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霊的真理を学ぶ1

 今回、ここで取り扱うテーマは、「再生」の問題です。つまり、「生まれ変わり」はあるのか?ないのか?ということです。

 再生については、宗教などによっても様々に扱われているようです。再生があると信じている人がいる一方で、再生そのものを否定する人もいると思われます。

    それは、死後の世界の存在を信じている人であってもそうだと思われますし、そもそも死んだら終わりだという考えの強い人は、当然のことだと思われます。

 そもそも私がスピリチュアリズムに出会う前までは、「生まれ変わりは存在しないのではないのか?」「過去世の記憶と言われていることも、霊に憑依された現象ではないのか?」と、再生については否定的でした。

 けれども、「シルバーバーチの霊訓」から、再生の問題を含めて学んでいくうちに、再生について理解を深め、それとともに、心から神を信じられるようになりました。今回、「再生」をテーマにしたいきさつは、そのような経過があるからです。

 

 それでは、アラン・カルデック著「スピリティズムの福音」から、再生を否定した場合、どのようなことが考えられるかを学んでいきたいと思います。

 「スピリティズムの福音 第4章 生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」より

『二十一、今度は再生を否定する教義がどういう結果をもたらすかを見てみましょう。その教義とは必然的に魂の既存性を否定します。魂は肉体と同時に創造されることになり、魂同士の間にはいかなる既存の関係もなく、従って、魂同士は全く見知らぬ者同士ということになります。

 子どもにとって父親は親しみのない存在となります。親子関係は、いかなる霊的な関係でもなく、ただの肉体的な親子関係だけに限られてしまいます。そして先祖がどうであったとか、どんなに素晴らしい人であったからと言って光栄に思うことは全くなくなってしまいます。
 再生の考えにおいては、先祖も子孫も、すでに知り合った者同士で、以前ともに生活し、愛し合った可能性があり、また、その先に置いてもお互いの好感の絆をより強めるために集まることができるのです。

二十二、以上のことは過去についてのことです。再生のない考え方から生まれた基本的な教義によれば、未来については、魂はたった一度の人生の後、全く悔い改めようのない運命を定められてしまうことになっています。決定的な運命の定めはあらゆる進歩を止めることになります。
 なぜなら、幾らかでも進歩があるならば、決定的な運命ではないことになるからです。善く生きたか悪く生きたかによって、魂たちは直ちに至福のすみかか、永遠の地獄へ行くことになります。

 直ちに、そして永遠にそうなることによって、霊たちは離れ離れとなり、再び出合う希望も奪われ、父母と子、夫婦、兄弟や友人同士であっても、決して再会を確信することはできなくなります。そこには家族の絆の絶対的な切断が起こります。

 再生とそこに見られる進歩によってこそ、愛し合うものはみな地球上でも宇宙においてでも出会うようになり、ともに神に向かって引かれて行くことになるのです。誰かが途上で衰えてしまえば、その人は進歩と幸福を遅らせることになりますが、全ての希望を失うことではないのです。
 その人を愛する者たちによって助けられ、勇気づけられ、守られることによって、いつの日か埋もれたぬかるみから抜け出すことになります。再生によってのみ、永遠の連帯が生者と死者の間に存在することになり、そのことから愛情の絆が強まることになるのです。
        ―以上、「スピリティズムの福音 第4章」より一部抜粋―

 

 スピリティズムの福音からは、もしも再生がなければ、愛の絆も断ち切られてしまうことになるということでした。みなさんは、どう思われたでしょうか?また、再生を否定するということは、進歩そのものを否定することにもなるそうです。

 

 それでは次に、再生そのものについて、シルバーバーチの教えから学んでいきたいと思います。

 「シルバーバーチの霊訓(十)七章  再生問題を語る」より


 『私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティというのがあり、それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりもはるかに大きなものであるということが理解できるようでなければ、この問題は扱えません。


 そのパーソナリティとインディビジュアリティとを混同している方が多いようです。一個のインディビジュアリティがいくつもの分霊を出して地上に沢山のパーソナリティを持つことが出来ます。


 インディビジュアリティの物的表現、ないしは顕現です。数は沢山ですが、同じインディビジュアリティから出ているのです。


 パーソナリティというのは仮面を意味するラテン語のパーソナ(※persona)から来た言葉で、物的身体にまつわるものを意味します。(※パーソナリティとは、)インディビジュアリティ(※大きな本当の私)が五つの物的感覚を通して自我を表現するための道具であり、氷山に例えれば水面上に出ているほんの一部に過ぎません。


 パーソナリティは地上でつけているマスク(※仮面)です。インディビジュアリティ、つまり本当の自我はめったに顔を出しません。(五感に邪魔されて)出そうにも出せないのです。死によって肉体から分離した時に自覚される大きな自我に比べると実にお粗末なものしか表現しておりません。


 このようにインディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはインディビジュアリティによって投影された影にすぎません。


 そのインディビジュアリティが、肉体の死後、地上で発揮されなかった潜在的可能性を少しずつ発揮していきます。


 地上での特別な使命が託されている場合はインディビジュアリティの比較的大きい部分―多くの側面─がまとまって一個の肉体に宿ります。この場合にもダイヤモンドの光沢を増すための体験を積むという目的も兼ねているのです。(※使命を達成するために地上に生まれてきたとしても、霊性向上のために体験を積んでいくという目的もあるということでしょう)


 二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。地上でそういう関係の人と一諸になれた時は、物的な富では測れない豊かさがもたらされます。アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。こう申し上げても理解できないでしょうが、こうした霊的な問題は言語による説明がとても難しいのです。


 一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生を受けます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。


 ~それゆえ、あなた方は霊をたずさえた魂であり、それが肉体を通して自我を表現しているのです。パーソナリティというのはその肉体を携えた地上生活において表現されている側面のことでしかありません。それは本当の自我であるインディビジュアリティのごく小さな一部にすぎません。肉体に包まれているために存分に自我を発揮できないのです。


 ――ある書物に、われわれは同時に二つの場所に生まれ出ることができると書いてありました。事実でしょうか。


 私は、真の自我であるダイヤモンドには無数の側面があり、それがさまざまな体験を持ち帰ってダイヤモンドの光沢を増す、という考えです。ダイヤモンド全体が一度に生まれてくることはありません。いかなる身体もインディビジュアリティのすべてを宿すことは不可能だからです。


 パーソナリティとインディビジュアリティの違いを理解しないといけません。パーソナリティというのは物的身体を通して顕現した地上だけの人物像です。インディビジュアリティというのは魂の全体像です。その全体像を地上で七〇年や八〇年、あるいは九〇年の間に発揮することは到底不可能です。


 〝われわれ〟とおっしゃった同じダイヤモンドの仲間の別の側面が同時に地上へ誕生することは有り得ることです。が、すべては法則と秩序によって規制されております。その時期が来るまでは余計な心配はなさらぬことです。(※パーソナリティとしてなら、同時に二つの場所に生まれ出る可能性があるということでしょう)


 もう一度生まれ変わりたいという願望を持つようになる人がいます。奉仕的活動をしたいという場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な〝借金〟が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。
 二度、三度と繰り返すこともあります。が、いずれの場合も再生してくるのは真の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。


 再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰鬱な世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。


 ──霊界へ行ってからでもカルマを清算することが出来るのでしょうか。


 無論です。それが普通です。


 ――ではなぜ地上へ戻って来るのでしょうか。


 地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画があるのです。


 ──私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね!


 選択の自由は与えられています。が、忘れないでいただきたいのは、その自由意志も相対的なものであることです。やりたくてもできないことがあり、また、どうしても選べないコースというのがあります。最終的にはあなたがそれまでに到達した霊的進化の程度が、次に取るべき手段を決定づけるからです。』 

  ― 以上、「シルバーバーチの霊訓(十)七章  再生問題を語る」より 一部抜粋、※は加筆 ―

 

 上記に記した「シルバーバーチの霊訓」から、私たちが地上に生まれる目的として、霊性を向上させるための体験を積むことだけではなく、(再生によって)過去世で作った霊的な負債を払うという一面もあるということを学びました。さらに、地上のために何らかの貢献をする(使命の)ために、再生を選ぶ人もいるそうです。

 

 そして、シルバーバーチは、「一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生を受けます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。」と言われています。となると、霊界に戻っても、パーソナリティそのものが、消えて無くなってしまうわけではないようです。

 

 そうなると、生まれ変わりがあるとしても、「今生きている地上での私は、過去世の私であって私ではなく、けれどもやっぱり私なのです。」というような感じになってしまいますね。

 難しいですね。みなさんは、どう感じたでしょうか?それでは、ここまでにしたいと思います。