第三章 夢幻界(後編)


平凡人の境涯

 肉体に包まれて現世の旅をつづける男女は、言わば大地と大空との中間に懸けられた階段を昇りつつあるようなものである。

 彼等は二つの神秘――『生』と『死』との中間に彷徨っている。下方をのぞくのも気味悪いが、上方を仰ぐのもまた眼がくらむ。

 で、通例は自己の踏みつつある足場にのみ注意を払って、踏み外さぬ用心に一生懸命である。従って彼等の中に最も優れたものでさへ、その眼界は通例極めて狭く、五七十年の人生の行路の前と後とに擴(ひろ)がれる地域については、殆ど何等考慮を費す(ため)の余裕をもっていない。

 

 死の関門を通過した無数の霊魂達とてもまた同様である。むろん彼等に取って人生の意義は遙かに高まり、且つ大規模になっている。

 が、旧態依然、彼等も尚お神秘と神秘との中間に懸っている。従って霊界の通信の多くは、単にその人の置かれたる身辺の実況の描写たるにとどまり、深く人生を指導すべき、深みも鋭さも具えていないのを通例とする。

 

 試みに私が一弁護士の傭書記の地位に自信を置いて、死後の世界の描写を試みたと仮定する。法律書記であるから、法律書記であるから、法律事務以外の事は殆ど何事も知らない。

 従ってよし彼が他界に目が覚めたところで、その報告をする所は、結局現在の俗務のつづき、若(も)しくはその複写以外であることはできない。

 何となれば彼の心の眼には、それ丈の感受性しか具えていないからである。無論長年月を閲(けみ)する暁には、この人物にも霊的意識が開けて来るが、私の知れる限り、この種の人物は通例地上に向って通信を送ろうとはせぬものである。

 彼は自分自身の心の貧しさをよく自覚して居る。彼には到底霊媒から借りた地上の用語を以て、死後の世界の驚嘆すべき状況を描写すべき力量がない。

 従ってこの種の人物は永久に沈黙を守り、死の黒幕に彼方からのくしび(霊妙)な響き――神の無限の想像の中に秘められたる内面の世界の音信(おとづれ)――をば少しも漏さぬことになるのである。

 

 右の如き人物は、実に他の無数の平凡人の代表者である。彼は自己の特殊の業務の遂行には、少しも差支なき俗人の典型で、人生の究極の目的が何であるかは、只の一度も考えて見る余暇もなければ又能力もない。

 目隠しされて目的地点に走る駄馬と同様に、彼の一生は揺籃(ようらん……ゆりかご)から墓場へと、ただ一筋に走ったまでである。

 その生涯は単調そのもので、何等目星しき出来事もなく、月並極まる喜怒哀楽の繰り返しに過ぎない。が、研究題目として、そう言った人物の他界に於ける生活こそ大切であると思う。何となればこの種の人物が、人類の大部分を占めるからである。

 

 所で、ここに疑問が起る。この種の人物は死後一転瞬にして、偉大高邁(こうまい)なる大預言者になるか?それとも人間の所謂(いわゆる)進化の法則に従って、一歩一歩向上の途(みち)を辿るか?

 

 若(も)しも彼氏が死によって一躍大預言者、又は大天才に早替わりしたとすれば、それは全然別人格であって、元の彼氏ではない訳であるから、死後の生存ということは成立せぬことになる。

 矢張り彼氏は彼氏として、牛の歩みののろのろした進化の道程を踏み行くのが当然であり、又事実でもある。

 死後の世界についての彼氏の見解は元のまま狭く、又その好きも嫌いも元の通りの特色を帯びて居る。之を一言にして書せば、彼氏は死んでも矢張り生前の彼氏なのである。

 この種の人物に向って、高尚にして霊的な生活を望むのは、そもそも無理な注文である。彼氏は精神的にはまだ襁褓(おしめ)に包まれた幼児である。

 従って死後の世界でこの種の人物を取り扱うのは、恰度(ちょうど)現世で赤ん坊を取扱うのに酷似して居る。成るべく強い風にも当てないで、大事に看護介抱を加えてやると言った塩梅なのである。

 

 死後彼等は先ず過去の記憶の快き夢に浸(つか)るのを常とする。それが究極の目的でも何でもない。そうした期間に、次第に前進向上の英気と能力とを培養されるのである。

 無論優れた霊魂――教会人は之を天使等と呼ぶが、私からいえば単に賢い魂(みたま)に過ぎない――はそういった下らない夢幻境に置かるるようなことはない。

 彼は稀薄精妙なるエーテル体に包まれて、広大無辺なる空間を縦横自在にかけまわり、驚くべく活発な生活を営むのである。

 が、普通平凡の霊魂達が、そうした境涯に置かれたら、一度に眼が眩んで気絶してしまう。

 

 かくいう私などは、ほんの少しばかり普通よりも進歩した境涯に置かれているので平(なみの)生死の関門のところに控えて新来者の見張り役、案内役をつとめることになっている。

 途中二三の準備的境地を経て、やがてわれわれが新来者を案内するのは、きまり切って夢の国、記憶の国である。

 何人にも自分自身の中に、その地上生活の全部を回想し得る能力が備わっている。そして彼の渇望するのは日頃親しめる環境であって、決して現世離れのした瑠璃の台閣(うてな……楼閣)や、金銀の調度でも何でもない。

 平常見慣れた地上の山河――それが懐かしくて仕方がない。無論そんなものが実際的には幽界に存在しない。が、本人が望めば、それ等の幻影は自由自在に出来上る。

 

 それなら何人(どのような人)がそう言った幻影を造ってくれるのか。外でもない、それは優れた霊界居住者達の役目である。彼等は容易に、新来者が日頃地上で親しめる光景を具象化する能力をもっている。

 その原本はもちろん新来の霊魂達の記憶の中に見出される。が、単に原本の複写にとどめるというような、ヘタな真似は決してしない。

 或る程度までこれを理想化し、日頃地上で見慣れた光景に似てはいるが、しかしそれよりも遙かに美しい景色を造り、その中に新来者を置くのである。

 夢の国、記憶の国は決して実在の世界ではない。が、新来者自身に取って、それは立派な実在境に相違ない。ここで彼は日頃愛せる親戚故旧(こきゅう……古いなじみ)とも会合して、情話を交うることにもなるのである。

 前にものべた通り、この夢の国、記憶の国こそ、実に平凡人の為めに設けられた一つの保育場である。

 弱々しい植物の若芽を育てる為めの温床であり、そしてその園丁(庭師)の役目をつとめるのが、取りも直さず優れた霊魂界居住者――先達連(先にその道に通暁して、他を導く人)なのである。

 

 夢の国、記憶の国はかく大体に於て地上生活の複写ではあるが、しかし又地上生活と相違した箇所(ところ)もある。就中顕著なのは業務の相違である。ここには地上生活に於けるが如き機械的の業務がない。

 地上生活にあっては人間は肉体の奴隷であり、従って『暗』の奴隷であった。ところがここでは、食物並(ならび)にその相當物件である所の金銭の要求が全然ない。

 ここでは食物に相当する無形の栄養物が、無尽蔵に存在している。これでは何人(なんぴと)も『光』の従僕たらざるを得ない。

 換言すれば生計の為めにあくせくしないで、極めてのんびりした気分で、恣(ほしいいまま)に心の糧を貪(むさぼ)ることができるのである。

 

 地上生活で一番恐ろしかったのは飢(うえ)であった。ところが、その飢の心配が失せたというのは、何んと素晴らしい特徴ではあるまいか!

 

 が、食物以外にも、まだまだ考えねばならぬ大切な要件がある。飢の次に来るのが『性』の問題である。この性の要求までが、果して肉体の崩壊と同時に消失したか?

 

 之に対する私の答えは大体に於て『ノー』である。性欲は決して肉体と共に消失はしない。が、その発展の様式が変わっている。これはこの過渡期に於て解決を要する最大の要件の一つである。

 

 性的欲望にもいろいろ種類があり、従って一般にも言われないが、ここに一例として、試みに地上生活中に淫蕩な(みだらな享楽にふける)性的経歴を有する男(又は女)の場合を挙げることにする。

 

 すべて肉体を失った者の心の働きは、一層先鋭化するを常とするので、従って死後の淫蕩心は、生時よりも一層強烈である。

 そして淫蕩心は淫蕩心を呼ぶことが、地上よりは遙かに自由な為めに、ここに性的楽園ともいうべきものが出現する。

 記憶の及ぶ限り、想像の及ぶ限りの淫蕩な相手が無数に集まって、痴態の限りを尽すことができるのである。

 地上とは異なって金銭も要らない、努力も要らない、警戒も要らない、又外見(みえ)や外聞の顧慮(気遣い)も要らないのである。

 

 それがあまりにも容易であり、安価であり、又豊富でもあるので、ここに必然的に襲来するのが恐ろしき飽満感である。飽満の極(きわみ)はきまり切って嫌悪となる。

 いかなるその道の猛者でも、最後には必ずウンザリする。努力の伴わぬ満足には決して永続性がない。

 ところが、ここに甚だ困るのは、厭で厭で耐(たえ)らぬ淫蕩の相手が、容易に離れようとしないことである。糯(もち)にかかった小鳥のように、もがけばもがくほどますます粘着する。

 

 そんな次第で、『夢幻界』の最終の状態は、ダンテのいわゆる煉獄的境涯である。凡(およ)そ天下に何が苦痛だと言っても、飽満の苦痛ほど深刻なのはない。不満足も苦痛であるが満足の苦痛は更にそれ以上である。

 

 勿論これはホンの一例に過ぎぬ。すべてを律する一つの通則というべきものはなく何人も『冥府』及び『夢幻界』に於て、それぞれ異なった方式の試練に逢うのである。で、中にはその欲望を満足すべき何等の機会を与えられないものもある。

 例えば冷酷にして利己的な人物の中には、往々暗くさびしい所に縮まり込み、欲望満足の快夢に耽ることを許されないでいるのを見出す。

 つまり死の打撃が、一層彼を内へ内へと追い込んだのである。『万事休す』――彼は死の瞬間にそう思い込んでしまった。従って彼は外界との一切の接触を失ってしまった。

 こんな人物はその陰惨な損失の観念が抜けない限り、いつまでも暗黒の夢魔の中から脱出し得ないであろう。

 

 とにかく大概の人の魂は、しばらくは夢幻の状態に生活をするを常とする。人類の大多数はその死に際して、物質が実在であるという観念にあまりにも強く司配されている。

 彼等には新生活に対する心の準備が充分にできていない。彼等は猛烈に地上の生活を理想化したような境涯を望んで居る。

 かるが(それ)故に、彼等の生活欲というのは、結局過去の生活を生活することである。これでは私の所謂(いわゆる)夢幻界に入るより外に途(みち)がないではないか。

 彼等は地上生活に於いて、上等な葉巻莨(シガア……はまきたばこ)を喫(の)みたく思った。夢幻界では只でその葉巻莨が喫める。

 彼等は地上生活に於て思う存分ゴルフを遊びたく思った。これも容易に夢幻界が満足させてくれる。が、これはただ最も強烈な地上の欲望が生める、空想以外の何物でもあり得ない。

 しばらくすれば、この果無(はかな)き快楽は彼等を満足し得なくなる。その時こそ彼等が考える時、新しき未知の世界を望む時である。

 かくていよいよ向上飛躍の準備が成りて、今迄の愉快なる、しかし甚だ漠然たる夢が俄然として消える。