死は第二の誕生

 これは、シルバー・バーチの霊訓(五)第二章で タイトルにもなっています。

 

 シルバーバーチは、”死”にたいして、悲しむ出来事ではなく、喜ぶべき出来事であると説いています。これは、日頃から霊的知識を学んでいる人にとっては、当たり前のことであっても、そうでない人にとっては、受け入れがたいことのようです。

 

 例をだすと、今から20年以上前の話になりますが、職場との関係で、労働組合とかかわらなければならないのですが、当時は、労働組合を指導されている方の中に、唯物論の方も多く、人は死んだら終わりだと本気で思っているようでした。

 そして、唯物論を学んでいる方の中には、「宗教は、アヘンだ」と言ってる人もいました。宗教にすがるような人は、弱い人間だとして、そのような人たちを軽蔑していた人もいました。

 

 (もちろん、そういう方ばかりではなく、労働組合の指導者を育ててきた方は、宗教によって引き起こされた悲劇を顧みて、「自分たち(人間たち)の問題を神に押し付けるのは間違いである。」という信念のもとで行動されていました。そして、自分は「労働者としてどう生きるのか?」と常に問い、人の役に立つことが大切であると、よく話されていました。)

 

 そのような「死んだら無になる」という考えの人は、重い病気にかかると、あらゆる手を尽くして生きのびようとするようです。本人にとっては、自分の存在が消えてしまうのですから、その闘病生活は、凄惨をきわめたそうです。

 

 私の知っている唯物論の二人の方は、50歳を過ぎたあたりから癌にかかりました。そして、生きる望みが立たれた後は、お見舞いをする人たちがためらうほどの苦しみようでした。

  何故なら、そのような方が神にすがることは、自分で自分を否定することになってしまいます。そして、もしも神を認めるならば、その方にとっては、人生の敗北を意味しているのです。故に、死に対する恐怖は、相当なものだと思われます。

 

 余談ですが、そのようなガチガチ唯物論者の先輩方についていけず、「私は、神も霊界の存在も信じています。霊はいるんです。」と反論しました。まぁ、とうぜん、先輩たちはがっかりしましたし、ある先輩なんかは、本気で、私の頭の中身を心配してくれました。

 

 私にとっては、霊界の存在を信じられない人が、不思議でしょうがないのですが、反対に、先輩方のような人からみれば、私の方がおかしいと思うのでしょうね。

 

 「人間も神の一部であるが故に永遠の霊的存在である」と、いうことを受け入れることが出来るのか?出来ないのか?によって、霊界での居住地も変わるでしょうし、この地上での生き方も違ってくるはずです。そういうふうに、たとえ自覚はないとしても、この地上生活中に私たちは、すでに霊界への進路を決めているだと言えるのです。