ベールの彼方の生活(一)抜粋


 ベールの彼方の生活(一)「天界の低地」篇

 

 三章 暗黒界から光明へ

 

 4 暗黒界からの霊の救出

 一九一三年十月十五日 水曜日
 自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在することを知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実味と愛と美を説明するとしたら、あなたなら何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊であることを得心させようとなさることでしょう。そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つことに気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとすることでしょう。何しろその世界は死というベールをくぐり抜けたあとに例外なく行き着くところであり、否応なしに暮さねばならないところだからです。
そこで私たちは、もしも地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上かぎりの果敢(はか)ないものではないことを理解してくれれば、私たちのように身をもって死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ちかまえていることを知った者からのメッセージを、一考の価値のあるものと認めてくれるものと思うのです。
 さて、その死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞(とどこお)りなく神の御国での仕事に勤しむことになるのは何でもないことのようで、実はただ事ではないのです。これまで私たちは地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での準備と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないという認識を得ております。多くの人間は死んでからのことは死んでからで良いと多寡をくくっておりますが、イザこちらへ来てみるとその考えが認識不足であったことに気づくのです。

──今お書きになっているのはどなたですか。

 あなたの母親と霊団のものです。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。またいつかお出でになるでしょう。霊団とともに通信に来られた時はお知らせしましょう。
 では話を続けましょう。〝橋〟と〝裂け目〟の話は致しました・・・・・・

──ええ、聞きました。それよりも、アーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからのことはどうなりました。ほかに面白いエピソードはもう無いのですか。

 いろいろと勉強になり、知人も増え、お話したことより遥かに多くのことを見学したということ以外には別に申し上げることはありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っていることがあります。あのコロニーでの話を続けてもいいですが、これも同じように為になる話です。
 〝裂け目〟と〝橋〟──例の話を思い出して下さい。(四一頁参照)。その橋──地上の橋と少し趣きが異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょう──が暗黒界から延びてきて光明界の高台へ掛かるあたりで目撃したエピソードをお話しましょう。
 私たちがそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は〝光〟の橋を渡ってくるのではなく、〝裂け目〟の恐怖の闇の中を這い上がって来るというのです。私たちにはもう一人、すぐ上の界から強力な天使様が付いて来てくださいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団のお一人でした。
 ──お名前を伺いたいのですが。

 ビーニ・・・・・・いけません。出てきません。あとにしましょう。書いているうちに思い出すかも知れません。
 到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っていることが判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ下りて行かれたことを知りました。それから少しすると谷底から上に向けて閃光が発せられ、それに呼応して〝橋〟にいくつか設けられている塔の一つから照明が照らされました。それはサーチライトに似てないこともありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・・・、私たちに付いて来られた天使様が私たちに〝しばらくここに居るように〟と言い残してその場を離れ、宙を飛んで素早く塔のてっぺんへ行かれました。
 次の瞬間その天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ下りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだったことが判明しました。
 ここで注釈が要りそうです。その照明は見え易くするためのものではありません(高級霊は自分の霊眼で見えますから)。その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用があるのです。最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時見張っている塔から照明が当てられたのも、そのための合図だったのです。私には判りませでしたが、その光線には生命とエネルギーが充満しており──これ以上うまい表現が出来ません──谷底で援助を必要としている霊のために発せられたわけです。
 やがて二人の天使が件(くだん)の女性霊を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常にお強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。あとで聞いたところによりますと、途中でその女性霊を取り返そうとする邪霊集団と遭遇したのだそうで、信号を送って援助を求めたのはその時でした。お二人はその女性霊を抱きかかえるようにして歩いて来ましたが、その女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が集結した話をしましたが、こんどの光景はある意味ではそれよりも厳粛さがありました。というのは、あの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、いま目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。三人はついに橋に辿り着き、そこで女性霊は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復したあと私たちに引き渡されたのでした。
 この話には私たちにとって新らしい教訓が幾つかあり、同時にそれまでは単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。その内の幾つかを挙げてみましょう。
 まず、女性霊を救出した二人の天使を見れば判るとおり、霊格の高い天使が苦しみを味わうことが無いかのように想像するのは間違いだということです。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷(や)られます。ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、且つ常に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いたことがありません。しかし彼らとの闘いは真実〝闘い〟なのです。しかも、たいへんなエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも疲労することがあるということです。しかし、その苦痛も疲労も厭(いと)わないのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂のために自分が苦しみを味わうことに喜びを感じるものなのです。
 また例の照明の光──エネルギーと活力の光線とでも言うべきかも知れません──の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害をこうむったはずです。あのように光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。
 さらにもう一つ。その光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえて来ました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けとお慈悲を求める声も混じっていたのです。それらが混ざり合ったものが至るところから聞こえて来るのです。私にはそれが理解できないので、あとで件の女性霊を待っている間にビーニックス Beanix ──こう綴るよりほかないように思えますのでこれで通します。綴ってみるとどうもしっくり来ないのですが──その方に何の叫び声でどこから来るのかお聞きしました。するとビーニックス様は、それはよくは知らないが霊界にはそうした叫びを全部記録する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとのことでした。叫びの一つ一つにその魂の善性又は邪悪性が込められており、それぞれに相応しいものを授かることになるわけです。
 件の女性をお預かりした時、私たちはまずは休養ということで、心の安まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへご案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。
 私たちはその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二、三の質問がありました。なんと、あの暗黒界に実に二十年以上も居たというのです。地上時代のことは断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させることは賢明ではないのです。現在から少しずつ遡って霊界での体験をひと通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係──原因と結果、タネ蒔きと収穫──を明確に認識しないといけないのです。

 今日はこの程度にしておきましょう。ではさようなら。
 神の祝福と安らぎを。アーメン。

  六章 見えざる宇宙の科学

 

 5 果てしなき生命の旅  
 一九三年十月二五日 土曜日


 今夜も、もしよろしければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。
 引き続き太陽に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。
と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なり合っているだけでなく、それぞれの天体の動きによる位置の移動───ある時は接近しある時は遠ざかるという変化に応じて霊界の相互関係も変化している。それ故、地球へ押し寄せる影響力は一秒たりとも同じではないと言っても過言ではありません。事実その通りなのです。
 また同じ地球上でもその影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。こうした条件を全て考慮しなければならないのです。何しろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休むことがないことを銘記して下さい。
 以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外面に過ぎません。ところが実は以上述べたことも宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴に過ぎない。船の舳先(へさき)に立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべていただきたい。細かいしぶきが霧状となって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て〝無数のしぶき〟と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海そのものはどう表現すべきか。キラキラ輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度に過ぎません。それも目に見える表面の話です。しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっている如く、宇宙も人間の目に映じる物的世界の奥に深い深い霊の世界が広がっているのです。
 もう少し話を進めてみましょう。そもそも〝宇宙〟という用語自体が、所詮表現できるはずのないものを表現するために便宜的に用いられているものです。従って明確な意味は持ち合わせません。地上のある詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして、中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それでよかったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかったことでしょう。
 一体宇宙とは何か。どこに境界があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心が無いことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。いや、その前に一体創造物とは何を指すのか。目に見える宇宙のことなのか。それとも目に見えない世界も含むのか。
 実際問題として、こうした所詮理解できないことをいくら詮索してみたところで何の役にも立ちません。もっとも、判らないながらもこうした問題を時おり探ってみるのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念した上で吾々は、理解できる範囲のことを述べてみたいと思います。
 これまで述べて来た霊的界層にはそれぞれの程度の応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界また一界と、低い界から高い界へ向けて進化して行く。そして、先に述べたように、そうやって向上して行くうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。さらに向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径を持つ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的・物的の区別なく、影響力を行使している。ご承知のとおり吾々はようやく惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化して来たところです。その先にはまだまだ荘厳にして驚異的な世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実なことは何一つ判らないという有様です。
 が、これで吾々が昨夜の通信の中で〝神〟のことを、何とお呼びすべきか判らぬ未知にして不可知の存在のように申し上げた、その真意がおぼろげながらも理解していただけるのではないかと思います。ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩(セイチツ)について何ら明確な観念はお有ちでない。〝万物の創造主のことである〟と簡単におっしゃるかも知れませんが、では〝万物〟とは一体何かということになります。
 さて少なくとも吾々の界層から観る限り次のことは確実に言えます。すなわち〝創造主〟という用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念を持って創造主に祈願することは間違っていない。その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界に至るものがある。中にはさらに上昇して高級神霊界へと至るものもある。吾々の界のはるか上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神を説いたあの主イエス・キリストである。(この問題に関しては第二巻以降で詳しく説かれる。──訳者)
 ところで、以上述べたことは全て真実ではあるが、その真実も、語りかける吾々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現が極めて不適切となるのです。例えば段階的に各界層を通過して上昇して行くと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、さらに次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしていることになります。ですが実際は吾々の念頭にある界層は〝地帯〟というよりは〝球体〟と表現した方がより正確です。なぜなら、繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、その界に存在するということは低い界の全てに存在するということでもあるからです。その意味で〝神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通じて働く〟という表現、つまり神の遍在性を説くことはあながち間違ってはいないのです。
 どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費やし過ぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を一つの小さなワイングラスに譬えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたブドウ酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。一つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であるということです。人生はその神々の世界へ向けて果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、完遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。かくして、これでおしまいという段階は決して来ない。向上すればするほど〝永遠〟あるいは〝終わりなき世界〟という言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷というものでしょう。失礼な言い分かも知れませんが。
 では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳を持つ者に語りかけることが出来るのは有難いことであり、楽しいことでもあります。どうか、死後に待ち受ける世界は決して黄昏に包まれた実体なき白日夢の世界ではないことを確信していただきたい。そしてそのことを聞く耳を持つ者に伝えていただきたい。断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次々と報われ成就される世界です。父なる神へ向けて不屈の意志を持って互いに手を取り合って向上へと励む世界です。その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を排することも出来ず、その玉座は余りに崇高なるが故に近づくことも出来ません。
 吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者のスソをその後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘していることを忘れないでいただきたい。まさに奮闘なのです。貴殿と、そして貴殿のもとに集まる人々と同じです。吾々が僅かでも先を行けば、つい遅れがちなる人も大勢おられることでしょう。どうかそういう方たちの手を貴殿がしっかりと握ってあげていただきたい──優しく握ってあげていただきたい。貴殿自身も同じ人間としての脆(モロ)さを抱えておられることを忘れてはなりません。そして、例えあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上へ向けて手を伸ばしていただきたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。ですから明るい視野を持ち、清らかな生活に徹することです。挫折するどころか、視野が燦然たる輝きを増すことでしょう。聖書にもあるではありませんか──心清き者は幸なり。神を見ればなり、と。(マタイ5・8)