ベールの彼方の生活(二)

「天界の高地」篇


四章 天界の″控え間″――地上界

2 一夫婦の死後の再会の情景

                     一九一三年十一月二七日 火曜日

 前回述べた事に更に付け加えれば、地上の人間は日々生活を送っているその身の周りに莫大な霊力が澎湃(ほうはい)として存在することにほとんど気づいていない。
 すぐ身のまわりに犇(ひし)めく現実の存在であり、人間が意識するとせぬとに拘らず生活の中に入り込んでいる。しかもその全てが必ずしも善なるものではなく、中には邪悪なものもあれば中間的なもの、すなわち善でもなければ悪でもない類のものもある。

 よって私がエネルギーだの影響力だのと述べる時、必然的にそこにはそれを使用する個性的存在を想定してもらわねばならない。
 人間は孤独な存在ではなく、孤独ではあり得ず、また単独にて行動することも出来ず、常に何らかの目に見えない存在とともに行動し、意識し、工夫している事になる。その目に見えぬ相手がいかなる性質(たち)のものとなるかは、意識するとせぬとに拘らず当人自身が選択しているのである。

 この事実に鑑みれば、当然当人はすべからくその選択に慎重であらねばならないことになるが、それを保証するのは“祈り”と“正しい生き方”である。崇敬と畏敬の念を持って神を想い、敬意の念を持って同胞を思いやることである。

 そして何を行うも常に守護・指導に当たる霊が自分の心の動き一つ一つを見守り注視していること、今の自分、およびこれより変わり行く自分がそのまま死後の自分であること、その時は今の自分にとって物的であり、絶対であり真実と思えることももはや別世界の話となり、地球が縁無き存在となり、地上で送った人生も遠い昔の旅の思い出となり、金も家財道具も庭の銘木も、その他今の自分には掛けがえのない財産と思えるものの一切が自分のものでなくなることを心して生活することである。

 こちらへ来れば地上という学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなることを知るであろう。
 その時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽せぬよろこびと光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内をしてくれることであろう。

 では、窓一つない狭き牢獄の様な人生観を持って生涯を送った者には死後いかなる運命が待ち受けていると思われるか。そういう者の面倒を私は数多くみてきたが、彼らは地上で形づくられた通りの心を持って行動する。
 すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っているはずはないと固く信じ切っている。
 この類の者はその委縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。

 これに対し、この世的財産に目もくれず、自重自戒の人生を送った者は、こちらへ来て抱え切れぬほどの霊的財産を授かり、更には歓迎とよろこびの笑顔を持って入れ替わり立ち替わり訪れてくれる縁故者などの霊は、一人一人確かめる暇(いとま)もないほどであろう。
 そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界であることを悟るのである。

 では以上の話を証明する実際の光景を紹介してみよう。

 緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地良く漂う丘の中腹に、初期の英国に見るような多くの小塔とガラス窓を持った切妻の館(やかた)がある。それを囲む樹木も芝生も、また麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交い、さながら生を愉しんでいる如く見える。地上の景色ではない。
 これもベールの彼方の情景である。こちらにも地上さながらの情景が存在することは今さら述べるまでもあるまい。ベールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美とを倍加されて存在する。
 この事実は地上の人間にとって一つの驚異であるらしいが、人間がそれを疑うことこそ吾々に取りて驚異なのである。

 さて、その館の櫓(やぐら)の上に一人の貴婦人が立っている。身にまとえる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、その色彩が地上に見当たらぬ故に何色と言うことが出来ない。黄金の深紅色とでも言えようか。が、これでも殆ど伝わらないのではないかと思われる。

 さて婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に眼をやっている。そこに見える低い丘は水平線の彼方から来る光に照り映えている。婦人は見るからにお美しい方である。姿は地上のいかなる婦人にもまして美しく整い、その容貌はさらにさらに美しい。
 目は見るもあざやかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は心の変化に応じてさまざまな色調を呈している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の泉であり、その輝き一つが表情に和(なご)みと喜びを増す。
 この方は数知れぬ乙女(おとめ)の住むその館の女王なのである。乙女たちはこの婦人の意思の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動き回っている。それほどこの館は広いのである。

 実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。その事は婦人の表情を一見すれば直ちに察しが付く。
 やがてその麗しい目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。そのことは、婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は、人間には行方を追うことさえ出来まいと思われるほど素早かった。

 すると間もなく水平線の右手に見える樹木の間をぬって、一隻のボートが勢い良くこちらへ向けて進んでくるのが見えてきた。オールが盛んに水しぶきを立てている。
 金箔を着せた船首が散らす水しぶきはガラス玉の様な輝きを見せながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ちて行く。やがてボートは船着き場に着いた。着くと同時に眩いばかりに着飾った一団が大理石で出来た上(あが)り段に降り立った。
 その上り段は緑の芝生へ通じている。一団は足取りも軽(かろ)やかに上がって来たが、中にただ一人、ゆっくりとした歩調の男がいる。その表情は喜びに溢れてはいるが、その目はまだ辺りを柔らかく包む神々しい光に充分に慣れていないようである。

 その時、館の女王が大玄関より姿を見せ一団へ向かって歩を進めた、女王は程近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差(まなざ)しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶された。「ようこそジェームス様。ようやくあなた様もお出でになられましたね。ようこそ。本当にようこそ」

 

 が、彼はなおも当惑していた。確かに妻の声である。が昔とだいぶ違う。それに、妻は確か死んだ時は病弱な白髪の老婆だったはずだ。それがどうしたことだ。いま目の前にいる妻は見るからにして素敵な女性である。若すぎもせず老いすぎもせず、優雅さと美しさに溢れているではないか。

 

 すると女王が言葉を継いだ。「あれよりこの方、私は陰よりあなた様の身をお護りし、片時とて離れたことがございませんでした。たったお一人の生活でさぞお淋しかったことでしょう。
 が、それはもはや過去のこと。かくお会いした上は孤独とは永遠に別れをつげられたのでございます。ここは永遠に年を取ることのない神の常夏の国。息子たちやネリ―も地上の仕事が終わればいずれこちらへ参ることでしょう。」

 女王はそう語ることによって自分が曽ての妻であることを明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗しくも神々しい女王こそまさしく吾が妻、吾が愛(いと)しき人であることを判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣きくずれたのである。
 再び蘇った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえ、時おり垣間見つつ、一歩二歩と神々しき女王に近づいた。
 それを見た女王は喜びに顔をほころばせ、急いで歩み寄り、片腕を彼の肩に掛け、もう一方の手で彼の手を握り締めて厳かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫のために用意しておいた館の中へ入って行ったのであった。

 さよう、その館こそ実に二人が地上で愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼が一人さびしく暮らしたド―セット(英国南部の州)の家の再現なのである。
 私はこの家族的情景を、天界なるものが感傷的空想の世界ではなく、生き生きとして実感あふれる実存の世界であることを知ってもらうために綴ったのである。
 家、友、牧場――天界には人間の親しんだ美しいものが全て存在する。否、こちらへ来てこそ、地臭をすてた崇高なる美を発揮する。

 この夫婦は素朴にして神への畏敬の念の中に、貧しき者にも富める者にも等しく交わる良き人生を送った。こうした人々は必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予想もしなかったものなのである。

 この再会の情景は私が実際に見たものである。実は私もその時の案内役としてその館まで彼に付き添った者の一人であった。そのころは私はまだその界の住民だったのである。

 ――第何界での出来ごとでしょうか。

 六界である。さて、これにて終わりとしよう。私はしみじみ思う――愛に発する行為を行い、俗世での高き地位よりも神の義を求める、素朴な人間を待ちうける栄光を少しでも知らせてあげたいものと。
 そうした人間はあたかも星の如くあるいは太陽の如く、辺りの者がただ側(そば)にいるだけでその光輝によって一段と愛らしさを増すことであろう。