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痛い思いと自覚の無さ

 今回のブログで、私の反省とともに2月の読書会で語ったことを含めて、報告したいと思います。

 2月の読書会のテーマは、”シルバーバーチは語る 15章 交霊界についての誤解” 及び ”16章 睡眠中は何をしているのか”(スピリチュアリズム普及会発行)でした。そして、"睡眠中の夢について"をテーマにして、みなさんと語り合いました。

 私は、2月の読書会を開催する1週間前に、転倒をして右目をぶつける等の怪我をして、とても痛い思いをしました。しかも、仕事上の付き合いとはいえ、禁酒を破ってアルコールを飲みすぎたことによる転倒でした。

 もしも弁解が許されるなら、自分なりに相手のことを思ってのことでしたが、それならば、アルコールを飲まないで付き合えばよかったのですけれども……。その時は、そう思えませんでした。

 お酒について言うと、医者の診断では、アルコール依存症ではないと言われましたが、アルコールによって、何らかの問題を起こしてしまう体質であることを感じていました。亡くなった父もそのようでしたから。

 さらに、ごく稀でしたが、自分がお酒を飲んでいるというよりも、私を通して、何者かが飲んでいるのではないのか?という感覚もありました。

 そもそも私は今まで、お酒が美味しいと思って飲んだことはありませんでした。自分でも、現実から逃避するための手段として飲んでいるのではないのかと感じていましたし、酒の場に出て、自分が酔っぱらうことで、人間関係の煩(わずら)わらしさを考えないようにもしていました。

 現実が辛ければ辛いほど、嫌になれば嫌になるほど、一度にアルコールを飲む量が増えてしまうので、それだけトラブルが起こる可能性が高まるのは、当然といえば当然です。

 知らずに犯す罪と知って犯す罪

 先月、怪我をする前の1月18日に、自分のノートに「アルコールについては、禁酒をしなければいけません。それをのりこえた後は、自分の中にある、わだかまり、不信、非難の思いを克服し、あたたかさや調和の思いを持てるように努力していかなければなりません」というようなことが書かれていました。

 そして、「自分の問題を一つ解決していくと、次に何をするべきかがわかるのは、私以外の存在である、守護霊などが教えてくれているからでしょう」と続きます。(※ここで言うところの守護霊などは、シルバーバーチの霊訓で言うところの「大きな自分からの霊感や導き」であるのかもしれません。)

 最後に、「人の中にある悪習(未熟さ)と言われるものから、人を救うために苦痛があるのです」と締めくくっています。

 ちょうどその頃、何故か私の脳裏に、目の腫れた女性の姿が何度も何度も浮かびました。さらに、たまたま見た動画に映っていた地縛霊の女性の映像。そして、怪我をする当日の昼には、今日の飲み会によって、飲みに参加した男性が、転倒をして怪我をするという映像まで浮かんできました。

 私は、「禁酒をしなければならない……。今日の飲み会を中止にした方が良い。」というような思いが芽生えたのですが、「今回と2月2日の飲み会だけは、前から予定していたことだから、しょうがない」と軽く考えて、せっかくの忠告を無視してしまいました。結果は、冒頭に書いた通りです。

 

 ただ単に、自分の不注意によって怪我をしたのならば、大怪我にならなかったことを感謝していたと思います。私にとっては、怪我による肉体的な苦痛よりも、精神的な苦痛の方がはるかに大きく耐え難いものでした。もっとも、みなさんに右目が腫れた顔をさらすだけでも、とても恥ずかしいことでしたが……。

 やっぱり偶然は、ないのですね。

 2月の読書会の準備をするため、1月下旬に、”シルバー・バーチ霊言集 二十一世紀のためのバイブル”(桑原啓善訳 でくのぼう出版発行)の「第十一章 睡眠中の出来事」の方も読んでいました。

 

 後で気が付いたことですが、[二六七](問)では、ある人が憑依される場合、憑依した霊魂は、憑依された人の霊魂の許可をうけているということですか。

 

 という所に、しおりが挟んでありました。ここを読んでいても、自分で痛い思いをするまで、私は、シルバーバーチが伝えたかったことが、まるでわからなかったということになります。

 

(答)いや、そうではない。だが、憑依された人物は、憑依されるだけの条件を自分で作りだしているのであって、憑依とは全く本人の問題だ。たとえば、もし人が愛や奉仕の強い希望をもてば、これを助けてくれる高級な霊魂をひき寄せる。憑依にもこれと全く同じ法則が働いているのである。

 この法は善いことのためにだけ働くのではなく、反対の悪いことの場合にも同じように働く。最高の奉仕に際して働く法はすべて、また悪用されることもできる。つまり人は上り得る高さのほど、また低く墜ちることも出来るものであるから。人は墜ち得る低さの限り、また高所へと上ることも出来る。その法は同じだ。人がどちらを選ぶか、道はそこにかかっている。

 反省の後で

 怪我をした翌日、隠れるように布団の中で過ごし、スマートフォンを眺めていると、怪我をしていない左目の前にスクリーンが現れました。スクリーンには、色鮮やかなグリーンをした、風に揺られている草原が写りました。不思議なことに、部屋の様子はそのまま映っていながら、スクリーンを見ることが出来ました。

 ああ、これが霊視か透視と言われるものなのだと感じました。念のため、もう一度意識してみたら出来たのですが、この能力を持つことが出来れば便利だろうけど、それよりも自分の未熟さを少しでも改善したほうが、はるかに、何十倍も良いだろうと思って拒否しました。

 そもそも、私は霊媒体質と言われるような体質であり、しかも数年前、霊視能力者を通じて、霊界側より禁酒をするようにアドバイスを受けたこともあります。また、読書会を開催以降、読書会をやり通すためにも禁酒は必要なことだと、直接、霊界側から何度も思いを伝えられてきました。

 しかし私は、事あるごとに自分の予定を優先させて、霊界側の意向を軽く扱ってきてしまいました。自分の未熟さについては、ある程度仕方がないと思いつつ、シルバーバーチ読書会の開催者としての自覚の無さを、今さらながら実感しつつ反省をしている所です。

 睡眠中に見た夢

 2月の読書会が始まる前日に夢を見ました。きっと今回の夢は、自分の人生と自分に対して嫌になりつつあったために見させてくれたのだと思います。

 

 その夢とは、ある程度の広さを持った部屋に、ようやくハイハイが出来るようになった幼子と、とても大きな男の子がいました。やがて大きな男の子は、しっかりとした足取りで部屋の扉を開けて、外へ出て行きました。

 それを見ていた幼子は、同じように自分も立ち上がって歩き、部屋の外へ行きたいと思いました。そこで扉の前まで這っていき、壁につかまって、何とか立ち上がろうとしました。しかし、もう少しで立てるという所で、背中から倒れてしまい、もとの場所まで転げ落ちてしまいました。

 そして今度は、私が部屋の上から全体を見まわし、部屋から幼子が出ていけるように、手助けをすることになりました。また同時に、直接、手を出して、幼子を助けることも出来ると伝えられました。

 

 結局、その幼子に対しては、直接手を出さずに見守ることにしました。そして私は、先に部屋を出た男の子に、幼子のことを気にかけて欲しいということだけを伝えました。それしか、幼子のために出来なかったことと、私が代わりにやってあげては、本人のためにならないと感じたからです。

 結論から言えば、その幼子とは私自身であり、見守ることしか出来なかったというわけです。そして、扉を開けて部屋を出るという意味は、次のステージ、つまり、今より一段高い場所へ行くということのようでした。そのために私は、自分でどうしていけば良いのかを、自分なりに理解する必要があったのだと思います。

 

 そういえば、今まで、芋虫人間の夢、泥人間の夢などを通して、私にいろいろと教えてくれていました。

 芋虫人間の夢の世界では、手と足が退化して芋虫の様になってしまい、夫婦らしき二人が横になりながら、食べることだけが楽しみになっているようでした。

 そして、泥人間の夢の世界では、自分より弱い立場の者に対して、自分の感情を抑えることが出来ずに、たとえ大切な人であっても、怒りや憎しみ、悲しみなどをぶつけてしまい、どこかで罪悪感を感じながらも止めることの出来ない状態でした。人だけではなく、家も川も何もかもが泥で出来ているのに、それでもはっきりと見分けがつくのが、とてもとても悲しかったです。

    これらの夢を見て、私はどう伝えたら良いのかわかりませんが、ここで見た夢の世界には行きたくありません。私の生活が、そのようになっていないか、考えさせられました。

 最後に

 このようなブログを書いている私は、霊界の存在を信じない方にすれば、妄想に囚われたどうしようもない存在にうつるかもしれませんね(笑)

    改めてブログを読み直したのですが、今回、なんだかまとまりのない話になってしまいました。きっと私の中に、今も様々な葛藤があるからだと思います。

   私は今から約15年前に、二人の息子を育てるシングルファザーとなったせいか、仲の良いパートナーの方たちや、家族そろって、楽しそうに出かけている方たちを見かけては、言葉には出せない複雑な思いにかられてきました。

    また、みんなで楽しそうにお酒を飲める方たちを見ると、自分もそうだったらいいのにな~という気持ちになることもありました。

   ( 世界には、今日一日、何も食べる事が出来なくて、肉体的にも精神的にも、もっと苦しんでいる人々がいるのに、ここで弱音を吐いている場合ではないですよね。)

 今まで、数々の失敗を繰り返してきたわけですが、改めて振り返ってみると、私にとって、苦しみとは、罰のためというよりも、魂を救うために存在してきたのではないのか?と、今では感じるようになりました。

     これからは失敗をしても、自分の悪い所だけを見て、必要以上に責めるのを止め、良い所も同じように見ていこうと思っています。

 そう感じながら、痛い目に遭わないとわからない私を、どうにかして、これから改善していきたいとも思っています。そして今後は、少しでも成長出来れば嬉しいです。(痛い目に遭うのは、本当に嫌ですから……。)


 26日5月2019年

   あの時の怪我以来、不思議なことに、飲酒要求が無くなってしまいました。今では、アルコールを飲むという行為が、不思議に感じるくらいです。そして、機会はかなり減りましたが、どうしても参加しなければならない、お酒の付き合いの場であっても、お酒が飲めない体質であることを理解してもらって、お茶などを飲んで対応しています。

    私が経験したように、世界中で多くの人たちが、何かをきっかけとして、「飲酒要求そのものが取り払われてしまった」という経験をされているようです。目には見えませんが、とても大きな霊的な力が働いているように、私は感じました。本当にありがたいことですね。