シスター・エリスは、病気になった旅人の面倒を診るために、辺境の地に赴いていました。
病人の手当てを一通り終えると、さっきまで教会の傍で座っていた老人が、エリスの方に来て話しかけてきました。
「一緒に旅をしている友が大変世話になった。ありがとう、シスター。」と、その老人がお礼を述べました。
「老師様、どういたしまして。お連れの方は、長旅の疲れが出たのでしょうね。しばらく休めばきっと元気になると思います。」と、エリスは答えました。
「何かお返しをしたいと思っているのだが、あいにくと、お金はあまり持っていない。」
「その代わりに、物語のひとつを話そうと思うのだが、それで良いかなシスター。」と、老師が話しました。
「もちろん、ぜひ老師様のお話を聞かせて下さい。」と、エリスが答えました。
「それでは、梵天の一日という物語を話そう。」
「その前に、梵天という言葉は、根本原理を人格化した神という意味で使っている。その言葉を使うのは、わしが東の国で学んできたからだ。」
「しかし、ここの牧師たちは、わしが語る梵天のことをキリストと呼んでいるようだ。」
「さらに、牧師が語る言葉から、神という言葉で根本原理を教えているように伝わってくる。」
「だから、わしがここで神と言った時には、牧師にならって根本原理としての存在としておこう。」
「まず、シスターには、言葉の違いによる混乱を避けるために、先に説明をさせてもらった。」と老師が話すと、
「ええ、了解しましたわ、老師様。」とエリスは答えました。
「梵天の一日」
これから述べることは、たとえ話として聞いてもらいたい。
わしら人間にとっての一日とは、簡単に言えば、地球が一回転する時間を一日と呼んでいる。
その一日の中には、朝、昼、夕、夜と、さまざまな側面がある。
そして、地球が太陽の周りを一年かけてまわることを公転と言い、そこには、春、夏、秋、冬と、やはり、さまざまな側面がある。
ところで、月の公転と月の自転にかかる時間は一致しているので、月の一年は、月の一日でもあるのだ。
月はおよそ一か月かけて地球のまわりを一周しているので、月の一年は、わしら人間のおよそ一か月であり、月の一日もおよそ一か月であると言える。
次に、我々の太陽系に視点を移すことにする。
地球も含めた惑星は、衛星を従えながら自らも回転し、太陽のまわりを公転している。
では、太陽はどうであろうか?
わしが伝え聞いた話によれば、太陽には、対となる星があるという。そして、太陽は惑星を従えながら自らも回転し、その対の星のまわりをまわっているという。
その星のまわりを一周するのにかかる時間は、24000年である。
太陽系は、対の星を24000年かけてまわりながら、さらに天の川銀河の中心を公転しているという。
太陽系が、天の川銀河の中心を一周するのにかかる時間は、約2億4000万年前後とされる。ここでは、2億4000万年としておこう。
これから話すことは、太陽系全体を一つの人格的存在として考えた上で聞いてもらいたい。
太陽系が対の星を一周することを、「梵天の一日」と呼び、その一日は、人間の時間にして、24000年となる。
梵天の一日のうちの朝と昼を合わせて「梵天の昼」と呼び、夕と夜を合わせて「梵天の夜」と呼んでいる。
つまり、梵天の昼は、12000年となり、梵天の夜も、同じく12000年となるのだ。
梵天の昼は、上昇気流であり、梵天の夜とは、下降気流である。
これによって、一日の内に、さまざまな側面が現れるのだとしても、それは同じ一日であるのだ。
この梵天の一日の朝、昼、夕、夜を経験しながら、さらに天の川銀河を太陽系が公転することで、「梵天の一年」も経験しているのである。
それは、2億4000万年かけて、春、夏、秋、冬を経験することになるのだが、我々の太陽系は、まだ20歳を過ぎた頃でしかないのだ。
そう、梵天から見れば、太陽系は、やっと大人になったのだと言えるだろう。
星の回転とは、我々人間の霊的成長にたとえることができる。
地球の自転が、個々の人類の霊的成長にたとえるならば、地球の公転は、地球人類というグループでの霊的成長にたとえられる。
つまり、個々の霊的成長とともに、グループとしての霊的成長もされているのだ。
さらに視野を大きくすれば、太陽系の公転は、太陽系というグループの霊的成長にたとえることができる。
それが、天の川銀河へと広がり、きっと、さらに大きな存在へと広がって行くのであろう……。
わしには、全ての星々が、まるで偉大な神を中心としてまわっているかのように思える。
みなが神と呼んでいる存在は、それら宇宙の全てを含み、さらにそれ以上の存在なのだ。
この、宇宙を支配している時間と空間は、星々よりもさらに小さな存在のわしら人間にとっては、途方もなく偉大だ。
けれども、天の川銀河の梵天でさえ、24000年の時間も一日であり、2億4000万年であっても、一年でしかないのだ。
老師はここまで語ると、一呼吸をしてから、シスター・エリスにこう話しかけた。
「わしが語った人格神としての梵天より、はるかに偉大な存在である神が、シスターの信じる神なのであろう。」
「ここの牧師たちは、それをグレート・スピリット(偉大なる精神)と呼んでいる。」
「さらにここでは、アメリカインディアンが、Wakan Tanka(大いなる神秘) と呼んでいることを伝え、それは宇宙の根本原理であり、人格化されていない存在であることも伝えている。」
「もっとも、牧師たちがそう呼ぶのには理由があって、言葉に込められた概念に縛られたくないからだと言っていた。」
するとエリスは、「老師様、わたしにとっての今までの神は、私とともに揺れ動く人格神でした。」と、答えました。
「それでも良いのだ。」
「自惚れたり、高く見せようとするより、はるかに良いのだ。」と、老師は話し、
「わしが語った梵天であっても、昼と夜、あるいは、四季の経験を通して成長しているのだ。」
「そこでだ、シスター……。イエスが語った大切な教えがあるだろう。」と語りました。
「老師様、それは、神を愛し、隣人を愛することでしょうか。」と、エリスは聞きました。
「そうじゃ、この、宇宙を支配している時間と空間を超えるものが、イエスが説いた愛なのだ。」
「その愛こそが、それら時空を超えて存在し、たとえそれが死であっても、その愛をさえぎることは不可能なのだ。」と、老師は答えました。
「老師様、その愛を証明するために、私はこの能力を授かったのですね。」と、エリスが話すと、
「そうだよ、シスター。」と、老師が優しく答えました。