霊訓原文41~80


 

 



 41. (地上で偉大な者が霊界でも偉大なのではありません)

 あなた方が神の法則を正しく学ばなければ、激しい苦痛と涙のなかで、或いは、流血の惨事と悲嘆のなかで、学ぶことになります。だからどうか私たちがお伝えしているように、お互いの愛と奉仕によって学んでいってください。そうでなければ、神の法則に背いて生きていくことにより、厳しい代価を支払わなければならないのです。地上で偉大な者が霊界でも偉大なのではありません。こちらの世界での偉大さは、魂の偉大さ、霊としての偉大さ、奉仕の心の偉大さです。これらの偉大さこそが、地上世界の小さな輝きが消えた後でも、いつまでも残っていくのです。

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 42. (自由意志というのは神からの贈りものです)

 自由意志というのは神からの贈りものです。しかし、それが正しく使われなければ、その報いを負わなければなりません。地上世界が神の法則に従えば、利益を受け、従わなければ、その責めを受けます。前者は、平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は、悲惨と戦争と流血と混乱を招きます。

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 43. (私たちは奉仕を心がけているすべての人々の味方です)

 この物質の世界では、私たちは、あなた方神の子らの教師であるべき人々から軽蔑をうけています。神の名と愛によりやってきた私たちは、本来ならば歓迎してくれるはずの人たちが、私たちを受け容れようとはしません。私たちはただ、奉仕の一念から、あなた方が自らこの世を救うことができるように、神の法則と霊の力をお教えしようとしているのです。
 霊的に盲目で無知にどっぷりと浸かっている人々、宗教的儀式や作法にがんじがらめに縛られ、いまここに示されている神の力をも否定しているような人々は、その代償を支払わなければなりません。私たちは、奉仕を心がけているすべての人々の味方です。破壊しか目指さないような人々には敵です。私たちは、愛と奉仕の精神に促されて、出来るかぎりどこででも、お役に立つためにやってきました。それが私たちが成し遂げなければならない大事業なのです。

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 44. (あなた方は神であり神はあなた方なのですから)

 人間には、性癖とか波動がありますが、これらは矯正できないことはありません。またあなた方は、自分たちの運命を左右するような放射エネルギーや様々な影響力に取り囲まれています。しかし、神はあなた方を神の分身とし神性の一部を授けられました。ですから、あなた方が自分の霊的進化に従って自由意志を正しく働かせたなら、内在する神性が十分に顕されるのを妨げるようないかなる障害をも乗り越えていくことができます。あなた方は神であり、神はあなた方なのですから。

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 45. (神はあなた方のうちに霊的成長の種を蒔かれました)

 神はあなた方のうちに霊的成長の種を蒔かれました。あなた方は庭師のようなものです。その種を育てて大きく花を開かせることが出来るかどうか、いつ花を開かせるかは、あなた方の努力次第です。いつでもあなた方には自由意志が与えられています。その種を暗闇に置いて、慈善や奉仕という霊的進化の光を与えないのであれば、あなた方に神が顕れることはありません。

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 46. (物的なものに眼を向ければ混乱が見えるだけなのです)

 一つ一つの経験があなた方の人生模様を形作っていきます。あなた方は、この世の出来事で永遠を判断しようとしています。しかし、物的なものに眼を向ければ混乱が見えるだけなのです。あなた方の全生涯には、神の糸が貫かれているのに、そのことは理解されていません。

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 47. (この大宇宙には調和という神の法則がゆきわたっています)

 この大宇宙には、調和という神の法則がゆきわたっています。そして、あなた方一人ひとりは、この神の法則に自分なりの役割を果たしているのです。生涯にはいろいろな出来事があって、時には辛いことも絶望することもあるでしょう。苦しみや惨めさを味わうこともあるでしょう。しかしそれらは、あなた方が少しずつ霊的に成長していくための歩みに、それぞれに役立っているのです。

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 48. (人生での様々な困苦は霊性を高めていくための道程です)

 明るさと暗さ、光と影はすべて、一である全体の反映であるにすぎません。影がなければ光はありませんし、光がなければ影もありません。人生での様々な困苦は、霊性を高めていくための道程です。困苦、障害、不利益などは、すべて霊的成長のための試練なのです。これらをすべて克服できた時、霊性は強まり、浄化され、深みを増し、より大きく成長を遂げていくことになります。

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 49. (苦難や痛みもなく魂の内在の力が発現出来るとお考えですか)

 苦難や痛みもなく、陰りや悲しみなく、苦しみや窮乏も経験しないで、無限の可能性を秘めた魂の内在の力が発現出来るとお考えですか。決してそういうことはありません。
 人生の辛酸を嘗め尽くしたあとで初めて、大きな喜びとこころからの笑いが味わえるのです。人生のどん底に深く落ちれば落ちるほど、それだけ高く昇っていくことも出来るということです。
 地上の暗い経験を十分に味わうことによって、その分、よけいに明るい太陽の喜びに浸ることが出来るようになります。

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 50. (様々な出来事はあなた方の進歩のために必要な出来事です)

 あなた方が経験する様々な出来事は、一つ一つがすべて、あなた方の進歩のために必要な出来事です。いつの日かあなた方は、肉体の束縛から解放され、物質で曇らされていない眼で、かつての地上世界での生活を振り返ってみることがあるでしょう。その時に初めて、かつて経験したすべての出来事は、ちょうどジグソーパズルのように、一つ一つが置かれるべきところに置かれていたことがわかるはずです。また、どの経験をとってみても、魂の進歩のための教訓でないものはなく、内在の可能性をよりよく理解させてくれるために必要であったこともわかるでしょう。

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 51. (どのような経験も魂の向上に役立たないものはありません)

 どのような経験もそれを正しく理解して立ち向かっていけば、魂の向上に役立たないものはありません。あなた方は、何の困難もなく、試練も障害もなく、痛みや苦しみのない物質世界を考えてみることができますか。それでは進歩はないでしょう。克服することは何もありません。ただ朽ちていくだけです。

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 52. (神とは宇宙の自然法則のことです)

 神とはなんですか。愛のことでしょうか。つまり、すべてに霊が宿り、愛を感じるということでしょうか。

 神とは宇宙の自然法則のことです。神とは、物質世界であれ霊的世界であれ、そこに存在するすべてのいのちを支えている創造力です。神とは完全な愛であり完全な叡智です。神とは、あなた方が知っているこのちっぽけな地球や、まだ地上では未知の天空を含めて、大宇宙の隅々まで、あまねくしろしめす存在です。
 神はすべてのいのちを満たしています。神はすべてのものに内在しています。神はすべての法則の内にあります。神は神です。神は愛です。神はすべてです。取るに足らない僕(しもべ)でしかないものが、どうして大いなる主を語れるでしょうか。ほんのちっぽけな想像力しかないものが、どうして神の無限の偉大さを伝えることができるでしょうか。

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 53. (何事も神の法則から離れて起こることはありません)

 神は一羽の雀が落ちても、そのことを知り給うといわれています。この地上には数え切れないほど多くの人々が住んでおり、霊界に旅立った無数の人々もいますが、神はどうして一人ひとりに起こることをすべてご存知なのでしょうか。

 神といわれるのは大宇宙の法則です。神はすべてのものに内在しており、万物は神です。魂は自分を知っているが故に、神も魂を知っています。雀は神なのです。だから神は雀を知っているのです。風にそよぐ木の葉にも神が宿っていますから、風にそよぐ木の葉も神です。地上であれ霊界であれ、宇宙であれ、地上ではまだ未知の天空であれ、どのような場所においても、神の法則が厳然として支配しています。何事もこの法則から離れて起こることはありません。ですから、神である自然法則の支配範囲にあるものは、すべて神に知られているのです。

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 54. (不完全には完全への種が宿されています)

 神はあらゆるものの中に在り、憎しみと愛、叡智と暗愚などすべてのものの根源であると、あなたは言われました。それでは、悪事を働く者も、善行を行なうものと同じように、神の法則の中で行動していることになり、戦争と憎しみを煽っている者も、平和と愛を説いている者と同じように、神の法則の下でそうしていることになります。人間は誰もが神の分身であって、神の法則を犯すことができないのであれば、この問題はどのように考えればよいのでしょうか。

 完全と不完全があって、不完全から完全になるわけですから、不完全には完全への種が宿されています。完全は完全から生ずるのではなく、不完全から生ずるのです。
 生命とは、進化向上し、上昇発展し、拡大顕現しながら伸展していくものです。善とか悪といっても、それは生命の発達過程の一段階に過ぎません。そこで終わってしまうわけではないのです。あなた方は不完全な理解で判断して、ここまでは善でここからは悪などと言っています。それはあなた方だけの考え方で、立場が変われば、また別の判断をするでしょう。しかし、神は立場にかかわらず、すべてのものに内在しているのです。

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 55. (宇宙の法則の支配を免れて存在するものは何一つありません)

 それでは地震に対しても神は責任があるのですか。

 神とは宇宙の法則のことで、あらゆるもの統帥しています。宇宙の法則はすべてを支配しているのです。宇宙には、この宇宙の法則の支配を免れて存在するものは何一つありません。地上では、地震や嵐や雷などがあなたのような人々にこのような疑問を持たせることを私も知っています。しかし、それらもすべて宇宙の一部なのです。宇宙のなかであなた方が進化しているのと同じように、宇宙も進化を続けています。この地上世界はまだ完全からはほど遠い存在ですし、完全に到達することもないでしょう。ただ、一段一段と進化していくだけです。

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 56.(地球は完全に向かって少しずつ進化しています)

 では神も進化しているのですか。

 いいえ、神は宇宙の法則で、その法則は完璧です。ただ、神でも地上に顕れた部分については、その顕現の仕方に限って、地上の進化に応じて進化しています。地球は進化を続けており、地震などはその進化のしるしであることを知ってください。地球は火と嵐のなかで誕生し、完全に向かって少しずつ進化しているのです。

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 57. (宇宙というのは神の反映であるにすぎません)

 宇宙とは別に神は存在するのですか。

  いいえ、宇宙というのは神の反映であるにすぎません。神というのは秩序です。ハエに世界のことがわかるでしょうか。魚に鳥の生活がわかるでしょうか。犬が人間のように理性で考えることが出来るでしょうか。星に大空のことがわかるでしょうか。あなた方にあなた方の人智をはるかに超えた神のことが理解できるでしょうか。
 しかし、あなた方でも魂を表現することは学ぶことが出来ます。口を閉ざして魂の静寂に浸っていけば、魂は神と交感することができます。そのときに初めて、神とあなた方は一つであることがわかるでしょう。これはことばでは表現できません。けれども、あなた方の魂の静寂のなかでは、そして宇宙のなかのすべての魂の内部では、そのことがわかるのです。

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 58. (霊というのは物質から霊へと進化するのです)

 霊は個の意識を得るためには物質界と接触する必要があるのですか。

 その通りです。霊が意識を持つためには、物質を通して化身となり、物質の経験をしなければなりません。霊というのは物質から霊へと進化するのです。つまり、肉体をもつことによって、その個性を通じて働きながら、個性としての自己表現が出来るということです。霊は肉体になってから初めて、自己を意識するようになるのです。

 もしそうならば、神は私たちを通じて経験を積んでいることになるのでしょうか。

 いいえ、あなた方の進化は、すでに完全であるものに影響を与えることは出来ません。

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 59. (あなた方が霊を進歩させているのではありません)

 でも私たちは神の分身ではないのですか。部分である私たちの進化がどうして全体である神に影響を与えないのでしょうか。

 神そのものは完全ですが、あなた方の一人ひとりを通して顕れている部分については完全ではありません。その部分についてのみ、あなた方の進歩が影響を与えます。霊はそれ自体が完全なものです。霊は宇宙の根源的要素です。霊は生命の息吹です。しかし、あなた方が完全でないために、あなた方を通して顕れる部分だけが不完全なのです。あなた方が進歩するに従って、より多くの完全性があなた方を通じて現れてきます。あなた方が霊を進歩させているのではありません。霊が自己表現するための肉体を進歩させているだけです。

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 60. (生命というのは鉱石を砕いて苦労して取り出す金のようなものです)

 霊が自己表現している肉体は移り変わっているのですか。

 そのとおりです。神の法則は完全です。ただ、あなた方を通して表現されている法則は完全ではありません。だから、完全な神の法則は、あなた方を通しては働かないのです。しかし、あなた方が完全に近づけば近づくほど、それだけ神の法則はより多く働くことができるようになります。
 ここに、鏡とローソクの光があるとします。鏡はローソクの光を映しだしますが、その鏡がひどく曇ったものであれば、ローソクの光のすべてを映し出すことは出来ません。その鏡を磨けば磨くほど、ローソクの光はより明るく映し出されることになります。
 あらゆるものが絶え間なく精一杯の自己表現を目指しています。生命というのは、鉱石を砕いて、磨きをかけ、苦労して取り出す金のようなものです。鉱石はよくないもので金だけはいいものだと誰が言えるでしょうか。

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 61. (だから私は善も悪もその両方を受け入れるのです)

 しかし、私たちはみんな善と悪との観念をもっています。

 それは今もっている善悪の観念であって、霊的進化のなかで到達した段階を示すものにすぎません。魂がもっと向上していけば、その善悪の観念はなくなっていきます。完全な法則でも自己表現しようとするとき、それが道から逸れてしまった不完全な媒体を通してしまうと不完全になってしまいます。あなた方の善悪の観念というのは、そのようにして生じる不完全さを表したものにすぎません。だから私は、善も悪も、その両方を受け入れるのです。

 それでは、神も最初は善ではなかったということになるのですか。

 私は初めのことは知りませんし、終わりのことも知りません。私が知っているのは、神は常に存在し続けてきたし、これからも存在し続けるであろうということだけです。神の法則は完全にはたらきます。仮に、あなた方が完全な光をもっているとしましょう。その光は、磨かれていないひどく曇った鏡にいくら映し出そうとしても、決して完全な光にはなりません。しかし、だからといって、光が不完全であるといえるでしょうか。光が悪であるともいえないのです。それは、魂には完全が内包されていても、その完全性をまだ表現する段階に達していないということです。あなた方が地上で悪と呼ぶものは、不完全性のことであって、完全な神を不完全に表現しているものにすぎません。

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 62. (すべての生命は神であり神はすべての生命です)

 創造する力のある存在または人格はただ一人だけであって、私たちには何一つ創造できるものはないというのは正しいでしょうか。

 神は、現在も、過去も、未来にも、いつでもおられます。すべての生命は神であり、神はすべての生命です。あなた方には創造する力はありません。ただ、あなた方が魂を磨けば磨くほど、浄化し進歩することはできます。磨くことが少なければ、あなた方の宇宙での地位は低いということになるでしょう。

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 63.(本当の祈りとは人のために奉仕できることを願う祈りです)

 祈るというのは大切なことなのでしょうか。

 それはどのような祈りであるかによって違います。無意味なことばの繰り返しであれば、まわりの空気を少し振動させるだけでしょう。しかし、神とできるだけ一体になり、神のみ旨に忠実に従っていくことを願って全身全霊で祈るのであれば、その祈りのゆえに、神のしもべとして、よりふさわしく強くなっていきます。祈りという行為は、自己をさらけ出し、こころを開くことによって、私たちすべてをひとつに結びつけていくものなのです。
  本当の祈りとは、人のために奉仕できることを願う祈りです。祈りとは、自分自身を霊界の高い霊力に同調させる手段です。私のいう祈りとは、誰かが意味もわからず書いたものをただ口先だけで繰り返すものではありません。魂が及ぶ限りの高さに達することを希求して、誠心誠意、熱心に祈る祈りのことです。そのような祈りをして、はじめて、あなた方は霊感に満たされ、強くなっていくことが出来ます。

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 64. (本当の祈りが無駄になることは決してありません)


 だれか他人のために祈るのは効果がありますか。

 そのとおりです。本当の祈りが無駄になることは決してありません。思考には力がありますから。

 心霊治療家が遠隔治療で祈る場合にも効果がありますか。

 はい、あります。いまあなたの質問では、治療家の個人に対する祈りについて答えてきましたが、この祈りは広く一般にもその効果が及ぶことがあります。祈りによって、心霊治療家の心霊エネルギーが放出され、そのエネルギーを霊界の支配霊たちが利用できるのです。

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 65. (何かをお願いするだけの祈りは本当の祈りではありません)


 どうしても助けが得られない時には霊界の霊たちに助けを求めてお祈りしてもよろしいのでしょうか。

 真心をこめて祈るのであれば、その祈りによって、高位霊の霊力に縋ることができるようになります。祈りというのは、その行為そのものが魂を開かせます。ただ、それは全身全霊のこころのこもったものでなければなりません。ただ何かをお願いするだけの祈りは、本当の祈りではありません。そのことを十分に理解したうえでの祈りは大きな霊的行為です。祈りとは目的に対する手段として考えるべきであって、決して目的そのものではないといえば、もっとよくおわかりいただけるでしょうか。
  祈りにはただひとつの祈りがあります。その祈りとは、「どのように奉仕すればよいかお教えください」と祈ることです。あなた方が、神と人類のために奉仕したいと願うとき、これに勝る仕事はありません。これに勝る愛はありません。そして、これに勝る宗教と哲学もありません。どのように奉仕するかは問題ではありません。神の法則の霊的な真理を述べ伝えていくか、飢えている人に食事を与えるか、あるいは、人々のこころのなかの暗闇を取り除いていくか、奉仕の仕方はいろいろとあります。要するに、奉仕することが何よりも大切です。

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 66. (そんなことより私の言いたいのはつぎのことだけです)


  自分のことは考えずに、他人のために尽くそうとすればするほど、あなた方は自分に内在する神である魂を、それだけ余計に高めていくことになります。至って簡単なことなのです。それなのに、人々は、教会のようなものを建ててはわけの分からない説教をし、私にも理解できないことを長々としゃべり、宗教のためと称しては、堅苦しい儀式を重んじたりしています。
 そんなことより私の言いたいのはつぎのことだけです。どうか皆さん、出て行って、倒れている人がおれば立ち上がらせてください。疲れている人には眠らせてあげてください。飢えた人には食べ物を、のどが渇いた人には水を、そして、暗闇で悩んでいる人には、新しい真理の光を与えてあげてください。そうすれば、偉大な神の愛の力があなた方を通じてはたらくことになるでしょう。

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 67. (かえって進歩を遅らせることになる願いは叶えられません)


 祈りが聞き届けられないと思われることがよくあるのですが、それはなぜでしょうか。

 誰のうちにも、人間的な部分と神の部分との間の葛藤があります。神の部分が勝るときには、あなた方は神とひとつになっていることを感じるでしょう。人間的な部分が勝利しているときには、心は満たされません。あなた方は自分に都合のよいと考えている道を選ぼうとしますが、それよりも、あなた方が自分たちにできる最大の奉仕の道を選ぶべく導かれようとしているのです。
 この交霊会には、毎日毎晩、一団の霊たちが訪れてきています。彼らは、一人ひとりが、自分の霊的進歩の機会を犠牲にしてまでも、この地上の暗黒部分を照らす光の輪を作り出そうとして努力しています。このような大きな使命に比べれば、地上の小さな悩み事などは問題ではありません。
 世の中には、眠る場所や休む家もなく、夜空の下に、神の星を唯一の光として頼りながら嵐や雨に体を曝している人がいます。また、自分たちの体を支える十分な食べ物も取れないで飢えている人もいます。これに比べれば、あなた方の悩みなど、神の眼から見て、決して大きいとはいえないのではないでしょうか。
 あなた方は時には、魂の向上に何の役にも立たず、かえって進歩を遅らせることになる願いをすることがあります。そのような願いは叶えられません。魂の進歩がみられないのに、高望みだけをすることもあります。それらの望みも叶えられません。あるいはまた、あなた方の願いは、それが叶えられるようにすでに用意されていても、しかるべき時期がくるまで、待たされているようなこともあります。神は、あなた方のこころの中にある願いは、それらを声に出すまえに、すでに十分にご存知であることを知らねばなりません。

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 68. (口先だけの祈りであるなら声を浪費しているだけにすぎません)

  教会で毎日行なわれている祈りは役にたちますか。

 誰が祈っているかによります。それが口先だけの祈りであるなら、それはただいたずらに声を浪費しているだけにすぎません。しかし、こころを込めた祈りであり、真剣に切望し、神にまで聞き届けられることを願いながら祈るのであれば、その願いは翼に乗って高く霊界の聖域にまで達することになるでしょう。

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 69. (こころからの祈りにはすべて力があります)

  例えば、小さな子どもが酔っ払いの親を直してほしいと祈る場合、その祈りには効き目はありますか。

 こころからの祈りには、すべて力があります。その力がどれだけ現実の効果を及ぼすかはいろいろと状況によって異なります。あなたのご質問の場合は、小さな子の祈りの力が親の魂に届くこともありますし、親の魂が霊的なものからあまりにも離れすぎて、祈っても魂には届かないこともあります。その親の魂の状態が問題なのです。だから、その質問に対しては、効き目があるとも、ないともいえません。

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 70. (祈りは導かれれるために光を求めようとする魂の叫びです)

 祈りは霊界にいるある霊がそれを聞いてくれるのですか、それとも、その祈りの波長に同調する霊界の力を求めなければならないのですか。

 祈りとは魂のほとばしりであることをまず理解してください。祈りは、導かれるために光を求めようとする魂の叫びです。その祈るという行為自体が答えをもたらせます。念じている力が作用し始めるからです。
 祈りは答えを引き寄せる原因であり、答えはその結果です。霊界の霊があなたの祈りを待ち受けている必要はありません。あなたの魂がどれだけ進歩しているかによって、あなたの祈りは霊界の多くの霊たちにすぐにでも届いていきます。
 多くの霊たちは、地上の世界のために尽くそうとしていますから、あなたの祈りには力を貸そうとするでしょう。思念は霊力の一部なので、あなたが念じていることがさらに大きく力を持ち始めます。そして、あなたの魂の進歩の度合いによって、それに相応する分だけ宇宙の力があなたに働くようになります。つまり、あなたは、自分の及ぶ範囲の霊力を自由に使えるようになるのです。
  祈る人の魂の進歩の程度によっては、求めている理想に思念を集中して祈る必要があるかもしれません。それが、その人にとって有効であるならば、それはそれでよろしいでしょう。ただ、祈りにとっては、神、生命の法則、宇宙の摂理などが特に大切であることを忘れてはなりません。
 神は完全であるが故に神の摂理も完全です。あなた方に内在する神の部分も完全で、それは常に自己発現を求め続けています。あなた方が祈りや奉仕によって、その自己に内在する神性を発現している時には、神そのものがあなた方を通して顕現されていることになるのです。祈りによってであれ、奉仕によってであれ、人の魂を、あるいは自分の魂を向上させようと努めるときには、それらがすべて、あなた方の魂の進化に結びついていきます。

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 71. (祈りというのは神に近づいていきたいという魂の願いです)

 もしすべてが厳然とした不変の法則で支配されているのなら、神に祈る理由はあるのでしょうか。祈りというのは、祈る人本人に対して神がすでに定めた法則に神自身が干渉するようにお願いすることになりませんか。

 私が理解している祈りはそういうものではありません。祈りというのは、神に近づいていきたいという魂の願いです。祈りとは、神を表現することであり、祈る人がそれまで達することのできなかった霊界の高い次元へ昇っていこうとする魂の表現です。不正というものはありません。えこひいきもありません。祈りとは、ただ、自分の魂を高めて、より多く神を表現したい、そして、豊な神の宝物をより多く受け取れるようになりたいと願うことにほかなりません。神の豊かさは無限です。そして、その神の無限の豊かさを表現していくことを学びながら、あなたの魂も無限に豊になっていくのです。

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 72. (神に赦しを乞うだけで法則が手加減されることはありません)

 私たちはなぜ神に罪をお赦しくださいと祈るのでしょうか。私たちが神の掟に背いたのであれば、すぐにでも罰が下されるのではないでしょうか。

  神に赦しを乞うだけで、法則が手加減されることはありません。代償はかならず支払わねばなりません。ただ、あなたが神の赦しを求めて祈るということは、あなたが神の法則との調和を求め始めたということになります。あなたは、自分自身の魂を見つめ直し、深く内省し始めているということです。そのことによって、あなたの魂の進歩は本当に始まるのです。

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 73. (この大宇宙で最も偉大な神の法則にだけ従ってください)

 信条への隷属が地上での病癖のひとつです。これは疫病より悪く、肉体を蝕む病気よりももっと悪いといえるでしょう。それは魂を蝕む病いだからです。魂を盲目にしてしまうのです。
  それなのに地上の人々は、神の無限の叡智が勝手気ままに歪められてしまっている信条にしがみつこうとします。世の中には、牢獄に入れられてもそこに安住して幸せを感じるような人々もいるものです。自由とは、自由を本当に楽しむことを知っている人たちだけのものにすぎません。信条のくびきから抜け出ることができた人は幸せです。また、他の人々の魂も高めながら、その人たちが信条から抜け出せるように努めている人も幸せです。
 私たちはどのような信条も、祭典も、儀式も必要であるとは申しません。ただ、神の子らを通じて顕現しようとしている神の愛があることだけを、お教えしようとしているのです。どんな経典にも、教義にも、指導者にも、権威にも、古文書にも、学識にも、どうか皆さんは従わないでください。聖遺物のようなものは拝まないでください。ただひとつ、この大宇宙で最も偉大な神の法則にだけ従ってください。この神の法則だけが、唯一で至上の権威なのです。


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 74. (教会といわれているものの多くは暗黒時代の遺物です)

 教会といわれているものの多くは暗黒時代の遺物です。そのような教会の建物の中に神が閉じ込められているのではありません。神はどこにも存在するのです。石を積み上げて高い尖塔を造り、ステンドグラスの窓をつければ神は喜ばれると彼らは考えます。
 しかし、神が喜ばれるのは、そんなことより、神が放つ太陽の光が神の子らのこころを明るくし、神が降らせた雨が神の子らの穀物を大きく実らせる時です。しかし、この神の豊かさと神の子らの間には、しばしば、教会や政治家や資産家らが立ちふさがってしまうのです。これらはすべて、取り除かなければなりませんし、いまでは取り除かれつつあります。

 

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 75. (ナザレのイエスの光輝はいまも衰えていません)

 霊力は過去だけのものと考えてはなりません。かつてナザレのイエスが示した霊力は、いまも働いているのです。その当時、教会の指導者たちは霊力を認めず、それを悪魔の仕業だと言いました。今日でもイエスの時と同じ霊力が働いていますが、やはり教会の指導者たちは、それを認めようとはしません。でも十字架にかけることまではしませんから、世の中も少しは進歩しました。
 ナザレのイエスの光輝は、その当時だけのものではなく、いまも衰えていません。イエスは今どこに居られるのでしょう。イエスの生涯の物語はエルサレムで終わってしまったのでしょうか。この世の中が、悩みと悲しみと災いに満ちている時に、イエスの偉大な魂は、どこかほかのところに在るとお考えですか。
 現在、私たちを拒絶し、私たちが暗黒の世界の教えを説いていると言っている人たちは、かつてナザレのイエスを糾弾した人たちと同じ徹を踏んでいます。私たちはこの地上に、イエスの時と同じ神の力に守られてやってきました。そしてイエスの時と同じ霊の啓示と、「悲しむ者を慰め、病める者を癒し、暗闇に沈む者に光を、苦しむものに安らぎを、疲れた者には力を与えなさい」という教えとをもたらしているのです。

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 76. (奉仕があればそこには安らぎと幸せがあります)

 私たち霊団の者はみんな神への奉仕者です。その中では何人かが魂を多少進化させてきました。その人たちが、進化した霊性のゆえに、いま地上へ戻ってきて人々のために奉仕しているのです。奉仕することが生命の法則だからです。奉仕のないところには、荒廃があるだけです。奉仕があれば、そこには安らぎと幸せがあります。あなた方のこの地上の世界には、お互いに人々が奉仕しあうという新しい生活のあり方を創り上げなければなりません。これはとても簡単なことです。しかし、人々はこれをひどく難しいものにしています。

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 77. (従わなければならないのはただひとつ神の法則だけです)

 神に仕えていると称する聖職者には、学び直さなければならないことが沢山あって気の毒です。彼らは砂上に楼閣を築き上げ、霊的な真理の批判を受けるとそれに反発して、砂上の楼閣を懸命に擁護しようとします。彼らの教会の建て方は間違っていました。彼らは、ナザレのイエスをお伽話にくるみ、イエスを神そのものに祭り上げてしまったのです。しかし、そのことがそもそも間違いなので、今度は徐々にそれを打ち壊していかねばなりません。壊そうとしながら、恐怖にとりつかれているのです。
 彼らはすべてを失ってしまうのではないかと怖れています。本当は、彼らがもし事実に基づき、自然の法を根拠にして教会を建てたのであれば、なにも打ち壊すものなどはないはずなのです。
 そのような状況を見かねて、私たちはこの地上に戻ってきました。どうかあなた方は、それが誰であっても、一人の人間、一冊の経典、一つの教会、一人の指導者、この地上の世界であれ霊界であれ、いかなる者にも、決して盲従することがないようにしてください。従わなければならないのはただひとつ、神の法則だけです。神の法則だけが正しく、決して誤ることも狂うこともないのです。
 だからこそ、私たちは自然の法を説くのです。説くのは自然の法だけです。それをあなた方がスピリチュアリズムと呼ぼうと、なんと呼ぼうとかまいません。その教えが神の自然の法則を意味し、その法則がこの地上の世界の目に見える生命にも、そして、あなた方の目に見えない霊界で知られている生命にも、すべての生命の隅々にまで働いているのだということが理解できてさえいれば、その教えにつける名前はどうでもいいのです。

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 78. (神の法則はあらゆる知識とも矛盾なく調和します)

 地上の世界では、教会の指導者たちを重んずるあまりに、彼らを実像以上に過大に祭り上げるようになってしまいました。そのために地上では、難しい神学が作り上げられてしまったのです。精神の自由を求め、理性に反することを受け容れようとしない科学者や哲学者や一般の誠実な人々にとって、この神学はあまりにもわかりにくくなりました。
 だからこそ私たちは、神の法則の大切さを強く訴えているのです。真に理解さえすれば神の法則はあらゆる知識とも矛盾なく調和します。神の法則は、いかなる場合にも、科学者、哲学者、自由人その他、誰の心にも反発をもたらすことはありません。それは、永遠にして不変不易の、神の働きの上に築かれているからです。

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 79. (地上の世界も神法に従順になることを学んでいくでしょう)

  私たちには、地上での教化に活用できるように、霊団の叡智が授けられています。地上の世界も、叡智と理解力が増していけば、神の法則に従って生きていくことを学ぶでしょう。神法に従順になることを学んでいくでしょう。地上生活のなかで繰り返される数多くの悲劇、飢餓、苦しみ、心痛などは、すべて神の法則に従わないことから起こることを、人々は知らねばなりません。
 神の法則が十分に理解される時がくれば、神の園が目も当てられないほどに荒れ放題にされることもなく、神の子一人ひとりに、その美しさが楽しめるようになるでしょう。そのようにさせることが私たちの目的です。人類の魂を自由にし、精神を開放するばかりでなく、物質である身体にも、神の法則と調和して生きていくことができるように、私たちは努力しているのです。

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 80. (教会は真理に反対するための場所になってしまいます)

  私は、教会の聖職者たちにはがまんできません。彼らはこの地上で知られてきた偉大な真理を宣べ伝えていく折角の機会をもちながら、その機会を利用しようとはしないのです。
 私は、イエスに仕えようとしている聖職者たちがイエスを裏切っていることに、ががまんできません。
 イエスは人の鑑であるのに、彼らはイエスを人間から引き離して神に祭り上げ、人々の手の届かない天国の彼方に押し上げてしまっていることが、がまんできません。
 教会のドアには、「私たちは真理に忠実であって、忠実なのは真理に対してだけである」とは書かれていません。むしろ彼らは、「私たちは信条について説教します、教義を支持します、儀式は行ないます、祭典を重んじています」などと言うのです。これでは、教会は真理に反対するための場所になってしまいます。
 勿論、聖職者になって人々への奉仕に努めている立派な人々もいます。そういう人も決して少なくはありません。私は、そのような人たちまで批判しているのではないのです。私が批判しているのは、真理への道を歩まない教会の組織です。教会は、古いカビの生えた決まり文句を繰り返すだけで、活き活きとした生命のエネルギーに溢れる霊力が発現する場にはなっていません。