霊訓原文81~120


 

 



 81.(このような教会の中では霊力がどうして実感できるでしょうか)

 このような教会の中では、霊力がどうして実感できるでしょうか。聖職者たちには、何をどこまで説教し語ってもよいかという定められた制約があります。
 私たちは、神と神の法則について教えます。私たちは、そのような神の法則が働いていることを宣べ伝えてきた霊団です。ナザレのイエスは、神の媒介者であり、神が地上の人間の一人ひとりに授けられた霊力を働かせれば、どこまで神に近づけるかを示した人間の模範であると言っているのです。
 綱領、信条、教義、儀式、祭典、ステンドグラス、祭壇、法冠、祭服―、これらのものが宗教と何のかかわりがあるというのでしょう。宗教とは霊のなかにあるものです。すべての神の創造物に備わっている霊が生命の躍動と活力を支えています。そして、その霊が大自然のあらゆる面の一つ一つにも存在し、さらには、奉仕を念願して献身している理想家や改革者たちを動かしている力となっているのです。それが、教義と一体なんの関係があるというのでしょうか。

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 82. (新しい霊感をもてるようになるのを拒まないでください)

 自由になることを学んでください。自分自身を閉じ込めてしまわないでください。まわりに垣根を作って、あなた方が新しい霊感をもてるようになるのを拒まないでください。真理というものは常に求め続けていくものです。真理の幅はどこまでも広がっていきます。魂が進化すればこころも広くなっていくからです。
 知識、真理、叡智、成長には制約がなく無限であることが理解できれば、あなた方は自由になれます。こころのなかでは偽りであると思っていること、知性が烈しく反発しているがゆえにあなた方の理性が受け入れるのを拒んでいること、そういうものをすぐにでも投げ捨てさえすればあなた方は自由になれます。新しい真理の光に直面して、あなた方がそれまでの誤った考え方を投げ捨てることを恐れないのであれば、あなた方は自由になれます。
 真実の知識を求める用意のできた人々には、誰にでもその真実の知識は求められます。ただ、その時には、大いなる探検の旅に乗り出さなければなりません。時には、真理の広がりがどこまで続いているかわからないような場合でも、時には、冒険や危険が伴うようなことがあっても、また時には、全く未知の領域に足を踏み入れることになっても、真理を求めて歩み続ける十分な心構えが必要です。そして、いつでも真理が導くままに従い、いかにそれが古くからの教えであっても、すべて、正しくないもの誤っているものは、きっぱりと拒絶していかなければなりません。

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 83. (理性が拒むものはすべて投げ捨てなければなりません)

 地上の世界では、古い作り話をただ古いからという理由で過大に評価しています。真理と古さとは、必ずしも両立するものではありません。子供のときから学び親しんできた馴染みの信仰が容易に捨てられないのは私にもわかります。しかし、魂が自由になれば、理性が拒むものはすべて、投げ捨てなければなりません。
 霊力をもっと利用していくことを学ばないだけで、どれほどこの地上の世界は貧しくなってしまっていることでしょう。そのために、迷信の扉や無知の壁を打ち破っていくのに、随分時間がかかってしまうことになりました。
 でも、それは、あなた方が考えているよりは、長い時間ではないかもしれません。よく周りを見てください。いたるところに衰退の兆候があります。誇り高き砦は崩れつつあります。いつの日か、あなた方の間に不信の声が大きく広がっていったとき、真理を阻んでいた壁は打ち砕かれていくでしょう。


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 84. (彼らは神話からあれこれ都合のよい話を取り入れたのです)

 キリスト教を含めて宗教の指導者たちの生と死や復活が、太陽系や四季のような自然現象の中で生きる神話の神々の指導者とよく似ているのは何故でしょうか。

 それは、人々が彼らの指導者たちに超自然的能力を付け加えようとして、古代の根拠のない神話から借用して作り上げた話だからです。彼らには自然法則の働きがどういうものかわかっていませんでした。彼らは自分たちの中でもっとも偉大と考える人物には、誰の力も及ばない特別の能力が備わっていることを願いました。そこで彼らは、神話からあれこれ都合のよい話を取り入れたのです。
 しかし、それは、神の使徒たちが伝える教えには何の影響もありません。使徒たちは、真理、叡智、神の愛の一端をそれぞれ自分なりに伝えようとしてきました。

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 85. (聖霊に対する罪とは聖霊を否定することです)

  聖霊に対する罪とは何ですか。

 聖霊に対する罪とは、聖霊を否定することです。

 聖霊とは何ですか。

 聖霊とはこの地上界へ降りてきた霊力のことです。あなた方の教会は、教義の上では聖霊を信奉していますが、実際に聖霊が世界中の無数の人々の上に降りてくると、それを撥ねつけます。それが、私たち霊界の者があなた方とこころを通わせる霊力だからです。霊力は、ほんの短時間ではあっても、霊界と地上世界が共通の目的のために一つにまとまることを可能にする神の力でもあります。

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 86. (神は洗礼を受けようが受けまいが何の影響も受けません)

  キリスト教のどの宗派でも、洗礼を受ければ、人が死んだ時、その宗派の霊たちがその死者を霊界で迎え入れ、新しい環境に慣れるまで世話をしてくれる、と聞かされてきました。もしそうであれば、洗礼を受けずに死んだ人はどうなるのでしょうか。

 宇宙を動かしている神の力、肉体に息を吹きかけて生命を与えた神の霊、全世界と全宇宙の法則を支配する神、すべての多種多様な形の生命に宿る神、いつの時代でも預言者や使徒たちに顕れてきた神、私たち一人ひとりに内在する神、常に私たちの背後から見守ってくれている神・・・・・、この神は、あなた方が教会で頭の上に水を振りかけられて洗礼を受けようが受けまいが、何の影響も受けません。
 大切なことは、神の真理に従って、生きてきたかどうかということです。2,3滴、水を振り掛けられたからといって、神の法則をごまかすことはできません。神の法則を変えることはできないのです。蒔いた種は必ず刈り取らねばならないのです。

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 87. (キリスト教徒などとはいわないでください)

 キリスト教のお陰で多くの善人が生まれてきたのではないでしょうか。

 彼らは、キリスト教徒であってもなくても、同じように善人であったでしょう。

 でも、イエスの教えに従ったために善人になった人もいるのではないでしょうか。

 あなた方が本当に教えに従ってイエスと同じように生きることが出来たら、歴史には新しい一章が始まることになるでしょう。けれどもまだそうなってはいません。そのようになる兆しもありません。「キリスト教徒」などとは言わないでください。彼らの生き方では、自分たちが仕えているというイエスを裏切っているのです。イエスも、「私に主よ、主よといっている者がみんな天国へ行けるわけではない。父なる神の意思を行う者が天国へ行けるのだ」と、言ったのではありませんか。


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 88. (宗教というのは、本来、教義を超えたものです)

  キリスト教の教義を信じているのは上辺だけであっても、正しい生活をして、利己的でないクリスチャンは大勢いるのではないでしょうか。

 その人たちは、キリスト教徒としては良い人たちではありません。悪いキリスト教徒ですが、人間としてはいい人たちということです。教義というのは、どんなものでも、魂を縛り付けるものであることを知ってください。人が善良なのは教義を信じているからではなく、教義に関係なく善良なのです。これまで彼らキリスト教徒たちは、教義の名においてお互いに殺し合い、お互いに火焙りにしてきました。なんであれ、魂を縛り付けるもの、閉じ込めてしまうもの、魂が大きく伸びていくのを妨げるものは、捨て去らねばなりません。

 らい病患者たちのいる集団施設に行って、患者たちに手を差し伸べようとする牧師たちのことをどう思われますか。

 彼らがそこへ行くのは、教義のために行くのではありません。魂が奉仕することを望むから行くのです。宗教というのは、本来、教義を超えたものです。教義が宗教なのではありません。

          
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 89. (機会あるごとに人に奉仕する、それが宗教です)

 カンタベリー大司教が、ラジオ放送で統合一体化宗教への復帰を訴えたのに対して、シルバー・バーチは次のように語った。

 地上世界では、宗教に対する「リコール」が突きつけられてきました。本当の宗教とは、神の子らである人々に奉仕することによって神に奉仕することです。そのためには、教会も僧侶も牧師も聖書も、これらが心に奉仕の気持ちを抱かせ、以前にも増して人々に人類愛をかきたてるのでなければ、みんな必要ありません。機会あるごとに人に奉仕する、重荷を背負う同胞を救う。それが、宗教です。

 直感によって、あるいは、理性や論理によって、皆さんの多くがご存知のはずの単純な真理を、私はここで繰り返すだけなのです。私は、広大な霊界で学んだ真理を、ここで述べています。霊界では誰でも事実と向き合わねばなりません。原因を作れば直ちにその結果が現れ、人々に奉仕する者だけが奉仕しない者よりも偉大であるとみなされます。地上での仮面と虚偽は剥ぎ取られ、魂は裸にさらけ出されて、その輝きの強さも弱さもありのままに誰の目にも見えるのです。
 私は、価値判断の基準がはっきりしている霊界から来ました。霊界では、ごまかしは通用せず、不公平も一切ありません。貧富の差もありません。ただ、霊性の豊かさと貧しさがあるだけです。強者と弱者の区別もなく、あるのは、霊性の強さと弱さだけです。あなた方の世界で後生大事に大切にしてきたものが、すべて色あせて忘却の彼方で塵になってしまっても、永遠に朽ちることのない霊的実体だけは、いつまでも存在し続けるでしょう。
 あなたのまわりをよく見てください。悲惨と絶望があり、悲しみと苦悩があります。そこには広大な奉仕の場がひろがっていることを、どうか実感してください。無知はまだはびこり、権力乱用がまかり通り、是正すべき偏見はまだ強く残っています。飢餓と欠乏もあります。持ちすぎて失うことを恐れている者もあれば、何も持たずに無一文で苦しんでいる人もいるのです。内在する神の力を発揮できないまま苦痛にあえいでいる数多くの人たちの姿も見てください。貧困と嘆きの状況も無視しないでください。自分たちはキリスト教徒だと思っている人たちが、恥ずかしく思いながらもあばら家に住んでいるではありませんか。
 しかし、地上世界は天国にもなりうることを、どうぞ忘れないでください。地上世界を平和と豊かさの楽園に変えようと思えば変えられるだけの、すべてのものがこの地上には満たされてます。それが、利己主義という雑草に息が詰まるほど荒れ放題にされてしまっているのです。
 私たちは、あなた方のすべてに奉仕を呼びかけます。あなた方の一人ひとりが神の使徒となって、地上的なものよりも神聖なものが勝利するように、自分の利害関係や欲望を忘れるようにしてください。一人ひとりが改革の仕事に取り掛からねばなりません。必要な人々には喜びと幸せを、そして、涙の代わりに笑いを与えてください。人々のあらゆる無知と迷信を取り除き、彼らにも知識が持てるように努めていくべきです。暗闇をなくして神聖な真理の光が彼らに差し込んでいくようにしましょう。すべての恐れ、悲しみ、病いを追い払って、愛が力強く、誰にでも広くいきわたるように努めていきましょう。

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 90. (神の使徒に対して礼拝してはならないのです)

 イエス・キリストは、教会が教えているように神の子なのでしょうか。それとも、特別偉大な霊媒能力を持った普通の人だったのでしょうか。

 イエス・キリストは、神から与えられた使命を達成するためにこの地上世界に降りてきた神の使徒でした。イエス・キリストは地上での使命は果たしましたが、まだ果たされていない使命が残っていて、それはいまでもこの地上で果たされるべく霊界から彼によって導かれています。イエス・キリストを礼拝するというのは正しくはありません。神に対してのみ礼拝するべきであって、神の使徒に対して礼拝してはならないのです。イエス・キリストは、神によって定められた自然法則を通じてこの世に生まれました。その自然法則とは、あなた方がこの世に生まれる場合に従わなければならない自然法則と同じです。あなた方は、神の自然法則に従うのでなければ、この世に生きることも、生まれることも、地上を去って霊界へ移ることも出来ません。

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 91. (いかなる本よりもはるかに多くを学べるのがこの大宇宙です)

 あなたはそのことを、聖書によって実証することができますか。

 私が訴えているのは神の法則だけです。神は今なお活動し、霊感を与え、顕示し続けていることを目覚めて理解するまでは、聖書のことばだけに頼っている人たちは、取り残されていかなければなりません。
 神の法則はいまも働いています。そして、遠い昔イエスの時代に、使徒たちが神のために尽くしたように神のためにすべてを捧げるなら、それらの使徒たちを通じて神の力はいまでも流れ出るのです。あなた方が聖書と呼んでいる本は確かに偉大です。しかし、それよりももっと偉大な聖書があります。それは、神の法則によって支えられているこの宇宙です。この地上世界のいかなる本よりも、どのように偉大で、尊ばれ、崇められている本よりも、はるかに多くを学べるのが、この大宇宙です。

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 92. (イエスを通じて顕れてきた霊はいまでも活動しています)

 イエス・キリストは今どこにいますか。何をしていますか。

 イエスを通じて顕れてきた霊は、2千年前に始まった事業を継続するためにいまでも活動しています。ただ、その霊は、いままでに千回も十字架にかけられてきました。いまでも、毎日のように、十字架にかけられています。しかし、その霊は神の一部であるために、この地上に平和と幸福をもたらすために活動している使徒たちがいるところでは、これからも、その影響を広げていくでしょう。

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 93. (イエスほど大きく神の霊性を発揮した人はいませんでした)

 あなたがいま話しているイエスは、イエスという人物のことですか、それとも、イエスを通して働いていた霊力のことをいっているのですか。

 イエスその人のことを言っているのです。ただ、イエスもあれ以来進歩して、当時に比べれば、いまではその霊的意識ははるかに大きくなっています。その当時は、イエスの霊的意識も、どうしてもあの時代の制約を受けざるをえなかったのです。しかし、この地上では、かつてイエスほど大きく神の霊性を発揮した人はいませんでした。また、イエスほど、神の法則を力強く顕現できた人もいませんでした。

 この2千年間では、という意味ですか。

 いいえ、それ以前にも、またそれ以後もいなかった、という意味です。あれは、この地上では空前絶後の神の霊力の発現でした。しかし、私たちは、この地上に生を受けたイエスを崇拝してこう言っているのではありません。私たちが敬意を捧げるのは、彼を通して働いた神の霊力に対してです。ただ、神の霊力の発現がイエスを通して為されたという点では、イエスだけが尊敬されなければならないと思っています。

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 94. (復活はいのちに内在する神の法則の一つなのです)

 霊界ではイエスのような指導者をまた地上に送って、神の啓示をさらに伝えていこうとする計画がありますか。

 地上で求められるものが変わってきているので、いまは、それに応じた方法がとられています。地上世界は、以前に比べるとはるかに複雑に、そして相互依存の関係がさらに深まっていることを知ってください。だから、いまでは、もっと多くの地上との通信回路が必要になっているのです。私たちは、地上の人々の様々な気質や生活習慣、思想、生き方、流行などに対応していかねばなりません。お伝えしていく内容も、国民性や環境、民族的慣習などに合わせていく必要があります。世界の諸国民がそれぞれに持っている言語と制約の中でお話していくことが要求されます。しかし、このような通信を行なう場合の霊力の背後には、常に同一の原動力が働いているのです。
 あなた方のキリスト教世界では、死人のなかから復活し、姿を見せ、死後も生き続けることを身をもって示したイエスを尊敬しています。イエスは、死後の姿も生前と同じであることを示しました。肉体に残った処刑の時の傷跡も、その証拠として見せました。そして、その後もさらに、イエスは姿を現しています。
 キリスト教世界では、これらのことを証明することは出来なくても、みんな信じています。そして、それを、奇跡だというのです。しかし、私たちもイエスの場合と同じ法則によって、死後の生を実証するためにこの世に戻ってきました。それは、神が永遠であり、神の法則は不変であり、一人の人間が復活したように、ほかのすべての人間も復活するということを示すためです。復活は、いのちに内在する神の法則の一つなのです。

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 95.(真実だけを求め続ければ真理を手に入れることができます)

  あなた方がもし幼児のようなこころになって、過去の誤った教えによる思い違いから解放されれば、真理は極めて容易に理解されるようになるでしょう。
 幼児のような純真なこころを持ち、そして、新しい教義や信条を作り上げようとはせず、どのような犠牲が伴ってもただ真実であるものだけを求め続けるのであれば、あなた方は真理を手に入れることができます。
 ある特定の教えに忠実に従うことを誓った人は、真理を手に入れるのが楽ではありません。時には、信じることを誓った教えに対する忠誠心とこころからの充足感を得ようとする願望との間で、魂のはげしい相克を引き起こしてしまうからです。

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 96 (復活は一人の人間の占有物ではありません)

 英国国教会の教義を何らかの形で統一するために、25名の神学者が15年をかけて国教会の信条を検討し続け、1938年1月に「英国国教会の教義」と題する分厚い報告書が出版された。そのうちのいくつかの文がシルバー・バーチに対して読み上げられ、見解を求められた。その箇所は、斜字体で示されている。

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  (1) イエスの復活は人類史上で空前絶後の神のみ業である。

 そんな結論に達するのに、15年もかかったというのでしょうか。自らをキリスト教徒と名乗っている者たちは、本当にイエスを裏切っていますね。

 復活は生命の法則の一部なのです。肉体の死が訪れたとき、誰にでも魂に復活が起こります。復活は一人の人間の占有物ではありません。人は誰でも復活します。肉体を残して死の関門を通り抜けたあと、もともと用意されていた霊体をまとって霊界で新しい生活を始めるのです。
 イエスは自然の法則に反することは何もしませんでした。彼は神法を実現するために来たのであり、彼が行なったすべてのこと、彼の教えのすべては、神法の一部でした。「これらのことはあなた方もできるであろうし、さらに、これ以上のこともできるであろう」とイエスは言ったのではなかったでしょうか。あなた方がもし、イエスを人々の手の届かないような雲の上に祭り上げてしまったら、イエスの使命のすべての価値は台無しになってしまいます。イエスは、自分の生涯をとおして、人々が神法を十分に生活の中にいかすことができれば、誰にでも自分と同じ生き方が出来ることを示そうとしていた筈だからです。
 イエスは死んで霊界へ赴き、そしてまたこの地上に戻ってきました。それは、彼以前にも、多くの霊がしたことであり、彼以後も、無数の霊が同じように地上へ戻っています。宇宙には奇跡のようなものはないのです。神の法則は常に働いていますし、どのようなことであっても、それが起こったという事実そのものが、この法則が存在している証しであるに過ぎません。

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 97. (魂は洗礼によってはなんの影響も受けません)

 (2) 洗礼は、幼児洗礼の場合でも、罪を犯しやすい強い傾向から人間を救い出す一つの手段である。聖者も洗礼を受けていなければその生き方には欠陥がある。

 どのような聖職者でも、水を水以外のものに変える魔法の力は持っていません。聖職者が子どもの額に水を数滴したたらせたからといって、その子どもの地上での生活や、その後の霊界での生活に、聖職者は全く何の影響も与えることは出来ません。その数滴の水は、滴らせる前も水で、滴らせた後もただの水です。聖職者はそれらの水滴の化学成分を変えて何かをさせることなど、出来るはずがないのです。それは神の法則に反することだからです。
 魂は洗礼によってはなんの影響も受けません。誰であっても、あなた方の霊性を代わって進化させる力などはありません。あなた方の霊性は、あなた方がこの地上での生き方を高めていくことによってあなた方自身が進化させなければならないのです。あなた方の行為の結果は、あなた方自身が償い、あなた方自身が受ける苦しみによってのみ償われるのであって、誰か他の者によって取り除いてもらうことはできません。
 聖者のような気高さは、洗礼とは無関係です。その気高さは、この地上世界で生きている間、日々の生活に全く落ち度がないように努力し、あなた方自らの生活が神の光で輝いていくようにすることから生まれるのです。

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 98. (奇跡などはないのです)

 (3) 神はお望みならいつでも奇跡を起こすことが出来る。ただ、この「検討委員会」では、いろいろな奇跡が本当に起こるのかどうかについては、意見が分かれた。

 彼らがさらに15年間、慎重に検討を重ねたら、これより少しは確かな見解が出せるのでしょうか。これでは、盲人が盲人を導いているのと同じで、あまりにも哀れな情景です。このような人たちがあなた方の先生なのですか。奇跡が起こるのか起こらないのか、そんなことさえあなた方に教えられないのですか。奇跡などはないのです。いままでに奇跡が起こったことは一度もなかったし、これからも、奇跡が起こることは決してありません。
 神は神であり、その神の法則は完璧に働きます。完全者である神がその法則を創造しました。完全者が創造したこの法則の働きがが、もしほんの一時でも、止められるようなことがあれば、必ず大混乱が起こります。神にも予期できなかった出来事があって、それに対応するため神自身が創造の計画に手直しを加えていかねばならないようなことがあるとすれば、神はもはや完全者ではなくなります。神は不完全になってしまうのです。もしも神が、ある人だけに恩寵を与えて奇跡を起こすとしたら、その神は卑小な神にすぎず、全生命の無窮の霊ではなくなってしまいます。どうして彼らは、自分たちの貧弱な考えだけで、こんなにも神を矮小化してしまうのでしょうか。
 彼らには人智を超えた法則がわかりません。彼らは霊力を知りません。彼らは霊界の私たちの霊力に触れることがありません。だから彼らは、霊能者を通じて起こされるこのような霊的現象が理解できないのです。
 イエスの時代に起こった出来事は、今日の物理法則ではありえないと彼らは考えているのでしょう。そのために、それらを奇跡であると捉えてしまうのです。しかし、もし彼らが霊力の働きを理解することができたなら、昨日も今日も、そして未来永劫、神は不変であり不易であることがわかるはずです。そして、神からの賜物を自分たちの生活に活かしていくことが出来る人なら誰にでも、神の霊力に頼り、活用していくことができることも、彼らにはわかるはずなのです。

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 99. (神は完全無欠ですから神の啓示にも終わりはないのです)

 (4) キリスト教徒の立場からみると、聖書は他に例のない神の啓示の記録であるという点で、極めて独特である。

 彼らのこころはどうしてそれほどまでに曇っているのでしょう。どうしてそんなに真っ暗な迷信の闇に飲み込まれてしまっているのでしょう。本当に厚い壁に取り囲まれてしまっていますね。迷信の牙城の後ろに隠れて彼らは深く身を潜めてしまっています。
 この地上の世界が始まって以来、数々の霊的指導者が地上へやってきては人々に神の存在について教えてきました。彼らは、その時代のことばで語りかけました。神の啓示は、その時代の要請にあわせ、それぞれの指導者が住んでいた国の状況や国民の進歩発達の程度にもあわせて、語り伝えられてきたのです。その国の人々によくわかるように、理解できる範囲で、難しすぎることがないように努力されていました。
 しかし、進歩の過程は休みなく進行するものです。人々が進歩し、成長していくにつれて、新しい指導者が現われるようになります。新しい霊能者、新しい預言者、新しい神秘家も現われて、それぞれに自分たちの理想を、夢を、預言を、言葉を、霊感を、真理を、そして教えを、その時代の要請に合わせてきました。神は完全無欠ですから、神の啓示に終わりはないのです。
 今日の啓示は、昨日の啓示の延長の上にあります。私たちは、イエスが教えた真理を否定しません。イエスは、モーゼの教えた真理を否定しませんでした。そのように、この地上での未来の世界に、私たちの後に霊界からやってくる指導者たちも、私たちが今教えている真理を否定することはないでしょう。
 ただ、未来の人々は、今よりもっと進化の高い段階に達しているはずですから、その人たちに伝えられるべき真理は、いまあなた方に伝えられている真理よりも、もっと進んだものになるに違いありません。

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 100. (あなた方は神の中にいるのです)

  (5) キリスト教徒にとって、イエスは唯一で不可欠の仲介者である。イエスは神と直接に結ばれているが、われわれキリスト教徒は、イエスを通じて神に近づくことが出来る。

 それは間違いです。神はあなた方の中にいます。あなた方は神の中にいるのです。イエスも、「神の王国はあなた方の中にある」(ルカ・17-21)と言ったではありませんか。キリスト教の指導者なのに、なぜイエスの教えが何もわかっていないのでしょう。あなた方は決して神から離れてはいないのです。神は決してあなた方から離れてはいません。

 その事実をあなた方が変えることは出来ません。あなた方がかりに最低の最も下劣な犯罪を犯したとしても、それでも神との関係を断ち切ることは出来ないのです。神とあなた方を結びつけている絆は不滅であり、そのためにあなた方が見失われることは決してありません。
 あなた方が生活の中に神が顕現されていくことを学んでいけば、直接、神に近づいていくことが出来ます。あなた方はだれでも神の一部を持っていますから、神とあなた方の間に入る仲介者などは要らないのです。
 イエスも仲介者になるつもりはありませんでした。彼がこの世にやって来たのは、大いなる神の存在が十分に感じ取れるような生き方を人々に教えるためでした。
 この地上世界では、神学は大きな災いです。神学は人々を束縛し、人々の魂を牢獄に閉じ込めてしまいます。それから逃れて自由になるためには、考えの狭い信条や、ひとりよがりの教義からは身を以って断絶し、霊感のなかで得られる囚われのない真理を見つけ出すことを学ばねばなりません。人間の心は、神からの霊感を超えることは出来ないのです。

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 101. (あなた方は死んでも火葬されても生きていきます)

 (6) イエス・キリストの復活は、人間の不死に対する希望を強くする。

 まだ何もわかっていませんね。もっともっと学んでもらいたいものです。あなた方がいま生きているのは、あなた方の中に神の一部を持っているからです。肉体は霊があるからこそ存在できるのです。霊こそ永遠の実体です。霊は破壊されることもなく、不滅であり、不死であり、無限です。
 あなた方は死んでも生きています。火葬されても生きていきます。あなた方は霊だからです。この地上世界でも、霊界においても、あなた方の不滅の霊を破壊することは出来ません。それは、あなた方がこの世に生まれたときに授けられた生命の賜物なのです。
 あなた方は霊だから生きています。霊だから、墓に埋められても死にません。霊だからこそ、いつまでも永遠に生き続けていくのです。誰かに教えられても教えられなくても、それは関係ありません。永遠の生命は、あなた方が生まれながらにして持っている権利であり、受け継いできた財産の一部です。
 彼らは、神を、聖なる創造主を、さまざまに表現される全宇宙を支えている大いなる力を、小さく限定してしまおうとしています。どのように小さく限定しているのでしょうか。この世に33年間生きた一人の人間にです。そして彼らは、神の豊かな恵みが与えられるのは、信条を信じる者だけであると限定しようとします。違います。そんなことは決してありません。彼らは「宗教」という言葉の意味を汚しているのです。彼らがそれだけしか知らないのなら、イエスは悲嘆して涙を流すでしょう。そして、彼らはイエスを磔にすることを今もなお続けていることになるのです。
 あなた方は自らをキリスト教徒といっているが故に地の塩なのではありません。教会に所属しているから地の塩なのでもありません。あなた方がこの地上で身につけているキリスト教徒というレッテルは、霊界では通用することはありません。あなた方が信条を擁護しても、それは何にもなりません。大切なことはただ一つだけです。あなた方が地上に生きている間に、どれだけ神の意思に沿って忠実に生きたか、ということだけです。

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 102. (決して自分の責任を他の人へ転嫁してはなりません)

 (7) 十字架の贖罪というキリスト教の教えにとって重要なことは、それが本質的には神のみ業であると確信することである。神はイエスを通じて、人間との和解を図られた。

 これでは古い贖罪論の繰り返しに過ぎないではありませんか。つまり、妬み深く怒りにかられた神を宥(なだ)めるのに、その神が愛した人間を血の生贄に捧げなければならなかったということなのですか。あるいは神は、怒り狂った人間よりもっと残酷で無慈悲であるとでもいいたいのですか。神は人間と和解するのに流血を要求したということですか。神について、イエス・キリストの使命について、これはなんという哀れな考え方なのでしょう。

 イエスは、神について、父親としての愛と慈悲と優しさに満ちていると教えました。その神を宥めるのにイエスの血が流されなければならなかったのでしょうか。あなた方はみんな、自らの人格を高め、魂の進化を遂げていくために、神によってこの世へ導かれた存在なのです。
 あなた方がもし利己的な道を選べば、その代償を支払わねばなりません。もし奉仕の道を選べば、人格の向上という褒賞を受け取るでしょう。それは神の法則で決まっていることであり、どのように偉大な指導者によっても、その法則の働きを変えることは決して出来ません。
 神の法則以外は、すべて、正義感のない不公平な教えです。あなた方がもし過ちを犯したら、まともな人間としてその代価を支払いなさい。決して自分の責任を他の人へ転嫁してはなりません。こちらの霊界では、聖者である利他主義者は魂の向上が進んでいるので、利己主義者などより高い界層に存在しています。こちらでは必ずそうなるのです。利己的な人があなた方のいう死の後に、全生涯を奉仕に捧げた人と同じくらい高い界層で生き続けることなどはできません。それなのに、あなた方はなお、それを定めた神と神の完璧な公正を軽視できるのでしょうか。
 勿論そんなことは出来ません。あなた方が自ら作り上げるのが人生です。あなた方の住む世界が何処であれ、職業がなんであれ、家柄の上下に関わらず、あるいは、あなた方の階級、肩書き、皮膚の色、人種、国籍などにも関係なく、あなた方みんな、それぞれに奉仕の機会をもっているのです。その機会を活かさないのであれば、その代償は支払わされます。それには誰も干渉することはできません。
 最後に、イエスのつぎのことばを引用しておきます。「人は蒔いたものは刈り取らねばならない」(ガラテア6:7)

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 103. (嘆きや悲しみによってこそ魂は強められるのです)

 種が暗い土の中に蒔かれるのは、そこで養分を吸収して生命力を発揮できるようにするためです。それと同じように、人間の魂も死後の霊的生活に備えて、この世での様々な体験という魂の養分を摂取するために、この暗い地上世界へ送られてくるのです。
 人生体験のすべては、壮大な神の計画の一部に組み込まれています。あなた方が何よりも望まない、悲しみ、辛さ、嘆き、落胆、苦悩、痛みなどの体験も、魂の向上のためには非常に大切なのです。
 しかし、そのことは苦しんでいる時にはわかりません。人生をその一部だけで判断するのではなくて、全体を振り返って見ることが出来た時にはじめて、人生の価値を明確に理解できるようになります。逆境によってこそ人間性が鍛えられ、嘆きや悲しみによってこそ魂は強められるのです。

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 104. (人間の自由意志でさえ神の法則の一部です)

  私たちが人生を見るのは肉体の目によってではなく、真実の姿が見通せる霊の目によってです。賢明な人はあらゆる人生経験を魂の向上のために役立てようとします。どんな試練や誘惑にあっても挫かれずに、内在の力を働かせて困難に立ち向かっていこうとするのです。そのような気持ちを持っているからこそ、人格が磨かれ偉大さを増していきます。
 神の法則は完璧で、自動的に働きます。誰一人としてその法則から抜け出すことは出来ません。人間の自由意志でさえ神の法則の一部です。自由意志にも法則が働いていることが、霊的に進化した人の眼からみるとよくわかります。
 あなた方が自由意志を発揮しても、それはあなた方が到達した進化の段階に応じての自由意志であるにすぎません。あなた方のどのような行為も、魂の進化に応じて決められた制約を超えることは出来ないのです。

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 105. (あなた方は神性を無限に発揮することが出来ます)

 あなた方は神の分身であり、神性を無限に発揮することが出来ます。神性を発揮していけば、あなた方も霊界の高度の法則が理解できるようになります。その法則は他の法則とは相容れないものではなく、あなた方の魂が進化しさえすれば受け容れることができるものです。
 無限には限界というものがありません。美の完全性には限界はなく、音楽の素晴らしさにも限界はありません。魂が進化して向上すればするほど、美と調和の世界はさらに大きく開けていきます。あなた方の魂が向上すれば、それだけ大きな調和の世界が待ち受けているということです。
 あなた方が低いところに居る間は、高いところのことはわかりません。しかし、高いところにいれば、低いところのことはよくわかります。あらゆる面で調和を支えている法則は自動的に働いていて、その法則は、あなた方の魂が進化していくことによってのみ手に届くようになるのです。
 あなた方が過去にどれだけ進歩してきたかによって、これからの進歩を選ぶ立場も変わってきます。進歩を遅らせることも出来ます。いつ何をあなた方が行なっても、その行為は法則との相互作用によって決められるもので、その場合も法則は自動的に働きます。あなた方の行為の選択は、進化の段階に対応した形でしか行なわれません。そしてその行為の選択も、魂がもし自覚しているなら、魂が向上する方向で行われるでしょう。

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 106. (どこまでも上には上があり際限はありません)

  あなた方からシルバー・バーチと呼ばれている私は、無限に広大な霊界の知識のほんの一部を代表しているに過ぎません。あなた方がさらに進歩を遂げていけば、私よりも偉大な指導者たちが私を使って、もっと高度の知識と智慧をあなた方に伝えるようになります。もうこれでよいという最終段階はありません。これで完全だということもありません。あなた方は進歩していき、私もまた進歩します。私よりも高位の霊たちの話では、その彼らよりさらに高位の霊たちがいて背後から支えてくれているということです。
 どこまでも上には上があり、際限はありません。もし終着点というものがあって、そこに到達できるとしたら、創造の営みもそこで止まってしまうからです。
 何百万年もの長い時間をかけて、人類は現在のように肉体を進化させてきました。ゆっくりと少しずつ、低きから高きへ、進化し、成長し、土くれから大空へと伸び上がってきたのです。
 徐々に獣性は捨て去られ、神性が顕れ始めました。いまのあなた方のような肉体に成長するまでに、いったい何百万年かかったことでしょう。しかもまだ、その成長は終わってはいないのです。それと同じように、あなた方は、自分たちの魂の成長にも、何百万年もかけていくことになるのでしょうか。

          
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 107. (地上最低の犯罪者も地上最高の善人とは兄弟です)

 あまり遠くない昔、人間は猿でした。もっとも、厳密にいうと猿ではなく、猿の体を通じて働いていた霊でした。これもすべて神の分身です。あなた方はどこで生を受けようとも、神の息吹を与えられます。そうでなければ、生命そのものが存続できないのです。その神の息吹には段階があります。進化があり発展があり、低いものから高いものへの向上があります。
 しかし、それらはすべて神の息吹です。ですから、地上世界で最も下等な、最低の生きものでも、それは神と繋がっており、この世に現われた最高の聖者とも結ばれているのです。神の息吹がこれらすべての生命の中に等しく存在しているからです。地上最低の犯罪者も地上最高の善人とは兄弟です。そのどちらにも同じ神の息吹が通っているからにほかなりません。あなた方はこのような神の法則から逃れることは出来ません。だからこそ、人々は互いに助け合わなければならないのです。
 どのような生物の種にも類魂といわれるものがあります。猿であったり、魚であったり、鳥であったりしたのは、実は、あなた方ではありません。それらは、あなた方を通じて働いてきた霊なのです。そして、あなた方もその霊の一部です。

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 108. (あなた方は魂の問題を外から判断してはいけません)

 自分の罪でもないのに、なぜ生まれつき手足が不自由だったり、目が見えなかったりする子どもが生まれるのですか。

 あなた方は魂の問題を外から判断してはいけません。魂の進化と、その魂がこの地上世界で道具としている肉体とを混同してはいけません。
 確かに、あなた方のいう不具者はいます。父親か母親、或いは両親からの遺伝法則によって生まれてきますが、しかし、そのことが魂の進歩の妨げになることはありません。
 生まれつき身体に障害をもつ人の魂には、償いの法則が働くのが普通です。そのような人の性格は、人並み以上に親切であり、我慢強く、思いやりがあります。永遠不変の償いの原理があるのです。誰一人として、この因果の法則を免れることは出来ません。
 この世の両親は、次に生まれてくる世代に対して、肉体的には責任がありますから、出来るだけ健全な身体にして引き継いでいってもらう努力をしなければなりません。その責任を怠れば、因果の法則が働くことになるでしょう。

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 109. (神の法則は魂の進化の程度に応じて働きます)

 私たちがあの世へ行くときには、人生の試練のなかで培われてきた人間性や生き様で判断を受けるわけですが、もし、精神病で責任能力のない人が死んだ場合はどうなるのですか。

 あなたは、物質的な問題と霊的な問題を混同しています。確かに脳細胞が正常でない場合は、この世の生活ではいろいろと混乱を起こすでしょう。しかし、脳の機能が働かないために魂がこの世での自己表現が出来なくても、魂は自分の責任については理解しているのです。

 神の法則は、魂の進化の程度に応じて働きます。魂の問題は、この地上の尺度ではなく、永遠の智慧の尺度で判断されねばなりません。地上の規範に背いた魂は、地上の尺度では悪く取られるかもしれませんが、魂に責任が取れないのであれば、こちらの霊界では、地上のように、問題にされることはありません。
 このことは、いわゆる“狂気”のなかで他人を殺害したり、或いは、自殺したりする場合でも同じです。魂の働きが正常でないのですから、責められることはありません。私がいる霊界では、裁きの本当の基準というのは、その魂の動機が何であったかということです。この魂の動機が大切であって、例外はありません。

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 110. (奉仕の機会は貧富に関わらず誰にでも訪れます)

 地上では、飲食に事欠き、精神、道徳面でも劣悪な貧民街に生まれて、過酷な単純作業を押し付けられるような子どもも居れば、その一方では、恵まれた環境に育って、なんの苦労もない生活を楽しむ者もいます。一体どうしてこのような不公平があるのでしょうか。

 魂は自己の進化を記録していきます。地上の人々は、ものごとを常に物質的な尺度で判断して、魂がどのように反応するかという点からは物事を見ようとはしません。貧乏に生まれようが金持ちに生まれようが、魂が自覚を持ち神性を発揮するために必要な奉仕の機会は、貧富に関わらず誰にでも訪れます。その機会に奉仕するかしないか、それだけが本当の評価の基準です。この地上の世界では、すべての事柄が物質的な基準によってのみ評価・判断されますが、それが人々の間に不公平を生み出しているようです。しかし、本当の償いは、魂の償いでなければなりません。魂はあらゆる困難を克服することによってこそ自己を高め向上していけるのです。

 でも、なぜ悪い人間が恵まれた生活を送ったりするのですか。

 あなたは、また、地上の基準で物事を判断しています。恵まれているとあなたが思っている人の魂に、惨めさや苦しみはなく、悩みや痛みもないと、あなたには分かるのですか。顔で笑っているから、贅沢に包まれているから、悩みとは無縁であると思うのですか。恵まれた生活であれば、魂は必ず幸せであるとは限らないのです。永遠に変わらぬ判断の基準とは、霊的な基準です。そうでなければ公正は保てないのです。

 しかし、やはり、恵まれた環境の人のほうが、生活に困窮した劣悪な環境の人よりも、人のために奉仕する動機を持ち易いとはいえませんか。

 私はそうは思いません。地上の偉大な人たちは、しばしば、貧しい家に生まれています。偉大な指導者たちはほとんどすべてが貧困家庭からの出身です。魂というのは、困難に打ち克つための努力をすればするほど、偉大さを発揮するものなのです。その努力の中でこそ、魂は本来の輝きを増していくのです。外面からではなく内面から、物事の判断をするようにしてください。

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 111. (霊界へ移っても何百年も進歩しない霊たちが大勢います)  

 人間の霊も肉体の進歩と同時に進歩してきたのでしょうか。

  霊も進歩してきましたが、肉体と同じような進歩の仕方ではありません。それは、霊が自己発現するためには、肉体の上でもある程度の進歩が起こる必要があるからです。

 私たちは、死後もその気になれば進歩していけると思いますが、逆に、悪い気持ちを起こして、死後さらに低い段階に落ち込んでしまうこともあり得るのでしょうか。

 もちろんあり得ます。霊界へ移っても、何百年も、時には、何千年も進歩しない霊たちが大勢います。彼らは地上生活への執着を断ち切れないのです。欲望と貪りの塊となって、霊的な法則を理解しようとはしません。
 そのような霊たちは、霊的な事柄にはなんの関心ももたず、いつまでも地上生活の習性から抜け出せず物質にとらわれていて、どんどん低い界層へと堕ちていくのです。

 霊があまりにも深く堕落していって、ついには消滅してしまうこともありますか。

 それはありません。ただ、内在する神の光が小さく点滅するだけになってしまうかもしれません。ただ、その光が消えてしまうことは決してありません。その霊と神とを結び付けている絆は永遠だからです。どのような霊でも、二度と立上がれないほど低く落ち込んでしまうことはありません。また、どのような霊でも、どん底にまで落ち込んだ霊を助けに行くことが出来ないほど、高く昇ってしまうこともありません。

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 112. (進歩していけばいくほど自分が至らないことを知るものです)

 魂は様々な界層を昇っていきながら個性を失い、最終的には神と融合するのですか。また、融合した後では、物質などの形に再構成されていくことがあるのですか。

 私はまだ神と融合できるほど高い界層に到達できた者は知りません。あなた方が完全を目指して進歩していけばいくほど、まだまだ自分が至らないことを知るものです。それだけあなた方の意識が拡大していくからです。あなた方の意識は神の一部ですから、無限に広がっていきます。無限の果てを目指してどこまでも伸びていこうとするのです。私たちはまだ、究極の完全性については、何ひとつわかっていません。

 個々の魂が進歩していくにつれて、類魂のなかに融合され自分の個性を失っていく傾向があるのではないでしょうか。

 私の知る限りではそういうことはありません。起こりうることは、ある事業達成のために志を同じくするものたちがそれぞれの知識と手段を持ちより、そのうちの一人の霊がみんなのために代表者になるというようなことです。これが行なわれている場合には、参加しているすべての霊はそれぞれの個性を抑えて一つにまとまろうとします。しかし、それも、その時だけで一時的なものです。

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 113. (これらの動物は死んだ後も私たちと一緒に生き続けたのです)

 家畜以外の低級な動物も死後は生存するのかどうか、ご存知ですか。

 知っています。ちょうど犬や猫があなた方に親しまれているように、私たちがこの地上生活をして時に馴染んでいた動物が沢山いました。これらの動物は、私たちのところで個性を発揮することを学んで、死んだ後も、私たちと一緒に生き続けたのです。しかし、その死後の生命は永久には続きません。一時的に生き続けた後で、種を継続させていく類魂の中に溶け込んでいきます。神の子は誰でも神の力を持っていますから、意識が未発達の動物にも、生き続ける力を伝えていくことが出来るのです。あなた方が動物に示す愛によって、動物を生きているうちに進歩させていくことが出来るようになります。

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 114. (死は魂が自由になることができる偉大な瞬間なのです)

 何故神は地震や火山爆発を起こしたりするのですか。

 「神がなぜ起こすのか」と訊くのは、自然の法則の営みに疑問をはさむことになるということを忘れないでください。私が教えようとしているのは、神の法則と、その法則について私が経験してきたことについてのみです。地震というのは、この地上世界が進歩していく課程で起こる洗浄作業の一部です。まだこの世界は、進歩のなかで完全な段階には達していないのです。

 それなら、その地球の進歩のために何千人もの罪のない人々が犠牲になってしまうことになります。それが正しいことといえるでしょうか。

 あなたが死と呼んでいるものが、なぜ不幸になるのか私には理解できません。私にとっては、それは魂が自由になることができる偉大な瞬間なのです。

 では、地震で死んだ人たちはみんな、死を迎えるところまで来ていたとでも言われるのですか。

 そうです。様々な過去生のなかで起こしてきたことの結果として、彼らはその地震の場に居合わせたのです。

 私たちよりも、精神的にもっと進歩していたり、あるいは、私たちより劣っているような生命体の世界が、宇宙の中で地球のほかにも存在していますか。

 もちろん、存在しています。この地球に住むあなた方よりも、もっと進んだ生命体の住む星が宇宙には沢山あります。あなた方が地球とよんでいるこの惑星は、広大な宇宙の中の数多くの惑星のほんの一つであるに過ぎません。このあなた方の地球ほどは進歩していない惑星も一つだけですが存在しています。

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 115. (乗り越えることの出来ない困難や障害は何一つないのです)

  私たちが重要だと思っている仕事を進めていこうとすると、次々にその仕事に障害が出てきたりするのは何故でしょうか。

 およそやる価値のあるもの、成し遂げる価値のあるものというのは、最も困難なものなのです。達成するまでの道のりは決して容易ではありません。いろいろ難題があり、障害があり、行く手には邪魔が立ちはだかります。
 しかし、それらの困難こそが人格形成に必要な糧になるのです。どのようにその困難を乗り越えていくかによって魂の成長の度合いが決まります。もし困難もなく内在の神性を発揮できるとするならば、その神性は、価値の低いものになってしまいます。
 絶望してはなりません。あなた方が内部に秘めている神の力を駆使すれば、乗り越えることの出来ない困難や障害は何一つないのです。仮に誰かが、あなた方に様々な邪魔をしかけてきても、自分に内在する大きな力を奮い立たせてその力を使えば、すべては一掃されてしまうでしょう。
 あなた方は、この地上世界にいる間は、自分のこの大きな潜在力をほとんど使っていないことに、気がついていません。

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 116. (もっと素晴らしい生活が霊界にはあるのです)

  この地上の世界では、数え切れないほど多くの赤ん坊が、誕生と同時に、或いは、誕生後まもなく、殺されたり死んだりしていますが、こういう赤ん坊の地上での命には、どのような価値があるのですか。

 人々が永遠の原則を地上の尺度で測ろうとする限り、このような問題を理解することは決して出来ないでしょう。この地上の賢人のなかで最高の賢人といわれる人であっても、地上の知識でしかものを見ようとはしません。もっと進歩して、霊的知識の光のなかでものを見ることが出来るようになれば、彼らのまだ知らない神の計画にも理解が及ぶようになります。いまのところはまだ、彼らは曇ったガラスを通してものを見ているだけなので、本当のことが分からないのです。
 まだ幼い小学生の生活を判断しようとするとき、あなた方は、その子が学校に通った年数だけを問題にするだけで、学校のほかにも、それよりもっと大切な生活があることを考えようとはしません。あなた方のいまの生活より、もっと素晴らしい生活が霊界にはあるのです。それは、美の世界、色彩の世界、愛の世界、勤労の世界、真摯な願望が表現されている世界、創造的衝動が美を生み出している世界です。この地上世界では実現できないあらゆるものが現実になる世界です。あなた方がこの世界をまだ見ないうちに、神を批判することは出来ません。

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 117. (進化の過程ではあなた方はまだ子どもです)


 あなたが相談している高級霊たちは、時には地上へ来ることがあるのですか。

 それはありません。彼らはみんな大きな鎖のなかの一つの環の役割を果たしています。この霊媒があなた方と私との間を繋ぐ環であるように、そして、私があなた方と私の上の霊たちとの間の環であるように、彼らは、彼らよりさらに上の高級霊と私との間の環になっているのです。このようにして、この鎖は、私の目にも見えないような、はるかに高い、霊界の奥の世界にまで伸びています。

 私たちも、それらの鎖の繋がりの一番高いところまで登っていくことが出来るのでしょうか。

 出来ません。あなたはまだ分かっていませんが、地上の世界では、あなた方は自分自身のほんの小さな一部をあらわしているに過ぎないのです。あなた方の魂には、まだ顕現するための手段が備わっていないので、魂のすべての力を発揮することは出来ません。私自身は、魂の内部に深く入り込んでいけばいくほど、自分自身の力をより多く発揮することが出来ます。私たちが、クリスマスや復活祭のときに霊界へ還るのも、私たちが真の自分を少しでも取り戻していくためなのです。
 進化の過程ではあなた方はまだ子どもです。だから悲しんだりもするのです。あなた方の愛する人たちも、この霊界ではもっとよく自分の力を発揮しようとしていることを知ってください。

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 118.  (それでいてあなた方はなお死を恐れるのです)  

 あなた方はまだ霊界の楽しさを知りません。この地上世界では、霊界の生活と比べられるものは何もないのです。肉体の束縛から解放され、身体の牢獄から逃れ、行きたいところへは何処へでも自由に行くことができます。考えたことは形となって現われ、こころの赴くままに何でもすることもでき、お金の悩みなども一切ありません。このような霊界の生活の楽しさを、あなた方はまだ何も知りません。
 物質に包まれてしまっているあなた方には、本当の美しさは分かりません。あなた方はまだ、霊界の光、色彩、景観、木々、鳥たち、川の流れ、小川のせせらぎ、山々、花などを見ていません。それでいてあなた方は、なお、死を恐れるのです。

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 119. (あなた方は死んで初めて生きていくことになるのです)

 死は人々のこころに恐怖心を呼び起こします。しかし、あなた方は、死んで初めて生きていくことになるのです。あなた方は生きているつもりでしょうが、本当は、死んでいるようなものです。霊的な事柄については何も知らず、なんと多くの人々が死んだ状態でいるのでしょうか。小さな生命の光が弱々しい体の中でわずかに点滅しているだけです。霊的なことにはなんの反応も示そうとはしません。でも、地上では、少しずつですが進歩もみられます。地上の全世界で、霊力が少しずつその力を高めていきつつあります。霊的真理の光に照らされると、無知の暗闇も徐々に消えていくのです。
 霊界での生活を、あなた方の地上の世界の生活と比べようとしても、あまりにも違いが大きいので、言葉では説明できそうもありません。霊界にいて“死んだ”ことになっている私たちのほうが、生きているつもりのあなた方より、生については、はるかに多くのことを知っています。

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 120. (この霊界では言葉という不便なものはいりません)


  霊界というのは、芸術家が自分の持つすべての夢を実現できるところです。画家や詩人は、自分たちの願望を満たし、天才は十分に才能を発揮できます。地上での束縛は取り除かれ、すべての天賦の才能と適性がお互いの助け合いの中で役立っていきます。
 この霊界では、気持ちを表現するのに、言葉という不便なものはいりません。考えていることがそのまま生きた言葉になり、光のような速さで相手に伝わっていくのです。
 ここでは競争はなく、私たちを悩ますお金のようなものもありません。弱いものいじめも、差別もありません。強者とは、ここでは、自分よりも不幸なものへ何かを与えることが出来るもののことです。
 霊界では、失業はありません。貧民窟はなく、利己主義もありません。宗派のようなものはなく、私たちが持っているのは、ただ一つの宗教だけです。教典もなく、私たちは、神の法則の働きによってのみ導かれています。