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セイエンと仏の教え


 「セイエンさん、今日はよろしくお願いいたします。」と、セシールが言いました。

 

 「今日は、お手柔らかに頼むよ。」と、マシューが言うと、

 

 「マシュー、それを決めるのは自分自身だぞ……。」と、セイエンは言って、

 

 「この町の人に、日頃、瞑想を通して精神統一をしていく指導をしているが、ここではそれを座禅と言って、仏教の修行方法の一つとなります。」

 

 「これから行なう座禅とは、姿勢を正して座り、呼吸を整え、精神を統一させることで自分と向き合うためのものです。」と、セイエンが答えました。

 

 しばらくの後、座禅を終えて、

 

 「二人とも慣れるまでは、足が痺れて動けないのは仕方がない。」と、セイエンは言いました。


 (ここからは、セイエンによって、マシューとセシールに語られた内容となります。)

 

 まず先に、二人に知ってもらいたいことから話そうと思う。

 

 この町には、キリストの教えを伝えるために、二つの教派が存在している。

 

 そして、私のように仏の教えを伝える者もいる。

 

 さらに辺境の地から、さまざまま信仰を持った異国の人たちがやって来て、この町で多くの者が寝泊りをし、交流も盛んだ。

 

 辺境の地を経由して、東からも、北からも、南からも、砂漠からも、人はやってくる。

 

 この町では私自身が異国人だが、ここの住人は、温かい心の持ち主が多く、みな寛容な態度で接してくれる。

 

 私が一番驚いたのは、宗教に対しても寛容で、私のような他宗教に対しても、敬意を持って接してくれたことだ。

 

 この町に来る前の多くの地域では、自分たちの信仰がいかに偉大で、どれだけ正しいのかを主張し、改宗することさえ求めてきた。

 

 しかし、この町の多くの住人たちには、「信仰とは、人の幸せのためにある」という強い信念が根底にあるのだ。

 

 だから私はこの町で、仏の教えを説いて、キリストの教えとは違う視点から、人々の幸せに貢献していきたいと願ったのである。

 

 この寺院で座禅を行っているのもその一つであるが、その他に、生者に限らず、死者に対しても幸せを願う心を育んだり、弱者や貧困者、避難民のために寺院を開放するなど、人のために私は何が出来るのだろうか?と、いつも模索している。

 

 だからこそ、信仰が人の幸せのためにあるのだとすれば、その信仰を巡って争いが起きることは、とても愚かだと感じてしまうのだ。


 これから話すことは、マシューとセシールの要望に、どこまで応えることが出来るかわからないが、私が学んできたことを話していきたい。

 

 仏教にもいろいろとあり、私が話す仏の教えは、その一つであることを承知してもらいたい。

 

 それでも、仏の教えであるならば、その本質は、「人間が生きるための真の道を求めること。あらゆる執着から離れること。慈悲の心を持つこと。」であると思っている。

 

 仏教とは、仏になるための教えであり、すべての人に、仏になる性質があると説いている。その性質のことを仏性という。

 

 最後の最後には、みな悟りをひらいて仏になるとの教えであり、仏になることを成仏という。

 

 全ての人とは、肌の色、年齢、性別、貧富、社会的地位などに対して関係なく、あらゆる全ての人ということだ。

 

 ただ、全ての人の中に仏性が存在していても、その仏性は深い眠りの中に落ちている状態だと言われている。

 

 また、その眠りの程度は、人それぞれで、とても深い眠りの人もいれば、比較的浅い眠りの人もいる。

 

 そして、仏陀とは、その眠りから目覚め、まだ眠っている人たちの仏性を目覚めさせるように働きかける人のことをいうのだ。

 

 つまり、仏とは、自ら目覚め、他を目覚めさせるものである。

 

 目覚めとは、悟りであり、悟りとは、真の幸せのことである。

 

 仏の教えとは、本当の幸せを実現し、他を幸せにするための教えである。と、私は学んできたのだ。


 次に、自利と利他について話そうと思う。

 

 自利とは、自らが悟りのために修行し、努力すること。

 利他とは、他の人の救済のために尽くすこと。

 

 辺境の地の牧師の話では、自利のための修行とは、死後の生活に備え、この地上生活でさまざまな体験を積み、潜在的な神性を開発していくことであり、利他とは、自分を犠牲にして、他人のために尽くすことであると言っていた。

 

 仏の教えにもいろいろと違いがあるのだが、私が学んだ教えは、大乗の教えである。

 

 大乗とは、広大・偉大の「大」、悟りの彼岸(向こう岸)へ到達させるための「乗」という意味がある。

 大乗の教えとは、自分を捨てて修行し、仏の境地に達することで、多くの人々を導き悟らせることによって救済していくための教えのことだ。

 

 つまり、多くの人々の幸せのためには、日々、この地上生活でさまざまな体験を積み、仏性を目覚めさせるための努力をし、自分を犠牲にして、他人のために尽くしていくことが必要であることを、私は仏の教えから学んできたのだ。

 

 これで少しは、私が学んできたことをわかってもらえただろうか?


 「セイエンさん、お話が聞けて良かったです。ありがとうございます。」

 

 「そういえば、これと似たような話を聞きました。霊的に目覚めること、霊性を向上させていくこと、人のために尽くしていくこと、それらのことが大切です。と、シスター・エリスは話されていました。」

 

 「私は、シスターが話されたことと、仏の教えが似ていることを、セイエンさんの話を聞いて感じました。」と、セシールは答えました。

 

 「僕も今日ここへ来る前に、エリスから言われたことがある。」

 

 「真理とは、私たちに内在している神の中で体験されなければ、ただ知っているというだけの知識になってしまうでしょう。」

 

 「神によって真理がもたらされるのでしたら、真理とは、神の一部である私たちの中にこそ、存在するのではないでしょうか?という話だったよ。」と、マシューが話しました。

 

 「真理は自分の中に存在し、それを体験していく……。」

 

 「シスターは、相変わらず興味深いことを話される。」

 

 「マシュー、それと、セシール、お茶にしようではないか?」と、セイエンは二人に声をかけるのでした。