ある日、辺境の地の教会に、一人の女性が訪れました。
その異国の女性は、褐色の肌と長い黒髪、時折見せる少女のような顔立ちから、何とも言えない不思議な魅力を放っていました。
「何をそんなに驚いているのですか?」
「牧師様、私はあなたの奥様ではありませんよ……。」と、その異国の女性が、微笑みながら話しかけてきました。
「あっ、あなた様は、本当に実在されているお方なのですか?」と、辺境の牧師は答えました。
「私が実在でなければ、何だと思われるのですか?」と、女性は質問しました。
「本当に、聖母様なのですか?」と、パスターは質問に答えずに聞き返しました。
辺境の牧師であるパスターが、驚くのも無理はありませんでした。
この教会に飾られている肖像画の女性とそっくりだったからです。
その肖像画は、今まで教会によって伝えられてきた聖母の姿とは違っていたために、『異国の聖母』と呼ばれていました。
そして、先代の牧師ユリウスの話によれば、異国の聖母の働きのおかげで、辺境の地とエリスの住む町が守られてきたそうです。
異国の聖母は、語りかけます。
牧師様は、「いずれ滅び消えゆく肉体を実在とし、肉体と共に失ってしまう地上のものが真実である……。」と、そう教えているのですか?
「肉体が滅びた後にも存在する世界を架空だとし、その世界は幻影(マーヤー)である。」と、そう教えているのですか?
今まで牧師様は、「この地上世界こそが、霊性修行(サーダナ)のために用意された幻影(マーヤー)である。」と教えてきたはずです。
さらに、「神が見返りを求めずにされる遊戯(リーラー)は、再び神の下へ帰りつくための救済活動である。」と話しましたね。
そして、「それは、神の意志の現れの一部であり、自然法則の働きのひとつである。」とされ、
遊戯(リーラー)を霊性修行(サーダナ)のための手段であると教えてきたのではないですか?
異国の聖母は、このような質問をパスターに投げかけました。
その時の辺境の牧師は、「きっと、聖母様の言う通りなのだと思います。」と、答えるのが精一杯でした。
パスターは、異国の聖母の前に跪いて話しだします。
「聖母様、私はあなた様を見て、自分がとても恥ずかしく思えました。」
「私は心のどこかで、女性を軽視する思いがあったのだと思います。」
「それが、今、私の中で砕かれました。」
「私には、聖母様が輝いて見えるのです。」
「どうか私に、赦しと御導きを与えてください。」と、パスターは懇願しました。
異国の聖母は語りかけます。
牧師様は、誰に向かって礼拝をしたいと思うのですか?
まだ、『神はあなた方の中にいます。あなた方は神の中にいるのです。』という言葉の意味を理解されていないようですね。
人々は神を探しに外へ向かいますが、神はすべての人の中にあります。
あなた方のいない所に、神はいないのです。
けれども牧師様は、自我を通してそのことを理解しようとされています。
真我(アートマー)があるところに、どうして自我が存在し得るでしょうか?
「私のものと、あなたのもの」の領域に自我が存在します。
神は、あなた方の中に存在するからと言って、真我は、バラバラになってしまうものでしょうか?
「今まで、知識の上では、全ての存在が兄弟姉妹であると理解していたと思っています。」
「ですが、その思いが心の奥底まで届いていたかと言えば、嘘になります。」と、パスターは告白しました。
「牧師様が、全ての私たちは神を表現するための道具であり、手段であると思えるのでしたら、それで良いと思います。」
「それでは、次の話に移りたいと思います。」と、異国の聖母は答えました。