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エリスと聖霊


 ヨハネの福音書 1章31-34節

 「最初、私もこの方がキリストであることがわかりませんでした。しかし、私がここで水のバプテスマを授けているのは、まさにこの方を、イスラエルの人々に紹介するためだったのです。」ヨハネはさらに続けました。

 「確かに、聖霊が鳩のように天から下り、この方の上にとどまられるのを見ました。それまでは私も、この方がキリストだとはわかりませんでした。しかし、バプテスマを授けるために私を遣わす時、神がこう言われたのです。

 『もし、聖霊がだれかに下り、その上にとどまるのを見たら、その方こそ、あなたの捜し求めている方、聖霊のバプテスマをお授けになる方である。』

 そのとおりのことが、この方に起こりました。しっかりこの目で見たのです。この方は神の子にまちがいありません。」

 

 マタイの福音書 12章31-32節

 「だから、あなたがたに言っておきます。どんなにわたしを悪く言おうと、またどんな罪を犯そうと、神は赦してくださいます。ただ一つ、聖霊を汚すことだけは例外です。この罪ばかりは、いつの世でも絶対に赦されることはありません。」

 

 ルカの福音書 11章12節

 「聖霊が、時にかなったことばを教えてくださるからです。」

 

 使徒の働き 2章3-4節

 「そして、めらめら燃える炎の舌のようなものが現れ、みなの頭上にとどまりました。するとどうでしょう。その場にいた人たちは、みな聖霊に満たされ、知りもしない外国語で話し始めたではありませんか。聖霊が、それだけの力を与えてくださったのです。」


 「私が教会で聞いた話では、『聖霊(Holy Spirit)とは、父なる神、子なるキリストとともに三位一体を形成する第三の位格(ペルソナ)で、人に宿り、啓示を与え、聖化へと導きます。そして、助け主、慰め主でもあります。』ということでした。」と、セシールは話しました。

 

 「そういうように教えられているわね。」と、エリスは答えました。

 


 シルバーバーチの霊訓(十)五章 死んだあと、どうなるのか

——あなたはその〝大霊〟と交信なさるのですか。 


 あなた方の理解しておられる〝交信〟(コミュニケーション)の意味では〝ノー〟という答えになります。人間が交信するには口でしゃべるか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。 
 自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、したがって無限なものを表現することはできません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するもの全てを、言語によって表現することは不可能です。 
 霊界では界層が高くなると意志の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで、私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私達は直接的に意志を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、できるだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。 


 「私が、『見えない霊の世界のことを理解し、言葉にしていくためには、もっと私が成長しなければならないということよ。』と言ったのは、私とスピリットとの意志による伝達が、言葉によるものではなく、ある種の心と心の融合によって行われるものだからよ。」

 

 「こちらの世界では、話す言葉でスピリットに伝えているように思えても、あちらの世界では、そうではないようね。きっと私の思いが、言葉に乗って伝わっているのではないかしら……。」

 

 「そして、スピリットからの思いを、私の中で再び言葉にしていくことで、顕在意識でも理解出来るようになると思うのよ……。」

 

 

 「もしも、『それは、聖霊によるものなのでしょうか?』と、聞かれれば、私は『そうです。』と答えるでしょうね。」と、エリスは話しました。


 シルバーバーチの霊訓(三)六章 イエス・キリストとキリスト教

 「彼(イエス)を通じて霊力がほとばしり出ました。病の人を癒し、悲しみの人を慰め、愛と寛容と慈悲の心を説きました。が、当時の宗教界からは歓迎されませんでした。そして最後にどうなったかは皆さんもよくご存知の通りです。 」

 

 「その霊力───病を癒し、慰めを説き、当時の民衆からぬきんでた存在たらしめた力そのものが、死後すぐさまその姿を弟子たちに見せ、教えが間違っていないこと、霊は物質に優ること、死に生命を終わらせる力はないことの証を与えさせたのです。その復活がいわゆるキリスト教を生む端緒となったのです。 」

 

 「彼(ウィリアム テンプル)には聖霊の力はいかなる教会、いかなる組織の独占物でもなく、通路(霊能者)のあるところなら世界中どこにでも働きかけるものであることが理解できません。 
 君主だの教会だのからの許可があろうと無かろうと、そんなことには一切お構いなく、老若男女に働きかけているのです。太古からずっとそうでしたし、これからも変わらぬ真実です。」


 「聖書を読んで気づいたことがあります。天使と聖霊は違う存在なのでしょうか?」と、セシールが聞きました。

 

 「私の解釈では、天使とは、人前に姿を現して伝達していることから、天使のみに限らず、スピリットのことも含めて天使と呼んでいると思うのよ。」

 

 「聖霊とは、霊の力やその働きのことだと感じているわ。」と、エリスは答えました。

 

 「今までの話を聞くと、キリスト教の信者ではなくても、全ての人に聖霊が下りてくる可能性、つまり霊の力が働くことがあるということですね?」と、セシールは聞きました。

 

 「そうなるわね。それから私が感じたことだけど、キリストの教えが広がっていく前の世界では、万物の根源としての霊という概念が、まだ人々の中で培われていなかったと思うの。」

 

 「そして、そのような概念が無い時に、霊の力やその働きのことを伝えるのは、とても困難だったと感じるのよね。」

 

 「さらに知識人の中にも、この宇宙が、善と悪、精神と物体というように、万物の根源が相反する二つの原理から成り立っているという概念と、万物の根源がただ一つの原理から成り立っているという概念とに分かれていたりするのよ。」と、エリスは答えました。

 

 「そうですね。異国の人のように、一つの根本的な原理から世界が成り立っていると考えている人たちもいる一方で、聖書の中の神と悪魔、聖霊と悪霊という表現などをみると、二つの原理で成り立っていると考えている人たちもいるようですね。」

 

 「もしも、神と悪魔が同じ根源の存在だとしたら、聖霊も悪霊も同じ根源の霊であることになりますね。」と、セシールは話しました。

 

 「全ての存在は、霊という万物の根源によって成り立っていると、私はそう思っているのよ。」

 

 「でもね、私はそう思っていても、無我と言われる、『あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける普遍的な本質は存在しない。』という考えもあって、そういう概念が仏の教えにはあるそうよ」と、エリスは答えました。

 

 「そうなると、セイエンさんが話している仏の教えと違ってきませんか?」と、セシールは質問しました。

 

 「そうなのよね~。それは、仏教に限ったことではないけれど。」

 

 「セイエンの話では、亡くなった人たちのことを思うと、どうしても釈迦の教えをそのまま受けいれることが出来なかったそうよ。」

 

 「だから、セイエンの説く仏の教えは、死後の世界を肯定した上での教えなのかもしれないわね。」と、エリスが答えました。

 

 「私はセイエンさんの説く、仏の教えが好きですよ。」と、セシールは言いました。

 

 「それで良いと思うわ。」

 

 「これは、あくまで私が感じたことだけど、結果はともかくとして、随分と昔から、そう…、イエスの誕生の頃にも、聖霊によって、仏教がより真理に近づくための働きかけがあったのではないかしら……。」と、エリスは言って、

 

 「それでは、聖霊の話に戻すわね。」

 

 「私たちは、霊の働き、あるいは、霊の力の現われである聖霊によって、病の人を癒し、悲しみの人を慰め、愛と寛容と慈悲の心を説くことが可能となるのよね。」

 

 「さらに霊とは、生命でもあり、そこには愛も含まれているから、シスター・メリッサのように、聖霊によって病を癒すこともできるのよ。」と語りました。

 

 「もしかして、シスター・メリッサって、背の高い女性?」と、セシールが聞くと、

 

 「そうよ、彼女はヒーラーよ。」と、エリスは答えました。