祈りの効果


「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」という金言を、得るためには求めるだけでよいのだと解釈してしまっては不合理ですし、求めたものをすべて得ることが出来なかったと言って神を非難するのも不当です。
 なぜなら、神は私たちにとってなにがふさわしいのかを、私たちよりもよく知っているからです。それは、常識のある父親が、自分の子供にとって不利益となるものは断るのと同じことです。

 一般に人には現在しか目に入りません。しかし、もし苦しむことが、ある人にとって幸せな将来をもたらすのであれば、神は、外科医が病気を治すために手術を病人に受けさせるのと同じように、その人に苦労させるでしょう。
 
神を信じ、求めるのであれば、神は勇気、辛抱、甘受の気持ちを与えてくれます。さらに与えてくれるものは、善霊たちからの暗示から導き出される、苦労から解放されるための手段であり、後はそれを本人が実行すれば、その暗示の真価を知ることができます。
「あなた自身を助けなさい、そうすれば天があなたを助けてくれます」という金言のように、神は自分自身を助ける者を補助してくれるのです。自分の能力を使わず、なにもせずに他人任せの助けを求め、すべてを待つ者を助けるのではありません(→第25章 一とそれに続く項)。


、例をあげてみましょう。ある人が砂漠で迷っているとします。ひどく喉が渇き苦しんでいるとします。衰弱し、地面に倒れてしまうとします。その人は祈り、神の助けを求めますが、どんな天の使いも飲物を持って来てくれるわけではありません。
 しかし、善霊は、ある一定の方向へ向かって進むという考えを暗示します。すると本能的な衝動によって、その人は全身の力を込めて起き上がり、思いついた方向へ向かって進み出します。
 ある高台にたどり着き、遠くに小川が流れているのを発見して、それによって勇気を得るのです。信仰のある者であれば、「神様、よい考えを私にひらめかせてくれて、ありがとうございました」と言うでしょう。

 神を信じないものであれば「私は何と素晴らしい考えを持っていたのだろう。左を選ばず、右の道を選び、私はなんと運が良かったのだろう。思いつきも実際役に立つものだ。倒れてしまわなかった自分の勇気がうれしい」と言うでしょう。

 では、なぜ善霊ははっきりと、「この道を進みなさい、そうすればあなたの必要としているものが見つかります」と言わなかったのかと言う疑問が残ります。

 なぜ、その人が衰弱していた時、その人を導き助けるために、その善霊は姿を現さなかったのでしょうか。そうしていれば、神による干渉というものを理解させることができていたはずです。

 それはまず、自分自身の力で自分を助けなければいけないということを教えるためです。次にはっきりと示さないことによって、その人の信心を試し、その人の意志に従うためです。
 神はその人を、転んだ時、誰かが見ていれば泣き叫んで起こしてもらうのを待ち、誰も見ていなければ自分で努力して立ち上がる子どものような状況に置いたのです。

 もし※トビアスの旅の供をして彼を守っていた天の使いが、「あなたを旅の間守り、全ての危険から保護するよう、神によって送られてきました」と旅の出発前に言っていたとすれば、トビアスにとってなんの価値もなかったでしょう。だから、その天の使いは旅から戻って来た後に初めてその存在を現したのです ※父トビトの目の病(盲目)を治す方法を得るために大天使ラファエルと共に旅立った息子の名)