないけれど、そこには何かしらのノルマが存在しています。

 

   その目に見えないノルマを達成できた時は自分を誇らしく感じ、達成出来ない場合は自分が未熟であるとして、劣等感が生み出されて自分を責めてしまう。

 

    時には、それによって、人間の価値(霊格や霊性)までもが決められてしまうような錯覚をしてしまうのかもしれません。

 

 そうなると、途中で何かおかしいと感じても、「自分が未熟だから」という理由で納得しようとする。

 

   なんて馬鹿らしいことでしょうか。

 

 人間の価値を、そのような営業のような成果で決めようとするなんて!

 

 (果たしてこれは、私の心の声なのでしょうか……。)

 

 ただ、これを読まれているみなさんは、そのようなことはないと思っています。

 

 86ページ2行目では、「本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。」と、語られています。

 

 私は、「シルバーバーチのこの言葉を、自分自身、きちんと向き合って考えてみただろうか?」という思いがあります。

 

 さらに、90ページ1行目では、「真理は理解力をもたらし、理解力は平和と愛をもたらし、心に愛を秘めた者には解決できない問題は何一つありません。」と語られています。

 

 「真理は、平和と愛をもたらす」のであれば、もしもそこに、平和と愛が感じられないのであれば、それは真理であると思っていたものが、ただのイミテーションであって、本物ではなかった。と言えると思います。

 

 90ページ6行目では、(ここでは、真理を普及するためではなく、難題を解決するために、)

 「その目的のために、あなたはあなたなりの方法で、私は私なりの方法で、そのほか真理をいくらかでも普及できる立場にある人すべてが、その人なりの方法で努力しなければなりません。そうすることが世界を、あるいは少なくとも自分の住む地域を豊かにすることになるのです。」と語られています。

 

 ところで、ここで語られている真理とは何でしょうか? 

 

 それは、シルバーバーチが今まで語ってきたような、単純で素朴な真理なのだと思います。

 

 そして、それを日常生活に生かしていけば良いのだとしたら、あまり難しく考える必要はないのだと思います。

 

 ところで、真理を普及する目的が、正義という名で、優越感を得ることや満たされない心の隙間を埋めるためになっていないでしょうか?

 

 もしもそうであれば、自分の利害のために、真理を普及することが目的となってしまいます。

 

 シルバーバーチは優しいだけではなく、時には厳しさも感じられますが、私たちの自由意志と個性をとても尊重されていると、私は感じています。

 

 もしもそう感じない時は、自分自身が兄弟姉妹である他の人の自由意志と個性を尊重しているかどうか、一度立ち止まって、考えてみると良いと思います。

 

 それと同じように、自分自身の自由意志と個性を、とことん尊重してみて下さい。

 

   自分を自分で否定せずに、自分を大切に思ってみて下さい。

 

 以上で終えたいと思います。


2023年4月2日日曜日

 

 本日開催のシルバーバーチ読書会の報告となります。

 

 場所は、代々木上原駅近くの大山町会館で、午後1時からの開催となりました。

 

 使用図書「シルバーバーチの霊訓(三)八章 シルバーバーチからの質問」を輪読し、学んでいきました。

 

 今回、初めての方の参加があったのですが、メールでお伝えしたことが上手く伝わっていなかったようで、残念ながら途中で退席されることになりました。

 

 事前にメールでお伝えした内容は、次の通りです。

 「足立の読書会は、宗教組織ではないので、参加される方の目的は、みなさんそれぞれ違っています。 出来れば、肩の力を抜いて、みなさんの自由意志を尊重しつつ、調和を心がけて参加して欲しいと思います。 それでは、お待ちしております。」

 

 その方から伝わってきたエネルギーから判断して、参加のために必要なことをお伝えしたのですが、今回は上手くいかなかったようです。

 今までの私は、参加者のことをスピリットに任せきりでしたが、これからは、いつまでも甘えているわけにはいかないようです。

 

 この際、みなさんに誤解がないように言いますが、私は、ただの50代の男性で、特別な人間でも、すごい人でも何でもありません。期待外れの人間かもしれません。実際に会ってみて、がっかりするかもしれません。みなさんと楽しく読書会を通して過ごすことが出来れば、それで私は嬉しいのです。

 

 それでも今日の読書会では、数か月ぶりに参加された方や、先月から参加された方が、読書会やその後のコミュニケーションで楽しそうにされていたのを見れて良かったと思いますし、足立の読書会は、それで良いと思っています。

 

 改めて言わせてもらいますが、足立の読書会は、宗教組織ではありませんし、思想団体でもありません。

 

 霊的知識普及のための実践の場は、読書会ではありません。読書会の場で、自分の優越性を感じたいと思う方は、どうか他にふさわしい場所を探してください。 

 

 今回のことで、私もいろいろと学ぶことが出来たことについては、感謝したいと思います。


2023年3月25日土曜日

 

 昨日開催の北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」の報告です。

 

 テキストは、カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ(たま出版)

 

 『第2章 カルマの法則』「1この法則の意味 」となります。

 

 まず初めに、「すべての魂は、地上に生まれる前の霊界にいるとき、その魂が地上へ転生する必要性(これに関する記憶は、魂が肉体に入るときに消える)を天使から教えられます。」と語られています。

 

 ここでは天使という言葉が使用されていますが、スピリットガイドという言葉を使用される方もいます。呼び方は人によって異なる時もありますが、私たちを支援されている天使的な存在であると言えます。

 

 そして、「これにはいくつかの道が示されます。その魂の意識の状態が高い場合、地上で生きるときの両親と人生を選択します。」

 

 気づかれた人もいると思いますが、”魂の意識の状態が高い場合”と”魂の意識の状態が低い場合”とでは、異なることが伝わってきます。

 もしかしたら、魂の意識の状態が低い場合は、そのような選択の余地がないのかもしれませんね。

 

 続いてホワイトイーグルは、「その魂は、地上で肉体的、精神的、霊的な苦労をするだろうということをよく知っています。その魂は、もしその苦労を選択するならそのように生きることもできますが、そのカルマを将来に持ち越すこともできます。」と語られています。

 

 ホワイトイーグルの読書会が開催される先日に、ちりりんさんとアイさんが直接会われて話をする機会があったそうです。

 

 その時の会話は、アイさんが地上に生まれる前の霊界での話だったそうで、その時の話をみなさんに紹介してくれました。

 

 アイさんの話を聞けば聞くほど、今回の学びにピッタリの内容であることがわかって、霊の世界の方々の気遣いが感じられました。

 

 さらに、すでに霊界で活躍されている、アイさんの旦那の愛が大きく関わっているのだろうな~。と、私は思いました。

 

 ここで、アイさんから紹介された話をみなさんにも紹介したいのですが、とても出来そうにありません。

 

 何故なら、一人の人間が地上に誕生するためには、とても多くの存在の関り合いと助け合いが必要なことがわかったからです。

 そして、今までの知識を改める必要性も感じましたし、ちょっと聞いただけなのに、全てがわかったような感じで伝えるのは申し訳ないと思いました。

 

 それでも面白かった話を紹介したいと思います。

 

 これは、アイさんのスピリットガイドが教えてくれたらしいのですが、地上に生まれる前の霊たちのほとんどが、地上に持ち込む課題を詰め込めるだけ詰め込めようとするらしいです。

 

 実際に地上に生まれる前の多くの霊たちは、「たかが100年足らずの時間なら恐れることはない」と意気揚々で、けっこう無謀な地上人生を計画しようとするみたいです。

 

 そのような場合は、スピリットガイドが無理のない計画にするようにアドバイスされるみたいですが、霊によっては、そのまま課題を詰め込めるだけ詰め込んで地上に生まれ、けっきょく生きるのが辛いと嘆くそうです。

 

 アイさんも、自分が地上に生まれる前に、霊の世界で計画している場面を見せられたそうで、そこには豪語している自分がいて、それを見て恥ずかしいのを通り越してしまったそうです。

 

 そのため、もう弱音は吐けないと言っていました。そして、霊の世界に戻って恥ずかしい思いをしないために、課題をやり通すしかないと決意されたようです。

 

 このことは、アイさんに限った事ではないそうで、今、みなさんの中で辛い人生を過されている方がいるとしたら、それは地上に生まれる前に、意気揚々として自分が計画したせいかもしれないのです。

 

 私ならできる……、と。

 

 今回のホワイトイーグル読書会では、参加者の方たちから、それぞれ生まれて来た目的を聞くことが出来たので、とても有意義で楽しい時間を過ごせました。

 

 読書会に参加し、みなさんと学ぶことが出来て感謝しております。

 

 報告は以上となります。

 

 以下は、自分が思ったことを書きたいと思います。

 

 私の地上での課題は、逃げない事と受け入れることだと感じています。そのためには、それを可能とする芯の強さが必要です。

 

 私の考える芯の強さとは、どのような次元、どのような世界、たとえそれが暗黒界と呼ばれるような低次の世界であっても、自分が自分らしくいられること。さらに、どのような出来事であっても、逃げずに受け入れることが出来る強さです。

 

 でも私は、今までずっと勘違いをしていたことがあります。

 

 人は間違ってしまうこともあるし、狡くなることもあります。また、自分だけは助かりたいとか、自分だけは辛い目に遭いたくないとか思う時もあります。

 

 それに、損をするよりも得をした方が良いと思うし、お金が無いよりは少しでも多いほうが良いと思ったりもします。とにかく、自分が思い描いてきた神という存在とは正反対の部分を併せ持っています。

 

 けれども、そのような自分を否定し、そのような自分を失くしていくことが、正しい道であると思っていました。

 

 しかし、本当の所は、そのような自分を直視するのが嫌で、今まで自分を否定することで逃げてきたのだと気づきました。

 

 そのように正しい自分だけを自分とし、間違いや失敗をしてしまう自分は自分ではないと否定してしまったのですから、自分らしい自分にはなり得ないということに、ようやく気がついたわけです。

 

 これまで(前世を含めて)の私は、善なる神と悪なるサタンという構図の中で、踊らされていたように感じています。

 

 そのような神と悪魔の構図の中では、人は神に近づくほど尊敬され、偉大になり、時には崇拝の対象になることさえあるのですから、自分もそのようになりたいと思っていたのだと思います。

 

 一方、思い描く神から離れれば離れるほど、その反対の扱いを受けることになると思っていたので、自分にそのような所があれば否定し、そのような自分と縁を切ることを切望していたのだと思います。

 

 そのような理由から、霊格の高さや霊性の質でスピリットを判断し、高級霊と呼ばれる存在であるなら歓迎し、低級霊と呼ばれる存在であるなら、哀れで間違った存在であると見下していたわけです。(実際には、自分にとって都合の良い存在を高級霊、都合の悪い存在を低級霊と呼んでいる可能性もあります。)

 

 その構図を地上の人たちにも当てはめて考え、判断してきたのですから、傲慢、あるいは、高慢というものが、自分の中に大きく芽生えてしまいました。

 

 ところで、その私が思い描いてきた神とはどのような存在なのでしょうか?

 

 もしかしたら、私は、神ではない存在を神であると思い込んでいたのかもしれません。

 

 何故なら、自分にとっての善や悪は、相対的なものであって、つまり、自分の中の比較の上で判断しているものであって、絶対的なものとは言えないからです。

 

 そのように私が思い描いてきた神が、そのような相対的な善での存在でしかないのだとしたら、もはや神とは呼べないのだと感じています。

 

 相対的でしかないのに、絶対的だと思い込んでしまう。あるいは、自分というフィルターを通しているのに、それに気がつかないまま、それを完璧だと思ってしまう。

 

 そのような自分に気がつくまでに、いったいどれだけの人生経験が必要だったのでしょうか?

 

 今回、私自身を通して、思ったことを述べてみました。

 

 以上で終わります。


2023年3月19日日曜日

 

 オンラインのシルバーバーチ読書会の報告です。

 

 テキストは、「シルバーバーチの霊訓(十)六章 音楽を語る」となります。

 

 今回は、本題には触れずに、私が音楽について感じたことを書こうと思います。

 

 まず初めに、音楽という字は、「音を楽しむ」と書きますが、そもそも”音”とは、どのようなものなのでしょうか?というような疑問がわきました。

 

 辞書で調べると、音とは、振動(=揺れ)のことだそうです。つまり、バイブレーションなのだそうです。

 

 そう考えると、音楽とは、音のバイブレーションを楽しむことと言えそうですね。

 

 そのバイブレーションには、さまざまエネルギーが込められていますから、私たちはそれを感じ取ることで、さまざまな変化を自分の中に見出すことが出来るのだと思います。

 

 そして、そのようなことは、音楽に限らないことだと感じています。

 

 参加者の方も話されていましたが、霊界の音楽とはどのようなものなのか、今聞けるなら、聞いてみたいと思いました。

 

 それから話は変わりますが、霊的知識の勉強を続けていくうちに、なぜ、霊的知識を広めていく側の人が、人よりも上に立とうとするのか?の理由がわかってきました。

 

 が、今はお伝えすることが出来ません。

 

 私も気をつけたいと思います。

 

 今回は、以上となります。


2023年3月11日土曜日

 

 昨日、3月10日に開催された、北神戸ぷちサークル主催のシルバーバーチ読書会の報告です。

 

 テキストは、「シルババーチの霊訓(二)第四章 政治家とジャーナリストを招待して 85ページ7行目まで」となります。

 

 (※今回、時間の都合により、輪読を途中で区切られたそうなので、ご了承ください。)

 

 78ページ3行目で、シルバーバーチは、

 「私が地上へ戻ってきたのは基本的な霊的真理をほんのわずかだけ述べるためです。」と語られ、そして、「宗教の根幹であるところの二、三の単純な真理、すなわち人類はお互いがお互いの一部であること、そして肌の色の違いの内側にはすべてを結びつける共通の霊的な絆があるということ、これだけです。」と語られています。

 

 私は、この文章を読んだだけでも、シルバーバーチは凄いな~と思いました。今まで私が地上世界で生きてきて、このように語る人と出会ったことがありません。

 同じようなことを言っている人はいたのですが、そもそも私に伝わってくる思いが全く違っていました。

 

 私が最近感じたのは、シルバーバーチ自身が述べているように、私たちには、わずかな霊的真理しか述べていないのだと思います。

 

 たとえば、80ページ最後の行に、”光り輝く存在”と呼んでいる人が出てきます。

 

 この”光り輝く存在”は、守護霊や指導霊とは違う存在のような気がしますが、ここでは、かつて偉大なる奉仕の生活を送った霊ということしかわかりません。

 

 そして、83ページ12行目では、「より大きな仕事を成就せんとして私たちを援助し鼓舞してくださっている偉大なる存在を認識いたしましょう。」と語られています。

 

 シルバーバーチは、”私たちを援助し鼓舞してくださっている”と語られていて、”あなたたちを援助し鼓舞してくださっている”とは、語られてはいないことに気がつきました。

 ”光り輝く存在”と”偉大なる存在”とは、どのような存在なのでしょうか?興味があります。

 

 それらについては、私が把握している内容の真偽が確かめられないため、ここでお伝えすることは控えたいと思います。

 

 話は変わりますが、ある参加者の方は、81ページ9行目の「魂というものは、”ゲッセマネの園”を耐えしのぶまでは、”変容の丘”にのぼり着くことはできないのです」という個所を持ち出し、今、まさに試練の時を迎えている話をされました。

 

 その話を聞いて、「みなさん、本当に苦労されているのだなぁ」と、かつての自分と重ね合わせて、何とも言えない思いに包まれました。

 そういえば、私の子どもたちも、親には伝えていない仕事に対する苦労があるみたいで、この地上世界を生きるだけでも大変だということを、改めて私自身が認識しました。

 

 今回、理解力を深めるために、使われている用語について書いてみました。

 

 78ページ14行目、「四海同胞(シカイドウホウ)」とは、人と接する時に真心と礼儀を持てば、人は兄弟のように親しくなれること。また、親しくするべきということ。「四海」は四つの方向の海のことから、全世界という意味だそうです。

 

 「協調」とは、利害や立場などの異なるものどうしが協力し合うこと。

 

 「奉仕」とは、報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うこと。また、商人が品物を安く売ること。英語ではサービスと言われるようですが、隣人や困窮者への援助も含まれているようです。

 

 「寛容」とは、広い心を持ち、他を受け入れるさま。具体的には、自分とは異なる意見や価値観を安易に拒絶せず、許して容認しようと努めたり、他人の失敗や失礼な振る舞いをことさらに咎め立てせずに許そうとする姿勢のこと。

 

 81ページ11行目、「労働党創設者の一人、キア・ハーディ」(James Keir Hardie、1856年8月15日‐1915年9月26日)人によっては、”ケア・ハーディ”と読む場合もあるようですね。

 

 今回のシルバーバーチの霊訓のテキストとは違う個所なのですが、

 

 ナザレのイエスは、最後の晩餐のとき、ひざまずいて弟子たちの足を洗ったこと(ヨハネによる福音書13章)を知りました。

 イエスの愛は、こういう所にも出ているんだと、改めて思いました。

 

 霊性進化の道を歩み続ければ続けるほど、謙虚さや寛容性を身に着けていけるようになるのでしょうね。

 

 今回は以上となります。


2023年3月5日日曜日

 

 本日開催の足立シルバーバーチ読書会の報告です。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)七章 宇宙創造の目的 119ページ12行目から」となります。

 

 今回の読書会では、初参加の方と2年4か月ぶりに参加された方がおられましたので、最初に簡単な自己紹介をしてから輪読を始めました。

 

 そして、輪読を終えた後に、私から参加者のみなさんへ二つの質問をさせていただきました。

 

 一つ目は、121ページ7行目「知識には責任が伴います。こんどは代ってあなたがその知識を自分にできる範囲で広めなければならないのです。」と、シルバーバーチは語られていますが、どうしてシルバーバーチは、そう語られているのでしょうか?

 もしかしたら、「私はそう思わない」と感じる方だっているかもしれません。みなさんは、これについてどのように思われますか?というものです。

 

 二つ目は、121ページ12行目「知識に制約を加えようともくろむ人種とは縁をお切りになることです。」と語られていますが、みなさんにとって、「知識に制約を加えようともくろむ人種」とは、どのような人たちだと感じるでしょうか?というものです。

 

 これらの質問に対する回答は、みなさんそれぞれ違っていて当然ですし、実際にいくつかに分かれていました。

 

 一つ目の質問に対しては、シルバーバーチの言葉をみなさんが素直に受け止めていて、そもそも私のような疑問を持っていないように見受けられました。私のようにひねくれていないだけでも、素晴らしいことだと感じました。

 

 二つ目の質問に対しては、具体的にここで述べてしまうと問題も多いのでそれは出来ませんが、霊的知識を自分たちの都合の良い所だけ利用したり、歪めてしまったりする人はダメだという意見が多かったと思います。

 

 その後の文章で、「知識こそが魂を解放し、神からの授かりものである自由の喜びを満喫することになるのです。」と語られています。

 

 もしもみなさんが、足立の読書会に参加することで、魂の自由が奪われ、何かしらの束縛を受けてしまったと感じたら、それは、間違った知識を足立の読書会で学んでいることになると思います。

 

 そうならないように気を付けて、頑張ろうと思っています。

 

 後半は、先月に課題として出された「宇宙の愛とは何でしょうか?」について、みなさんと話しました。

 

 参加者の方が、「宇宙の愛とは神の愛のことだと思います。」と話されました。私もそう思いました。

 

 そこで私からは以下のようなことを話させてもらいました。

 

 「人間は、ミニチュアの神と言われていますが、さらに、ミニチュアの宇宙(銀河)であると言えます。それは、人間の肉体が原子の集合体であるからです。

 ある霊的存在の視点に立って原子を見ると、(プラス電気の性質を持つ)原子核のまわりを(マイナス電気の性質を持つ)電子が飛び回っていて、それがまるで太陽系のように見えるそうです。

 そして、それらさまざまな元素からなる(ミニチュアの太陽系の)集合体である人間とは、まさしく銀河そのものとして見えるそうです。

 そのような視点に立って言わせてもらえば、ミニチュアの銀河である私たち人間の内奥に、創造主と同じ神性が宿っており、そこに愛が存在するのであれば、どうして私たちが住む宇宙に、愛が無いと言えるのでしょうか?」と。

 

 みなさんが、宇宙の愛、あるいは、神の愛を、どのように感じるのか?については、同じではないと思います。むしろ、それぞれ違うのが当然だと思います。

 

 私自身が、神の愛を一番に感じたのは、「自分が蒔いた種を自分で刈り取ることになる」という「原因と結果の法則」を受け入れるようになってからです。さらに、再生(生まれ変わり)について学んだことで、より強く神の愛を感じることが出来るようになりました。(が、その思いがずっと続けば言うことはないのですけど……。)

 

 ともかく私が、宇宙の愛や神の愛に気づかなかったとしても、今までずっと世界は愛に溢れていたのでしょうし、今も世界には愛が溢れているのだと感じます。

 けれども、それに気づけるかどうかは、私たち一人一人の自由意志の問題があると思いますし、愛を感じとる能力の問題も関わってくるように感じています。

 つまり、素直に愛されることも大切で、愛を受け入れる勇気や能力も必要なことなのかな~。と思いました。

 

 最後に、宇宙の話のついでに、宇宙人について述べたいと思います。

 

 ここからは、この私、つまり三次元の私のままの意見です。

 

 とてもダラダラとした話ですので、読むのを止めたほうが良いかもしれません。

 

 今までの私は、地上で生きていない、つまり、霊の世界で生きている人を、霊とか、スピリットという言葉で表現して話していました。けれども、肉体があるかないかで人間を区別するのは、本当はおかしいのではないだろうか?という思いがあります。

 

 さらに、霊としての人間が主であり、それが本来の姿であるならば、肉体を持った今の私たちの方が普通ではない状態であり、特別な存在であると言えるのではないでしょうか?

 

 そして、霊である私たちは、今はこの地球に属していると言えるでしょうし、その一方で、私たちのグループとは別に、地球以外の星に属している霊たちのグループもあると思えるのではないでしょうか?

 

 そのように、霊が主であると思えるならば、自分が身に着けてまとう身体は、自分たちが住む星の素材を利用したものであることが想像できると思います。それ故に、私たちと姿かたちが違っているのだと言えます。

 

 けれども私たちが、地球での肉体を主であると思っている限り、他の星では生活が出来ないと感じるのは当然であると言えば当然ですし、また、宇宙人の存在を否定したとしてもおかしくはありません。

 

 話を戻しますと、私が宇宙人という言葉を使用する時は、地球圏に属していない地球外の方という意味となります。それは、地球での再生を繰り返しながら霊的成長をしている私たちとは違う、他の方法で霊的成長をされている存在であるとも言えます。

 

 つまり、どのような身体を持っているのか?で人間を区別せずに、どこの星に属しているのか?どのような方法で霊的成長をされているのか?等で区別する場合に、宇宙人という言葉を使用したり、スピリットという言葉を使用したりしています。

 

 と言いますか、本当は、霊という一言で良いのかもしれませんが、他の方たちの感性に合わせてみることも、とりあえずやってみよう!という感じです。それでも、〇〇星の何々ですとか言うのは、ちょっと私には無理かもしれません。

 

 ただ、もしかしたら、私がズレているだけで、そういう意味で宇宙人という言葉を使っていない。ということでしたら、どうもすみません。

 

 話を変えます。

 

 前に見かけて気になったことですが、時には霊たちに、高級とか低級とかの言葉で区別をする必要があるのかもしれません。けれどもそれが、もしも私たち人間に対して、高級とか低級とかいう区別をされていたとしたら、「それはおかしいよ!」と思えるはずです。が、霊だとそのように感じないのかもしれません。

 (シルバーバーチは、低級という言葉の代わりに、未熟という言葉で表現されています。未熟という言葉は、十分に発達されていない。という意味だと思います。)

 

 ですから、スピリチュアリズムを語る人が、兄弟姉妹とか、神の一部とか、ミニチュアの神と言いながら、その一方で、高級霊とか低級霊とか言っているのを見かけると、どうかな~と感じます。使いやすいのだと思いますけど。

 

 高級な兄弟姉妹、低級な兄弟姉妹とは言わないと思います。でも、それが霊だと普通に使用できるのは、霊的知識があっても、自分が霊だと思えないからだと、私は感じています。

 そもそもの話ですが、各自の神性の発現において、それがどのようなものであるのか?という程度の問題はあるのでしょうけど、生命そのものである霊に優劣をつける意味で高級や低級とつけるのは、やっぱりおかしいと感じてしまいます。

 

 孔子の教えに、「罪を憎んで人を憎まず」があることですし、「罪を憎んで霊を憎まず」が良いと思います。

 

 私の経験からですが、自分の中に存在する、ある種の高慢や傲慢さが、霊的知識の獲得と共に浮き彫りになってくるのですが、自分では、そのことに気がつかないことも多いと思います。

 もしも、霊的知識の獲得によって、不和が生じて人が離れてしまったり、いろいろな人から批判を受けるようになった場合は、それは自分の使命や霊的成長のための試練でそうなっているのではなく、ただ単に、自分が間違っているのかもしれません。

 

 そのような時、自分の間違いを自分が受け入れることは、とても勇気がいることで、辛い事かもしれません。

 

 それでも私は、スピリチュアリストと言われている方たちに、不和が生じて人が離れたり、いろいろな人から批判を受けたりした時は、今一度、自分を振り返ってもらいたいと願っているのです。

 

 今回は、以上となります。


2023年2月25日土曜日

 

 昨日開催された北神戸ぷちサークル「ホワイトイーグル読書会」の報告です。

 

 テキストは、カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ(たま出版) 


 『第1章 神の計画とスピリチュアルの法則』「6 あなたがたの世界に何が起きているのか?」となります。

 

 39ページ後ろから5行目、「完全な法則が人間の全生涯を支配しています。そして高級界から低級界まで、すべて法則と秩序があります。」と語られています。

 

 私のことで言えば、今のようにホワイトイーグルやシルバーバーチの霊訓を学ぶまでは、心のどこかで、「正直者が馬鹿を見る」という言葉がありますが、悪賢い者が上手に立ち回って利益を得るのに対して、正直な者はまじめに生きているばかりに損をするのが世の中だ。と思っていました。

 

 さらに、自分が良い種を蒔いたとしても、どのような実を刈り取るのかは、周囲の人や環境、さらにその時の運も大きく影響すると思っていました。

 

 しかも、世界に争いや飢えなどの苦しみや悲しみが絶えないのは、悪い人間が(国や組織などの)トップに立っているからなのだ……。などなど、自分以外の誰かや何かに原因があると思っていたのです。

 

 もしかしたら、これを読まれている人で、かつての私のように、「そんなの当たり前だろう」と思っている人がいるかもしれません。

 

 昨日の読書会で話されたことで、「そうだなぁ~」と思ったことは、その人の霊性によって、苦痛に対する対処の方法が違ってくるということです。

 言葉では上手く説明出来ないのですが、霊的に未成熟な人は、自分に対する苦痛を解決するために、自分の外に原因を求め、自分以外のものを変えていくことで解決しようとすること。

 一方、霊的に成熟している人は、苦痛の原因が自分の中にあることを認め、自分を成長させることで解決しようとすること。

 

 今、世界規模で引き起こされている悲劇は、地球人類としての、あるいは、各国の人々の集合意識の問題もあると思いますが、やはり今までに、私たち一人一人がどのような種を蒔いてきたのか?を抜きにして考えるのは、責任を転嫁するようなものかもしれません。

 

 42ページ4行目で、ホワイトイーグルは、「宇宙には、混沌などというものはありません。法則は正確で完全であり、すべてが善に向かって働いています。」と語られています。

 

 いつの時代であっても、世界が何かしらの混乱を抱えているように見えても、きっとそれは表面的なことで、善に向かっているのでしょうね。

 

 42ページ12行目(この教えは、第二次世界大戦中に述べられました)では、「火星の天使たちが、人類に新時代、新世界の創造をもたらします。人類は大きく進歩しつつあり、それは達成されるでしょう。古い体制は崩れ、破壊されなければなりません。すべての人間は因果の法則の下にあること、そして、新時代の到来のために生き、奉仕する人々は決して害されることはない、ということを忘れてはなりません。」と語られています。

 

 ホワイトイーグルから、このような心強い言葉を聞くと、私も何だか大丈夫なような気がしてくるので不思議です。

 

 「火星の天使」という言葉を、私は聞いたことがなかったので、読書会で質問しました。

 

 すると、占星術を学んだ人は、火星の天使という言葉からそのエネルギーをイメージし、ホワイトイーグルが伝えようとしていることが理解出来るみたいでした。

 

 私は、みなさんそれぞれの話を聞いていて、火星の天使という言葉は、私たちがイメージしやすいように、表現された言葉であるように感じました。

 

 ちなみに、火星の天使について調べると、否定的に見た場合は、サマエルという天使となり、肯定的に見た場合は、カマエルという天使になるみたいです。けっきょく、どちらにしても巨大な力を持った存在のようです。

 

 アイさんが火星の天使について話されたことは、私たちが天使の姿をイメージし、それに依存をしてしまうのは良くないとしても、個としての天使が、(自分の中に存在している)全ての中の一部として、自分の中に存在している。と思うのは良いみたいです。

 

 すみません、何を言っているのかわからないかもしれません。

    いつも思うことですが、言葉にするのは、難しいことですね。私の表現力が足りないだけだと思いますが……。

 

 たとえば、「神の愛を受け止める」ことと、「神の愛を分かち合う」ことは、言葉では、別々に表現しなければなりませんし、それらを理解するときも、やはり、一つずつ言葉を使用して理解しなければならないと思います。

 

 けれども、言葉を使用せずに、それらを同時に感じ、理解することも出来ます。

 

 その方法は、私にとって、とてもエネルギーを使うことになるので、ごくたまにですが、私の訓練の一つとして行っています。

 

 そのやり方とは、瞑想しながら、自分の中に存在させたエネルギーの球の中に、「神の愛を受け止める」という思いと「神の愛を分かち合う」という思いの両方のエネルギーが存在しているのを感じ取ることです。


   比較的簡単で、エネルギーを使わないのは、「自分の中にすべてが含まれている。と、同時に、それらは個として存在している。故に、すべてを愛することは、みんなを愛することであり、自分を愛することである。」というような思いを、言葉を使用せずに、自分の中で作り出すことになります。


    それはまた、神に思いを伝えるための、私なりのやり方でもあります。

 

 イメージとしては、コインの表と裏を同時に感じ、読み取ったり、その反対に、いろいろな思いを同時に伝えるための訓練と言えるかもしれません。

 

 これは、私の独自の遊びの一つでもありますが、他の人にはお勧めしていませんので、ご了承下さい。

 

 今回は、これで報告を終えたいと思います。


2023年2月19日日曜日

 

 本日開催したオンライン読書会の報告です。

 

 テキストは、シルバーバーチの霊訓(十)五章 死んだあと、どうなるのか 99ページ3行目からとなります。

 

 開始時間早々に、私の方のWi-Fiが不安定で、何度も接続が切れていしまいました。

 

 さらに、音読を始めてしばらくの間は、私だけフリーズしてしまい、みなさんにご迷惑をおかけしてしまいました。が、いつものメンバーでの開催でしたので、そのまま進行を続けていただけたので助かりました。

 

 Wi-Fiについては、音楽を流しながら私が瞑想をしている時に、音が途切れることは何度もありますが、それとは違って、一時的にですが、元の回線がダメだったような気がします。

 

 それから、今回は北神戸ぷち読書会のちりりんさんが、久しぶりに足立のオンラインに参加されました。

 

 ちりりんさんと交流を兼ねて一緒に学ぶことが出来たので、とても良かったです。

 

 それでは、内容の方に移りたいと思います。

 

 100ページ5行目から、時間についての質問と、それに対するシルバーバーチの回答が続きます。

 

 ──この世では時間に縛られているかに思えても、霊界では時間というものが存在しないのですね。


 時間そのものには過去も未来もありません。時間は永遠の現在の中に存在しています。過去と未来はあなたと時間との係わり方一つによって生じているにすぎません。


 (別のところで時間を無限に回転する輪にたとえ、今触れているところが現在で、すでに触れたところが過去、これから触れるところが未来ですと言っている──訳者)」

 シルバーバーチは、「時間そのものには過去も未来もありません。時間は永遠の現在の中に存在しています。」と語られていることから、これを素直に受け止めると、霊界では時間がないということになりそうです。

 

 ちょっと、というか、これを理解するのはかなり難しいかもしれません。

 

 そこで、読書会の場では、次のような説明をさせていただきました。

 

 「自分が神となって、宇宙から地球を見ている所を想像してください。」

 

 あるいは、(よく使われるたとえの一つとして)

 

 「この世界は、一つの映画だと思って下さい。自分はその映画の出演者でもあり、その映画を見ている者でもあると想像してください。」

 

 「映画の出演者である私は、映画の中に存在している時間(及び、空間)に縛られていますが、その映画を見ている私は、その映画の中の時間(及び、空間)に縛られてはいません。」

 

 つまり、映画の出演者とは、地上世界での私であり、その映画を見ているのは、霊としての私となります。

 

 このことは、人間は死んだり終わりだと思っている人にとっては、理解しがたいことだと思います。

 

 この地上世界で、時間に束縛されているのは、この地球上にある素材で構成されている肉体としての私であり、霊の世界に存在している私は、本来、地上世界の時間に縛られているわけではありません。

 

 けれども、たとえば私たちが、地上世界の千年分の経験を習得したいとするならば、私たちは、やはり時間と空間というツールを使って、実際に、地上世界で千年間を費やす必要があるのだと思います。

 

 これは、当たり前のことだと思われるかもしれませんが、もしも、私たちがそれらの経験を一瞬で習得できる存在であるならば、そのような時間と空間というツールを使わない方法で、それが可能であるはずです。

 

 (費やす時間を短縮する方法があるのですが、話が大きく広がってしまうので、今回、その話はしないようにします。)

 

 霊である私たちが、今いる世界で生きるためには、その世界に存在する素材を使用して、私たちが使用する身体を用意する必要があるそうです。

 

 そうなると、その身体はその世界の法則に従っているので、私たちは、その身体に応じた時間と空間に縛られることになります。

 

 ですから、その身体が存在せずに、その束縛も存在しない状態であれば、「私の年齢は、〇〇歳です」と言えなくなるのです。

 

 逆に、身体が無いのに、〇〇歳だと言っている場合は、その世界の束縛から自由になれていない可能性が考えられます。

 

 今までのことを振り返ってみると、物質的な宇宙の中では、時間(及び、空間)というものが存在できるとしても、その物質的な宇宙をとび超えて、それが存在できないとすれば、その時間(及び、空間)は、その物質的な宇宙に属するものだと言うことができます。

 

 「それでもよくわからないよ~」という方は、もしも今、宇宙も私たちも存在しない、まったく何もない状態(空間)だとしたら、そこに時間はあるのだろうか?と、想像してみて下さい。

 

 このような感じで私は説明していますが、自分でも見えない、聞こえない、触れることもできないものを、他の方に説明するのは、結構大変な作業だと感じています。

 

 でも、それが霊としての私の仕事です。

 

 私の場合とは違うのですが、今日、参加されたナナさん(猫の名前だそうです)も、「映像が自分の頭の中でわんさか出るけど、それを言葉にすることが出来ないのよ。」と語られていたので、霊的なものを他人に伝えるのは、きっと大変なことなのでしょうね。

 

 最後に、シルバーバーチの霊訓を学び終えた後は、短い時間ですが、みなさんと近況報告などを話して終えました。

 

 それでは、参加者のみなさん、お疲れさまでした。


2023年2月11日土曜日

 

 昨日に開催された、北神戸ぷちサークル「シルバーバーチ読書会」の報告となります。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(二)三章 一教師の悩みに答える(72ページ1行目から)」となります。

 

 冒頭に、「 あなたに一個の荷が背負わされる。それをどう扱うかはあなた次第です。」とあります。

 

 この一文を読んだときに、「自分はどう生きていくのか?」という問いが、私の中で浮かんできました。

 

 そして、私もシルバーバーチのように語ることが出来るとしたら、どんなに素晴らしいことだろうか。と思いました。

 

 さらに、シルバーバーチは「困難に際して真っ正直さと勇気とをもって臨んで、霊的に損をする人は絶対にいません。何一つ怖がるものはないのです。」と語っています。

 

 私は、この言葉に勇気づけられました。

 

 73ページでは、「高い知識を身に付けた方はとかく自分をみじめに思いがちなものです。その知識が謙虚さ、真の意味での謙虚さを生むからです。」と語られています。

 

 私は過去に、霊的な教えを学びに行った時に、次のような体験をしました。

 

 今から二十年以上前の話となりますが、当時、尊敬してあこがれていたヒーラーの方がいました。

 

 そのヒーラーの方のことを「先生」と呼んだら、そのお弟子さんである女性から、「先生と呼んではいけません。もっと偉いお方なのです。」と、言われました。

 

 けれども以前は、「先生」で良かったはずだったのです。

 

 また、私が把握しているだけでも、「質問をしてはいけません」とか、「信心が足りないから疑いの思いが出てくるのです」とか、「理解出来ないのは、あなたが未熟だからです」とか、言われた人も出てきました。

 さらに人によっては、「それはおかしいと思います」と言っただけで、「あなたは破門です」と言われた方もいたようです。

 

 それなのに、そこでは、人間にとって「謙虚」さが、一番大切なのです。と語られていました。

 

 実際にそこで学んで行くうちに、憧れのヒーラーが偽りの存在であったことに気づき、すっかり夢が冷めて、やがてヒーリングそのものからも離れてしまいました。

 

   さらに私が、人生のどん底に落ちたのもこの時期でした。

 

 そのような状態が十年近く続いたように思います。

 

   かつて偽りのヒーラーに憧れ、そこで学んできた知識には、本物に見せかけつつも、かなりの偽りがあったことが、今ではわかるようになりました。

  さらに、その人が使っている言葉よりも、その言葉に含まれているエネルギーに、どれだけの謙虚さや愛が含まれているかの方が大切だと知りました。

 

   私がその事に気づいたのは、自分がどん底に落ちて、そこから這い上がっていく経験を通したからだと感じております。

 

 以上で、読書会の報告を終えます。

 

 最後に、読書会を終えた後に時間を作って、私の仕事に関する相談を聞いてくださった参加者のみなさん、そして、司会進行をされた「かのさん」に、改めて感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

 

 みんさん、ありがとうございました。


2023年2月5日日曜日

 

 本日開催した読書会の報告となります。

 

 使用図書「シルバーバーチの霊訓(三)  七章 宇宙創造の目的(前半119ページ11行目まで)」

 

 113ページ9行目~

 「これからもその意識は進化と成長を続け、発展し、拡張し、神性を増し、物質性を減らしていきます。

 それが創造の全目的です。

 大霊の一部である意識が千変万化の形態を通じて絶え間なく顕現していくことです。

 それに私はぜひ次の考えを付け加えたいと思います。それは、人間を創造の大事業と切り離す、あるいは縁のない存在として考えてはならないということです。

 なぜなら、人間もその創造活動に参加しているからです。創造的エネルギーが人間を通じて働いているのです。

 あなたの人生、あなたの努力、あなたの葛藤が、無限の創造活動に貢献するということです。」

 

 今日、参加された方は、このシルバーバーチの言葉によって、自分の人生における努力や葛藤がけっして無駄ではないことと、宇宙創造のために自分も貢献できることを知って、とても勇気づけられたそうです。

 

 114ページ2行目の「愛他性を増し、排他性を減らす」ということについて、参加者の方が話されていましたが、私もそれを聞いていて、とても大切なことだと思いました。

 

 逆に現実では、霊性が高いと思われている人ほど、排他性が増して、愛他性が減っているように感じられる場合もあるようです。

 そこには、「霊格が高い人は、孤高である」というような思いがあるのかもしれません。

 

 経験からすると、愛他性が高い人は、どことなく親しみやすさや温かさなどが感じられ、排他性が高い人は、どことなく冷たさや驕りなどが感じられます。

 

 愛他性(自分以外の人の幸せを願うこと)が増していけば、バイブレーションは高くなると思います。

 その反対に、排他性(自分以外の人を退けること)が増していけば、バイブレーションは低くなると思います。

 

 115ページ6行目、

 「地上のように物質に浸りきり包み込まれている世界と交信するためには、次の二つのうちどちらかの方法を取らなければなりません。すなわち、人間の側がその低いバイブレーションを高めてくれるか、それとも私たち霊の側がその高いバイブレーションを下げるかのどちらかです。両方が歩み寄れば・・・・・・・誰しもそうお考えになるでしょう。ところが、どうしてどうして、なかなかそううまくは行かないのです。いつも私たちの方が遠路はるばる下りてこなければなりません。地上世界からの援助は多くを望めないのです。」

 

 読書会で、この部分について質問が出たので、私なりに説明させていただきます。

 

 例えば、普段、地上の人間は、テレビの1チャンネルを見ていて、霊界のスピリットは、7チャンネルを見ているとします。

 この時、テレビのリモコンが壊れていて、チャンネルを変えることがとても困難な状態だと思って下さい。

 けれども、地上と霊界の双方が、同じチャンネルを見て、それを共有していくためには、地上側の人間は、1チャンネル→2チャンネル→3チャンネル→4チャンネルへ……と、チャンネルを変えていく必要があります。

 一方、霊界側のスピリットも、7チャンネル→6チャンネル→5チャンネル→4チャンネルへ……とチャンネルを変えていかなければなりません。

 けれども、もしも、地上側の人間が2チャンネルまでしか変えることが出来ないとすれば、霊界側は、4チャンネルから、さらに、3チャンネル→2チャンネルへと変えていかなければなりません。

 

 そのような地上に近い2チャンネルでは、普段、7チャンネルを見ているスピリットとは、繋がることができないかもしれません。

 

 そのようにならないためにも、もう一度、バイブレーションを上げるためには何が必要であるのかを考えてみます。

 

 それは、排他性を減らし、愛他性を増していくことになります。その努力が必要なようです。

 

 いくらこのような霊的な知識が増えて、頭の中ではわかっているつもりでも、他者に対する思いやりが欠けていては、バイブレーションは低いままなのだと感じました。

 

 今日の読書会で、そのことに気づけたことは、私にとって大切なことで、大きなことでした。

 

 今となって、昨年、霊団のリーダー(ボス)から、私に(道・方向を)間違えないようにと伝えてきたのは、私の弱点(知識を求めるあまり、愛が欠乏し、調和がくずれてしまうこと)が見えていたからだと思います。

 

 これからは知識だけの学びに偏らないように、愛に焦点を当てて、もう一度学び直していきたいと思います。

 

 ところで、みなさんにとって、愛とは何でしょうか?

 

 道具である私には、何となくわかっているようで、やっぱりよくわからないのです。

 

 物語を書いていた時の私は、愛について知っているように思えます。

 

 それでも、物語を書いていた時の私と、今ここで書いている私とでは、器は同じでも、中身の違う存在だと思えます。

 

 これは、自分でも謎なのです。

 

 以上で、今回の報告を終えたいと思います。


2023年1月29日日曜日

 

 今回も、ホワイトイーグルの続きを書きたいと思います。

 

 一晩寝てから改めて、ホワイトイーグルの「5 悪に抵抗しない」を学んでみました。

 

 まず最初に感じたことは、ホワイトイーグルの「カルマの法則」の中で、イエスについて多くのことが語られているということです。

 

 34ページ最初に、「ゲッセマネの園でのイエスの逸話があります。」と書かれています。

 

 みなさんも、「ルカによる福音書 22章」を読んでもらうと、より理解出来ると思います。そこには、ユダがイエスを裏切る場面が出てきます。もしも話は知らなくても、レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」の絵は、ご存じの方も多いと思います。

 

 そして、34ページ2行目では、「そのとき、ペテロは明らかにイエスの教えのすべてを深く理解していませんでした。さもなければ、彼はイエスを守るために剣を振り上げることはなかったでしょう。」と語られています。

 

 そして、「このことに関して、次のように言う人もいるでしょう。」と続きます。

 

 「しかし、清廉(セイレン)な人が殺人者に殺害されることを黙って見ていることなどできません!」と。

 

 ここで私は、「もしも、イエスがペテロのように剣を振り上げ、力ずくで窮地を脱することが出来ていたら、イエスの説く『愛の教え』を、私は受け入れることが出来たのでしょうか?」と、考えました。

 

  私の答えは、「たぶん、無理だと思う」というものでした。それでも私は、ペテロが剣を振り上げ、イエスを守ろうとした行為を「未熟だ」と批判する気にはなれません。私も未熟ですから……。

 

 33ページに戻りますが、後ろから5行目では、

 「私たちは、ある環境に置かれれば争わざるを得ない、という主張を聞きました。これは、物質的側面から見れば正しいかもしれませんが、スピリチュアルな面から見れば決して正しいと言えません。争いは、常にキリストの法則を侵害することになります。人が愛を得る唯一の方法は一つしかありません。それは愛を与えることです。愛の法則を侵害すれば、苦しみ、争い、不安が生じます。」と語られています。

 

 ホワイトイーグルが語る「人が愛を得る唯一の方法は一つしかありません。それは愛を与えることです。」という言葉は、本当にその通りだと私は感じています。

 

 さらに、苦しみ、争い、不安が生じているのは、愛の法則を侵害しているからだということも、本当にその通りだと感じています。

 

 だからといって私は、ホワイトイーグルの教えを鵜呑みにするような形で、とにかく実践をしなさい!とは言いません。それは、シルバーバーチの教えについても同じことが言えると思います。

 

 それでも、地球人類の多くの人たちが、かつてイエスが語った「愛の教え」や、ホワイトイーグルが語る「愛の法則」に気づいて、それを実践することが出来れば、きっと素敵な世界になりそうですね。

 イエスが思い描いてきた世界を、私も分かち合うことが出来たらいいな~と、最近、思うようになりました。

 

 ところで、イエスはユダの裏切りと、これから迎える地上での自らの死について知っていたにも関わらず、それを受け入れられたわけなのですが、そういうことも含めてホワイトイーグルの教えを学んで行くと、面白いと思います。

 

 今回で、やっと「5 悪に抵抗しない」の半分を少しすぎたくらいの個所まで進みましたが、とにかく事前の知識が必要なのがわかったので、まだまだ終わりそうにありません。

 

 みなさんもそうなのかもしれませんが、ホワイトイーグルの教えは、シルバーバーチの教えとは違ったアプローチから、キリスト教に関わっているのが感じられます。

 

 今まで読んできた中では、シルバーバーチの教えにあるような、キリスト教への痛烈な批判は見当たらないようです。

 それと、どちらの方が良いとか悪いとか、あるいは、上とか下とかの判断や考えは、肉体を持った人間がすることであって、霊の世界では、また違った見方をしているような気がします。

 

 最後に、昨夜、自分の中に存在する高慢と向き合う必要性が感じられました。

 

 自分の中に存在する高慢とは、私の場合ですが、たとえば、ホワイトイーグルやシルバーバーチはイエスより下だから、イエスより劣っている存在だと無意識に決めつけてしまうような思いです。

 上とか下とか決めようとする思いそのものが、私の中の高慢からくるようです。

 そういう高慢が私の中で占めている場合は、もう一人の私の存在は、まったく感じられず、どこかに消えてしまっています。

 

 とにかく、高慢、あるいは、傲慢が、自分の中に少しでも(ほとんど気づかない程度でも)存在すると、もう一人の私と繋がらなくなることを理解しました。

 そうなると、本をいくら読んでも、言葉の奥に存在しているエネルギーを理解することが出来ずに、表面に書かれている言葉を覚えるだけにとどまってしまうようです。

 

 改めて、すみませんでした。私は高慢でした。

 

 ということで、今回はこれで終えたいと思います。


2023年1月28日土曜日

 

 昨日開催された、北神戸ぷちサークル「ホワイトイーグル読書会」の報告です。

 

  テキストは、カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ(たま出版) 


 『第1章 神の計画とスピリチュアルの法則』「5 悪に抵抗しない」となります。

 

 30ページの後ろから2行目では、「しかし、悪とは進化していない生命の一形態であり、それにはある目的があります。悪は、人間の生命を刺激し神の意識へ導く、という進化の偉大な計画に用いられています。」と語られています。

 

 そして、「悪に抵抗しない」という聖書に書いてある言葉は、素晴らしいことであり、叡智です。と続きます。

 

 ところで、「悪に抵抗しない」という言葉は、聖書のどこに書いてあるのでしょうか?

 

 おそらく新約聖書の中の次の個所だと思われます。

 

 マタイによる福音書 第5章38-42節 「復讐してはならない」

 

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 

 ルカによる福音書 第6章29‐31節 「あなたの敵を愛しなさい」

 

 「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」

 

 私が感じたことは、聖書を読んだことのない人が、ホワイトイーグルの教えを理解しようとしても、難しいかもしれないということです。

 

 人によっては、そもそもホワイトイーグルが、何故、私たちに、「悪に抵抗しない」というテーマで語りかけるのか?ということさえ、良くわからないと思います。

 

 ここから私の勝手な解釈となりますが、イエスが語ったとされる「汝の敵を愛せよ」の言葉に重ね合わせながら、ホワイトイーグルは「悪」について語っているように感じます。

 

 ホワイトイーグルは、「悪は進化を助ける力です。悪がなければ生命は進化しないでしょう。悪が生命に与える影響は、究極的には善です。(31ページ5行目~)」と語っています。

 

 その一方で、「シルバーバーチの霊訓(九)十一章 三つの出張講演から」では、

 

 ──人間の立場からみると悪に思えるものもまったく悪ではないことがあるものでしょうか──高い次元からみればむしろ善といえることが。


 「地上の人間にとって苦しみは悪であり、痛みは歓迎されませんが、実質的には必ずしもそうではありません。苦は楽と同じく神の計画の一部です。苦がなければ楽もなく、暗闇がなければ光明もなく、憎しみがなければ愛もありません。作用と反作用は同じものであると同時に正反対のものです。
 一つのコインの両面と思えばよろしい。善と悪はともに不可欠のものであると同時に、相対的なものです。
 地上にはさまざまな道徳的規範があり、国によって異なります。たった一つの絶対的規範というものはありません。私たち霊にとっての価値基準はただ一つ───魂にどういう影響を及ぼすかということです。魂の成長を促すものは善で、成長を遅らせるものは悪です。そこが大切な点です。」と、シルバーバーチは語っています。
 
 31ページ10行目で、ホワイトイーグルは、「悪が自然に燃え尽きるまで行われるのを心の底から許すとき、人は悪を理解し始めます。」と語っています。
 
 ここを読んで、シルバーバーチが語っている「善と悪についての知識」を役立てていく方法を、ホワイトイーグルは教えてくれているように、私は感じています。
 
 みなさんもホワイトイーグルをじっくり読むと感じると思うのですが、霊訓などを読んで知識を得ることが出来たとしても、それを理解出来ているかどうかは別の話だということです。
 
 もしも私が次のような質問をされたら、どのように答えるのでしょうか?まったく自信がありません。
 
 ホワイトイーグルが語るように、あなたは「悪に抵抗しない」ことを、本当に出来るのですか?
 
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」「あなたの敵を愛しなさい」という聖書の中の言葉にあるように、あなたは本当に出来るのですか?と。
 
 それはともかく、もう一度、本をよく読むように(もう一人の私から)注意されました。
 
 それは、以下のような理由からです。
 「あなたは、常に自分を善の立場に置いて、悪の立場を誰かに置いて考えているけど、そういう思考になっている時点でアウトですよ。
 あなたは、自分の中に存在する悪についても考えることだって出来るし、悪だと思われている人の中の善についても考えることだってできるはずです。
  さらに言えば、悪についてのあなたの認識は、魂の成長ではなく、自分の利害に関係していますよ。」ということでした。
 
 それもそうですね。ホワイトイーグルも、「一方、その最奥部では、悪にとらわれることなく、善に合致した意識を維持しています。」と語っていますから、私は人の表面(つまり、肉体としての人間)しか見ていなかったことになります。
 
 そもそも私は、「わたしたちは、神の一部であり、神とひとつである」と話しているのに、常に自分だけ善の側で思考するというのは、私は利己的なのに、それに気づいていないということなのでしょう。
 
 今回は、出だしの2ページ目の学びだけで終わりました。短時間ではとても学びきれないので、ここで終えたいと思います。
 
 このテーマについては、私の課題として、今後も挑戦してみたいと思います。以上となります。

  • waka (日曜日, 15 1月 2023 18:36)

     本日開催の読書会の報告です。

     使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三) 六章 イエス・キリストとキリスト教 (100ページ6行目~)」

     「──スピリチュアリズムではイエス・キリストをどう位置付けたらよいのでしょうか。」となります。

     輪読に入る前に、「私にとってのイエスとは」というテーマについて、みなさんに話していただきました。

     もちろん、103ページの終わりでシルバーバーチが語っているように、イエスのことを「人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在」と、思われている方もおられます。

     けれども三分の一の方は、イエスに対して、それほど特別な思いを持っているわけではないと答えられていました。

     その理由の一つとして、シルバーバーチの霊訓を学ぶようになってから、(名前は聞いたことがあったとしても)イエスという存在を知るようになったということが挙げられます。
     そもそも一年を通して、キリスト教を信仰していない家庭で、イエスと言う名前がどれだけ出てくるのでしょうか?

     それはそれとして、キリスト教の信仰の有無にかかわらず、イエスは偉大な神の子であるのは疑いようのない事実であったとしても、私たちもまた、同じように神の子であり、シルバーバーチの言葉を借りれば、大霊の子、あるいは、神の一部、ミニチュアの神であることも確かです。

     さらに私たちも、イエスを模範とするならば、私たちの意識を、大霊にこそ、合わせていく努力をするべきだと思われます。

     107ページ5行目で、
     「人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、その目的をより深く認識すること、神とのつながり、および同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることだけです。新たに申し上げることは何もありません。」と、シルバーバーチは語っております。

     この章で語られている必要な真理とは、「物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせる」「人生の大原則──愛と親切と奉仕という基本原則」のことだと思いました。

     改めて、真理を知った後に、さらに理解を深めていくことが大切なのだと感じました。

     108ページの最後には、

     ──その教育施設はどこにありましたか。

     「幾つかはインドに、幾つかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサンドリアにありました」

     と言うように、イエスも教育機関などで学ばれたことがあると語られています。

     それに関連して、参加者の方がインドに行った時の話をしてくれました。

     その方は、キリスト教徒ではないインド人の方が、キリスト教徒が神に祈るときのように手で胸の上に十字形を描くのを見て、「何故、十字を切るのか?」と質問されたそうです。

     そうしたら、「イエスがインドに来た時に、イエスの方こそが、十字を切ることを学んだのだ」と答えられたそうです。

     それを聞いた私は、「なるほど~、そういうふうに考えることもできますね。」と話しました。

     以上で、読書会での報告は終えたいと思います。

     ここからは、読書会の残りの時間で話したことを、ごく簡単に伝えたいと思います。

     ここから書くことは、夢想家(夢のようなとりとめのないことを思い描いている人)
     あるいは、fantasist、妄想家が書くような内容となります。

     まぁ、参加者の方たちに、「もう、今さら頭がおかしいと思われるのを心配してもしょうがないよ……。」と、言われたので、書かせてもらいます。

     私にとってのイエスとは、私にとっての上司(ボス)たちを束ねている、リーダーではないのか?と感じています。
     「?」なのは、私には、イエスという存在が、本来、どのようなエネルギー的存在であるのかわからないからです。
     そして、みなさんがイエスと呼んでいる存在は、みなさんの集合意識によって作られたイメージ的存在なのではないだろうか?と感じています。
     それは、イエスについて書かれた本や動画などを見てきて感じたことですが、みんなそれぞれ本当のイエスでもあるようですし、そうではないようにも思えます。

  •    私が感じるのは、イエスは地球人類のみなさんに、親しい友のように接して欲しいという思いです。

  •  それはともかく(それで良いのか?と言われれば、参加者の方も言われていたことですが、本物か偽物か?と判断するのではなく、その方がどれくらい顕現することが出来ているのか?というように考えるようにしています。)、シルバーバーチ読書会というのは、霊的箱舟(Spiritual Ark)の一つであると伝えられています。

     足立シルバーバーチ読書会も、足立の霊団による霊的箱舟(Spiritual Ark by Adachi Spirit Group)と見ることができるようです。
     この箱舟のリーダーは、霊の世界の、私が上司(他の方はボス)と呼んでいる方だと感じています。
     それで私は地上での、船長、あるいは、キャプテンという位置づけとなるようです。が、よくわかりません。

     足立を含めた様々な箱舟の中心には、かつて地上でイエスと呼ばれていたリーダーがいて、足立の箱舟も、そのリーダーの下へ結集しつつ、進むべき新たな世界を目指しているようです。

     ただ、そのリーダーであるイエスは、地球人類にとってのリーダーではあっても、全宇宙のリーダーであるとは思っていません。

  •  さらに、その上にリーダーがいると思っていますし、そのリーダーの下には、12名のイエスのようなリーダーたちがいるようです?ので、イエスが選んだ使徒が12名なのは、そこから来ているのではないのか?と勝手に思っています。
     なぜ、12という数字なのか?は、天の川銀河を創造した神が、その数を気に入っていたのかもしれません。(もう一人の私は、そのような訳はないと伝えてくる……)

     それと、宇宙人の話をする方たちが、宇宙船とか、母船(マザーシップ)とかの話をされますが、それは、人間の身体を、魂の乗り物と表現したりするように、霊的箱舟、あるいは、霊的領域のことを意味しているのではないのかと思っています。

     それから、聖書に出てくる7という数字(7の70倍許しなさい)について言うと、7という数字は、チャクラやそれに対応する領域の数を表していると思われます。
     詳しく説明するのは面倒なので出来ませんが、7つの領域を一つのオクターブ(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・新たなオクターブのはじまりとしてのド)と見て、それを70倍すると大霊の領域となるだろうから、7の70倍は、無限大ということになるようです。
     その7にしたのも、銀河を創造した神が気に入ったから、そうなったのではないでしょうか?(もう、やめとけ……と伝えられる)

     それから、こういう話も伝えられました。

     他の読書会のような所では、かつてのイエスがそうしたであろうと推測して、12名の使徒を自分の配下につけるために、それに相応しい者を集め、新たな12名の使徒を厳選しているような動きが見られるそうです。

     そして、イエスだったら、こういうようにするだろうというような真似をするかもしれないよ。と、伝えてきました。

     それを聞いた私は、それはそれで、みなさん頑張っているのだと思うけど、イエスが望んでいることと違うような気がする。と思いました。

     とにかく私は、こういう人間ですので、せっかくのシルバーバーチの教えを、変な方向へ持っていったりしてしまいます。

     以上が私の妄想の話となります。お疲れ様でした。


waka (Saturday, 14 January 2023 08:09)

 ※補足をさせていただきます。

 シルバーバーチは、「あなたの人生も、あなたの個性をあなた自身で発達させるための手段だということです。」と語っています。

 今回は、「人生は手段である」とシルバーバーチが語っていることに注目してみました。

 人によっては、目的と手段を混同している場合があると思います。

 自分が霊であると思っている人は、それを素直に受け入れることが出来ると思います。
 しかし、自分が肉体だと思っている人は、人生そのものが目的となってしまいますから、生きるための手段が、自ずから肉体のためのものになるだろうことは、予想がつくと思われますし、利己的になりやすい傾向に陥るだろうと思われます。
 たぶん、自分という存在が、肉体を超えた精神的・魂的な存在だと理解するにつれて、自分の利他的な部分も育つのかもしれませんね。
 
 やっぱり、シルバーバーチが語る言葉は、宝石や宝物なのだと、私は思いました。

 以上となります。


waka (Saturday, 14 January 2023 07:43)

 昨日、北神戸ぷちサークル・シルバーバーチ読書会に参加しました。

 その報告となります。

 テキストは、シルバーバーチの霊訓(二)三章 一教師の悩みに答える 63ページ10行目~71ページ終わり

 今回、参加者の方たちが印象に残った個所として話されたのは、70ページ6行目~

 その後の交霊会で女性の出席者が「私はこれまで困難から逃げよう逃げようとしてきたことが分かりました。これからは正面から取り組み、決して逃げないようにしようと思っています」と述べ、続けてこう尋ねた。
 「お聞きしたいのは、私がすぐにパニック状態になったり塞ぎ込んだりするのは、その逃げ腰の心の姿勢のせいでしょうか、それとも私の知らない原因が別にあるのでしょうか」

 というように、交霊会に出席した女性の質問に対して、シルバーバーチが答える形で話が進められている所です。

 71ページ3行目~

 「そうです。ですが、これからは自分の足でしっかりと踏ん張る拠りどころができました。それを決して失うことのないようにしたいと思います」(女性)
 「逃げ腰になるとおっしゃったのはそのことですか」(シルバーバーチ)
 「そうです。そう思われませんか」(女性)
 「思いません。それに、次のことを忘れてはいけません。他のすべての人と同じように、あなたの人生も、あなたの個性をあなた自身で発達させるための手段だということです。あなたの代わりにそれをやってくれる人はいないということです。魂の成長は個人的な問題です。
 いかなる人間にも必ず試練と困難、すなわち人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて蔭を知らないという人は一人もいません。その人生の難問がどの程度まであなたに影響を及ぼすかは、あなたの霊的進化の程度に掛かっています。
 ある人には何でもないことのように思えることが、あなたには大変なことである場合があります。
 反対に、ある人には大変な問題に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を築いていくのです。(以下省略)」(シルバーバーチ)

 ここの文章だけでは伝えられないかもしれませんが、シルバーバーチの優しさを感じます。

 ここに出てくる女性は、依頼心が強く、逃げ腰の態度に出てしまうようですが、それに対してシルバーバーチは、大変な問題だと思えることが人によって違うことを語り、非難することはしませんでした。
 
 私も、シルバーバーチがそのように語っているのを読んで、救われた思いがしました。

 何故なら、自分の欲深さのために、今までどれだけの人たちに迷惑をかけて傷つけてしまったのかを考えるとゾッとするからです。
 さらに、昔飼っていた犬やハムスターたちに対しても、もっと優しく接してあげれば良かったとも思います。
 ペットに限らず、動物や樹木や植物、それに野菜や果物などを育てている人は、すごいな~と思って尊敬しています。それらのことが、私には不向きであると感じています。

 他の参加者の方は、68ページ3行目~

  話題が一転して教育問題になった。
 「現代の教育に欠けているものは何でしょうか」
 「人間それ自身について真理を教える用意が為されていないことです。人間が霊的な宿命を背負っている霊的存在であるという事実へ指向された教育が無いことです。(以下省略)」

 という個所について話されていました。

 私もシルバーバーチの言う通りだと思いました。

 今回の「北神戸ぷちサークル読書会」の進行は、ちりりんさんに代わって、かのさん(乳がんになってスピリチュアリズムに出会うVol.2のブログを書かれている)が行われました。
 ちりりんさんは、ブログ(シルバーバーチを拠り所にして)にも書かれているように、病気療養中ということもあり、オンラインには参加はするものの、急遽そのようになったそうです。

 かのさんは、とても謙虚な方で、みなさんの話をきちんと受け止めてから話されるので、読書会もスムーズに進行していきました。

 それから、かのさんは、ブログでも書かれていますが、イクミさんの「シルバーバーチの霊訓とともに歩む」を紹介されていました。ちりりんさんも褒めていました。
 
 みなさん、頑張っているんだな~と思いました。
 
 大霊へと続くための窓口(仲介者)は、たくさんあった方が良いと私は思っています。

 一つでありながら、無限の多様性を持つのが霊であると感じているからだと思います。

 何だか話がまとまらなくなりましたが、シルバーバーチ読書会の司会進行は、ちりりんさんも良かったですし、かのさんも良かったですので、このまま続けられると良いな~と思いました。
 何と言っても、ちりりんさんには、ホワイトイーグル読書会開催という重責があるので、いつまでも頑張って欲しいと思っています。

 これ以外にも、みなさんに伝えたいことはたくさんあるのですが、今回はこれで終えたいと思います。


waka (月曜日, 09 1月 2023 18:13)

    今回は、補足となります。

 「名前」について、他の方の話を偶然に(ではないでしょうが)、聞くことができたので紹介したいと思います。

 「名前というのは、それを用いることで対象の個性を識別し、イメージを形成する働きを強く持っています。
 私という霊的存在の一部を、〇〇と呼ぶ人々がいると思いますが、それは、私の一部ではあっても、全てではなく、私そのものではありません。
 けれども、その名前を呼んだ瞬間に、みなさんの頭の中には、それによって表象されるイメージが勝手に浮かんでしまう。私の純粋な役割は、……(以下省略)。」(以上、【ヒプノ記録3-4】の一部を参照)
 
 こういう視点もあるのだな~と、私にとっては、勉強になりました。
 
 「シルバーバーチの霊訓(一)一章 あなたとは何か」の初めの方に、

 「どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた〝小さな自分〟以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。」と、語られています。

 シルバーバーチの霊訓を読んで改めて考えてみると、「名前」と言うのは、身体に包まれた〝小さな自分〟を指し示すツールなのだと感じます。

 このように、地上世界と霊の世界の違いを知るためには、本当に、こうやって一つずつ学んでいく必要があるようですね。
 たぶん、何度もこの地上に再生してきているのに、霊の世界のことがあまり理解出来ていないのは、私の要領が良くなかったり、理解力が追い付かなかったりするのでしょうけど、一番の問題は、私の中の物質性の強さだと感じております。
 ただ、最近、私にも良いきざしがあって、自分の中に存在する物質性について、少しずつ個別のエネルギーとして認識できるようになったことです。


    これで今までより、自分の中の問題点を改善しやすくなると思われます。
 
 私の話を聞いたり読んだりして、すぐに理解できる人は、あまりいないかもしれませんね。

 それでも、読んで参考にしてくれるみなさんには、感謝しております。
 
 以上で、補足を終えたいと思います。


waka (日曜日, 08 1月 2023 20:55)

 本日開催した、1月オンライン読書会の報告となります。

 使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)五章 死んだあと、どうなるのか」90ページ8行目~99ページ2行目

 質問者の「──霊界でピアノを習いたいときはやはり練習が必要なのでしょうか。」

 と言う問いに、シルバーバーチは、「もちろんです。何もしないで身に付くものはありません。」と、答えております。

 今となっては恥ずかしい話となるのですが、シルバーバーチの霊訓を学ぶ前の私は、霊格、あるいは、霊性が向上すれば、特に何もしなくても、それに比例して、様々な能力が身に着くと思っていました。

 これは、アニメや小説などで流行っている「異世界などへの転生物語」などを見ればわかると思うのですが、転生先の異世界では、ほとんどの主人公が、神や天使などを通じて、チート能力(不正改造と思われるほど圧倒的な能力)を授けられています。
 私が多く見かけるストーリーとしては、地上世界では恵まれない状況の主人公が、不慮の事故や病気などによって突然の死を迎えてしまいます。
 そして、神や天使などの存在が、圧倒的な能力を主人公に授けて異世界に転生させ、地上世界の埋め合わせをするという物語です。

 たとえば、この異世界という言葉を、宇宙や霊界という言葉に置きかえるとわかると思うのですが、霊格や霊性と呼ばれるものが高ければ高いほど神や天使に近い存在となるでしょうから、それに比例してアニメや小説などのように、能力も万能になっていくのだろう。と思っていました。

 たぶん、私以外にも、そのように思っていた人がいるのではないでしょうか?……その人たちはお仲間ですね。

 けれど、みなさんに霊的真理を伝えるために、シルバーバーチは英語を勉強されたそうですから、霊の世界でも努力は必要であることを知って、けっこうガッカリしてしまったことがあります。

 94ページ6行目、(招待客が自分のホームサークルに出てくる霊の中には歴史上の著名な人物の名を名のるのがいることを述べると──)の質問に対して、

 「私たちの世界では名前は何の意味もありません。地上時代の名声は何の価値もありません。魂の価値は地上時代の肩書ではなく、何を為したかによって自ら裁き、それが現在の個性を形成しているのです。」と、シルバーバーチは答えています。

 さらに、「名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものにすぎません。何の価値もありません。(途中省略)イエスはそういう名声は一切求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われる人は名声を求めたでしょうか。」

 「大切なのはどれだけ人のためになることをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名のって出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の規準は何と名のっているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。」と、語っております。

 「私たちの世界では名前は何の意味もありません」と語っていることについて、私は改めて考えてみました。
 もしかしたら「名前」というのは、テレパシー能力を失った地球人類が必要としているだけなのかもしれません。
 シルバーバーチは、「名前は何の意味もありません」と言い切っているのですから、地上世界での名前を明かさなかったのもわかるような気がします。
 
 その一方で、「自分はこれこれ、こういう存在だ」と、神や仏、あるいは、偉大な人物の名を名のっている霊や人がいます。
 シルバーバーチが述べていることとは、まったく反対のことをされているわけですが、その心情もわからないわけではないのです。
 
 おそらくですが、偽りの名前を語っている霊や人たちの中には、自分に自信が無かったり、自分の中に足りないものが多かったり、現実を受け入れることが難しかったりする場合もあると思うのです。
 時には、「本当の自分は、こんなはずではなく、他と違って特別で、実は凄い存在なのだ」と思いたくなる場合だってあると思うからです。
 ただ、そのような分離をもたらす考えや思いは、調和や愛から離れてしまうと思うので、ほどほどにした方が良いと私は感じております。
 
 読書会を終えて私が今、感じることは、霊格や霊性が高くなるにつれて、地上世界から持ち帰ったものは、名前を含めて不要になっていくのではないでしょうか?ということです。

 そもそも再生を繰り返してきた霊であるとしたら、過去世での名前もいろいろとあるでしょうし、今後も再生をするとしたら、新たな名前で呼ばれるかもしれません。
 私も含めてですが、スピリチュアリズムを深く学んでる方であっても、霊の世界を地上的な視点で見ているのに、自分では霊的な視点で見ているという思い込みがあることです。
 それは、地上の人に限らずに、スピリットにも当てはまるようですし、物質的な視点に近ければ近い存在ほど、自分たちが如何に特別であるのかを主張しているように感じます。
 
 最後に、シルバーバーチの霊訓を実生活に役立てるために、私が日常で気を付けていることを参加者の方たちに話しました。
 今の私は、自分の思念をよく観察するようにして、「いつも何を考え、思っているのか?」に注意しています。

 それは、今までも述べてきたことですが、もう一人の内なる私から次のように伝えられたからです。
 だいたいに於いての私は、「お金なども含めて、物質的に、どうすれば自分が得をするのか?」ということを思ったり、考えたりしているようです。
 その割合が、他人の幸せや利益のことを思ったり、考えたりすることよりも多いとのことです。

 今年はそのような、物質に支配されてきた自分と、真剣に向き合う必要があるのだと感じています。

 今書いているこの報告でも、ポジティブな気持ちとネガティブな気持ちの両方が含まれていますから、大きなことは言えないのですけど。

 そういうわけで、1月のオンライン読書会の報告を終えたと思います。

 みなさん、お疲れ様でした。